戻る | 続き | HOME

  contract 05  

僕は誘に振られたらしい.
鈍感な僕は,それに気づくのに三日もかかってしまった.
誘は機嫌が悪いだけと思いこんで,……いや,そう思いたくて,彼女につきまとった.
「もう私の前に,姿を現さないでくれ.」
迷惑そうな顔ではっきり言われて,僕は誘に嫌われたことを悟った.
重い足を引きずり,教室から出て行く.
いつも彼女の隣の席に座って,授業を受けていた.
経済学部アリーナ席のバカップルとまでウワサされていたのに.
僕はどこへ行くでもなく,ふらふらと構内をさまよい,
「ひどい顔色だな,聡.」
楽さんに捕まった.

***

今日も私は,教室の中で男どものいやらしい視線に囲まれる.
いくら私が異性を誘惑する悪魔とはいえ,不快なことこの上ない.
兄が楽しそうに大学に通っているので,ならば私もと安易な気持ちで追いかけたのだが.
確かに人間の学問は興味深く,授業はおもしろい.
しかしそれを差し引いても,男どもの視線がうっとおしい.
じろじろとなめ回すように,私の体を眺めている.
授業が終わり,私は足ばやに教室から出る.
食堂に向かって構内を歩いていると,兄に呼び止められた.
「誘! 怖い顔をしているな.」
「余計なお世話だ,兄者.」
なんと兄の隣には,聡がいるではないか.
つい三日前まで恋人の契約をしていた彼を見ると,胸がざわつく.
だから彼の顔は見たくないのに.
「誘,楽さんから事情はすべて聞いた.」
聡は力なくほほ笑んだ.
「正直,信じられないけれど,……信じるよ.」
まさか兄は私たちが悪魔であることを教えたのか.
私は非難の意味をこめて,兄の顔をにらみつける.
「僕が誘に渡した手紙のせいで,誘の性格まで変わったなんて気づかなかった.」
ごめんと謝る聡に,私は羞恥心を覚えた.
あのとき私はおろかにも,彼の手紙を悪魔の契約書にした.
自分が聡に好かれる女性になるように,自分で仕向けた.
つまり人間らしく言えば,好きな男の前でぶりっ子をしていたのだ.
「それはお前の責任ではない.私が勝手にやったことだ.」
むしろ聡はこの件で,私を責めてもいいだろう.
「誘,」
聡はかばんの中から,一通の封筒を取り出す.
「同じことを書いた.受け取ってほしい.」
私は思わず,あとずさった.
――もしよかったら,笑顔を見せてくれませんか.
手紙の文章が,鮮やかによみがえる.
「嫌だ.絶対に受け取らない.」
ぐらぐらと心が揺れる.
――君のそばにいさせてくれませんか.
聡の澄んだ瞳を見るだけで.
――僕の恋人になってくれませんか.
同じ過ちを繰り返す.
きっと何度でも,受け取ってしまう.
「そうだよね.」
聡は笑って,手紙をびりっとやぶいた.
「何を!?」
私は動揺し,手を伸ばした.
「おい,聡.」
兄も驚いている.
「誘は受け取って,契約したそうだったぞ.」
「うるさいぞ,兄者!」
私はかっとなって言い返した.
「すみません,楽さん.せっかくのアドバイスを無視してしまって.」
聡は兄に対して謝る.
「誘.」
真正面から視線をからめられて,私はどきりとした.
「契約には頼らない.手紙は二度と書かない.僕は口下手だけど,」
聡はぎこちなく,にこりとほほ笑む.
「がんばって追いかけて,誘に恋人になってもらうまで口説くよ.」
くらっときた.
初めての告白のときも,声は震えているくせに,まなざしだけは強くて.
「もう背中は押してやらないぞ.」
兄がおどけて肩をすくめる.
私は苦笑した.
「そして契約書も必要ない.」
最初から,ただ彼の手を取ればよかっただけなのに.
勝手に契約書を作り,勝手に振り回された.
聡は優しく私を見つめて待っている.
遠回りをしてしまった,素直じゃない悪魔を.
「待たせたな,聡.」
私は笑って,彼の胸に飛びこんだ.

***

本当は少し,誘は無理をしているのじゃないかなと感じていた.
こんなにも明るくて,よくしゃべるタイプには思えなかったから.
彼女には,一種独特の静かな雰囲気があった.
だから違和感はあったのに,僕は気づかなかった.
誘が僕を好いてくれているのに,浮かれてしまって.
「初めて,誘の笑顔を見た.」
「初めて? ――いつもお前の前で,へらへらと笑っていただろう?」
腕の中で不服そうに言い返す誘に,僕はにっこりと笑った.
「悪魔でも人間でも,どんな性格でも好きだよ.」
彼女はぎょっとして,目を大きく見開く.
がんばって口説いてみたのだけど,失敗だったかな.
「ごめん,女性を口説くのは慣れてなくて.」
誘の顔が見る見るうちに赤くなる.
「とりあえず今の気持ちを言ってみたのだけど,」
彼女に恋人になってもらうために,もっと精進しなくては.
「もういい! これ以上しゃべるな!」
誘が叫ぶ.
「すでに口説く必要はない!」
「誘,ぜひ僕に口説くチャンスを与えてほし,」
僕は彼女に,両手で口を押さえつけられてしまった.
「そういう意味じゃない!」
楽さんが「お前ら,楽しすぎ.」と,ひざをたたいて笑う.
少しだけ遠回りをしたのかもしれないけれど,二人の恋を大切に育てていこう.
戻る | 続き | HOME
Copyright (c) 2008-2012 Mayuri Senyoshi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-