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  contract 02  

彼女と付き合ってから,男からの視線がものすごく痛い.
同じ経済学部はもちろん,商学部,教育学部,果ては理学部まで.
彼女のファンは多い.
そしてそれは当然だと思う.
ウェーブのかかった黒髪に,白い肌.
ぱっちりとした目に,ふっくらとした唇.
大きな胸に腰のくびれに,じろじろ見てはいけないと思いつつ,視線がいってしまう.
夜のバイトをしているとか,男をとっかえひっかえしているとか.
悪いウワサを何度か聞いたことがある.
けれど彼女と同じ授業を受けていたら,ウワサはすべてうそだと分かる.
彼女はいつも授業が始まる十分前には,教室の前の方の席に着席している.
後ろの方の席で,携帯をいじったり化粧をしたりする学生とは,一線を画している.
僕は彼女の,そういう真面目なところや,りんとしたたたずまいが好きになった.

僕は掲示板の前で,小さくラッキーとつぶやいた.
午前の授業が,担当教官の都合により休講になっている.
午後まで,どこで時間をつぶそうか.
図書館に行くか,それともサークルの部室に行くか.
ひさびさに,指したいな.
僕はサークル棟へ足を向けた.
そのとき僕の視界の中を,他の男と腕を組んで歩く角田さんが横切る.
瞬間,頭が冷えた.
楽しそうに笑いながら男としゃべる彼女に,僕は立ちつくす.
そう言えば,ウワサのうちのひとつに,彼女には本命の彼氏がいると,
「聡君!」
彼女が僕に気づいて,にこにこと笑いながら駆け寄ってきた.
予想外のリアクションに,僕はとまどう.
「今から授業?」
無邪気な質問に,僕はしどろもどろになった.
「休講になったんだ.だから将棋サークルの……,」
男が近づいてくる.
せいかんな顔つき,がっしりとした体つき.
テニスのラケットが入ったかばんを肩から下げて,体中から自信と余裕があふれている.
情けないことに,同じ男として勝てる要素がない.
「話は誘から聞いてるよ.俺は文学部四回生の,角田楽(がく)だ.」
彼は親しげに,僕の肩をたたいた.
「これからも妹をよろしくな.」
「へ?」
僕は間抜けに口をぽかんと開ける.
妹?
「へ,じゃねぇよ.」
楽さんは,あきれた様子だ.
「誘は変な男にからまれやすいんだ,ちゃんと守ってくれよ.」
「はい.」
兄妹?
よく見れば,目もととかそっくりじゃないか.
理解したとたん,自分が情けなくなる.
彼女を疑ってしまったなんて.
僕は心のどこかで,彼女に関する悪いウワサを信じていたのか.
なんて馬鹿な男なんだ!
「よかったな,誘.聡が守ると誓ってくれたぞ.」
楽さんがからからと笑うと,角田さんは真っ赤になった.
「深い意味はないよ,お兄ちゃん!」
耳まで真っ赤で,……その表情はかわいすぎる.
「聡君に迷惑だから,変なことは言わないで.」
「迷惑じゃないよ! 僕でよかったら,いくらでも,」
守りたいというか,守らせてほしいというか.
「いや,たいしたことはできないけれど.」
するといきなり楽さんが,どんと角田さんの背中を押した.
「うわっ!?」
前のめりにこけそうになる彼女を,僕はとっさに抱きとめる.
柔らかい体が腕の中に収まって,体中の血が沸騰した!
「ごめんなさい!」
角田さんが慌てて逃げる.
「僕こそ,ごめん!」
ぱっと両手を上げて謝った.
おたがいにごめんなさいと言い合っていると,楽さんが腹を抱えて笑う.
「お前ら,おかしすぎ.」
目じりの涙をぬぐって,ひいひいと大笑いだ.
「中学生の恋愛じゃないのだから!」

***

教室の大きな窓から差しこむ夕日を浴びて,彼が私に告白をしたとき.
私は初めて,人間の男に,――いや,異性というものに心を揺さぶられた.
まっすぐに私の目を見つめる,聡という名の男.
私の外見ではなく,心を見つめているのではないか.
私の体ではなく,魂を求めているのではないか.
乾いたのどをうるおすように,彼がほしくなった.
彼の願いを叶えたいと思った.
そして都合のいいことに,私の手には彼の署名入りの手紙があったのだ.
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