戻る | 続き | HOME

  contract 03  

お兄ちゃんは悪魔.
楽しいことが大好きな悪魔.
今のお兄ちゃんの楽しいことは,日本の古典文学を学ぶこと.
自分のお兄ちゃんなのだけど,相当に酔狂な悪魔だと思う.
悪魔は基本的に人間と契約するときしか,地上に上がらないから.
契約していないのに地上にいる悪魔は,お兄ちゃんぐらいじゃないかしら.
でもそんなお兄ちゃんの影響を受けて,あたしは日本にやってきた.

あたしは,向かいの席で辞書を引く聡君の顔を,ちらりとのぞき見た.
今日は二人で,図書館でレポート作成.
彼は,第二外国語の中国語のレポートを書いている.
あたしも中国語にすればよかったな.
フランス語を選択するのじゃなかった.
ラテン語から派生した言語だから覚えやすいだろうと,それだけの理由で決めちゃったのよね.
あたしたちは悪魔だから,ラテン語は得意なの.
日本語は慣れてないから,大変.
しかも日本の古語なんて,大変どころの騒ぎじゃない!
あぁ,お兄ちゃんお勧めの一般教養なんて取るのじゃなかった.
レポートがぜんぜん進まない.
だって源氏物語って,まったく理解できないわ!
光の君は,なんて不誠実な男なの!
悪霊になっちゃう六条の御息所の気持ちが分からないわ!
聡君の方が,ずっと素敵なのに!
「誘ちゃん?」
「は,はい?」
目を上げた彼と視線がぶつかって,あたしはどきりとした.
う,見つめていたのがばれちゃったかも.
あたしはごまかすために,「聡君って字がきれいよね.」と笑った.
「ありがとう.」
彼は,力なく笑い返す.
レポートの字もきれいだけど,あたしがもらった手紙の字もきれいだった.
とても大切な手紙だから,いつも持ち歩いているの.
「つまらないよね?」
聡君が唐突に,妙なことを言い出した.
「何が?」
彼の目が不安そうに揺れている.
そして「ごめんね.」とつぶやいた.
「どうして謝るの?」
彼の不安の正体が分からなくて,あたしは問い返す.
あたしたちの交際は順調で,けんかひとつしていないのに.
シャイな聡君が,あたしのことを“誘ちゃん”と呼んでくれるようになったのに.
「僕は免許も車も持っていないから.」
「あたしだって持っていないよ.」
なぜだか彼は,ものすごく落ちこんでいる.
「サークルだって,地味な将棋サークルに入っていて,」
「あの,……あたし,聡君さえいいなら,一緒に将棋サークルに入りたい.」
「え?」
聡君は本気で驚いたらしく,目を丸くした.
同じサークルに入りたいなんて,ずうずうしいお願いだったかも.
「僕はうれしいけれど,――軽音部と兼部するの?」
「へ?」
今度はあたしが驚く番だった.
「あたし,どこのサークルにも入ってないよ.」
言ってから,あたしは彼の発言の裏にあるものに気づく.
あいつらだ.
入学したてのとき,あたしを無理やり軽音部に入れようとした男たちだ.
名前は忘れちゃったけれど,あのいやらしい,にやけ顔は忘れられないわ.
入部もお付き合いも,はっきりと断ったのに.
その腹いせで,聡君に何か悪いことを言ったんだ.
「あたしが好きなのは,聡君だけだから.」
むかっときて,あたしは宣言した.
「今だって一分一秒ごとに好きになっている.」
初めて彼があたしの前に現れて,告白をしてくれたときから.
「聡君の,優しいところや誠実なところや控えめなところ,すべてが好きなの.」
もどかしくなるときもあるけれど,あたしを大切にしてくれていることが分かるの.
それがとてもうれしいのよ.
「誘ちゃん.」
聡君がほおを真っ赤に染める.
「その,」
瞳がおどおどと泳いで,彼は机の上の荷物を片づけ始めた.
「出よう.まわりの人たちが聞いているよ.」
はっと気づいて周囲を見回すと,確かにあたしたちは注目を集めている.
机で勉強している人たちや,本棚のそばにいる人たちがみんな,こちらを眺めていた.
と,図書館で告白してしまったぁ!
かーっと顔が熱くなる.
聡君に恥をかかせたかも,――ううん,思いっきり迷惑じゃない!?
あわてて,机の上のペンやノートをかばんにつっこむ.
「行こう.」
彼が手を差し伸べてきた.
「ええ!?」
初めてのことに,あたしは動転してしまう.
「ごめん,調子にのった,」
彼が引っこめる手を,あたしは両手で,がしっとつかんだ.
「手をつながせてくださいぃ!」
つないだ後に叫ぶ,間抜けなあたし.
かすかな笑い声が,まわりで起こった.
もはや本の整理をしている職員の人まで,あたしたちを見ている.
「逃げよう.」
「うん.」
おたがいに赤い顔を見合わせて,あたしたちはそそくさと立ち去る.
まるで物語の中の,駆け落ちする男女のよう.
図書館から抜け出すと,すごく楽しい気分になって,あたしたちは笑いあった.
戻る | 続き | HOME
Copyright (c) 2008-2012 Mayuri Senyoshi All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-