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  contract 01  

午後の授業が終わった,人がまばらな教室の中で.
彼が何かを決意した顔で,私の前に現れたとき.
彼のかすかに震える声を聞きながら,私は思った.
彼の想いに応えたい,彼のそばにいたいと.
そして都合のいいことに,彼は私に恋心をつづった手紙をくれた.

「おはよう.」
階段教室の中で,少し緊張した声が背中にかかる.
あたしは特上の笑顔で振り向いた.
「おはよう,聡(さとし)君!」
彼は,はにかんだ笑顔でこたえてくれる.
あたしは隣の席に置いていたハンドバッグをどけて,足もとに移動させた.
聡君は,隣の隣の席に腰かける.
「バッグを置いていいよ.」
と,二人の間の席を示した.
「床に置いたら,汚れるよ.」
「うん,ありがとう.」
彼の優しさがうれしいのだけど,ちょっとだけもどかしい.
あたしの隣の席に座ってくれたらいいのに,二人の間に荷物なんて置きたくないのに.
でも!
そんな不満は,聡君がそばにいてくれることに比べたら,小さい小さい!
まだ付き合ったばかりなのだから,あせりは禁物!
あたしが自分をふるいたたせていたら,彼は一枚の紙を差し出した.
「これ,昨日のメールで約束した,……僕の時間割.」
わざわざ用意してくれたんだぁ!
感動のあまり,あたしはばんざいしたくなる.
「あたしの時間割はこれ!」
一生懸命にきれいな日本語で書いた時間割を手渡す.
聡君は,あたしの時間割を見て,なぜかくすっと笑った.
「やっぱりだ.」
「え?」
彼の笑顔にどきどきしてしまう.
「角田(つのだ)さんは,授業を多く取っているのじゃないかなぁと思っていたから.」
すごくほめられたような気がして,あたしは動転してしまった.
「たいした量じゃないよ!」
「いつも真剣に授業を聞いているよね.」
聡君は,にこにことほほ笑む.
あたしは顔が真っ赤になるような気がした.
「僕も,もっと履修すればよかったな.」
ぼそりとしたひとり言のようなつぶやきを,あたしは都合よく解釈してしまう.
それは,あたしと一緒に授業を受けたい……?
勘違いかもしれないけれど喜んでいたら,彼がぱっと顔を赤らめた.
「いや,その,――角田さんに付きまとうつもりではないんだ!」
「ごめん,ずうずうしくて.」と謝るのだけど,あたしは付きまとってほしいの!
けど恥ずかしくて,そんなはっきりしたことは言えない.
あたしは「そんなことないよぉ.」とごにょごにょとしゃべった.
あたしと聡君の間にある距離.
イスひとつぶん,あたしのハンドバッグひとつぶん.
今は照れちゃうし,遠慮しちゃうしで遠いけれど,少しずつ縮めたいの.
あたしは,彼の時間割をできるだけ,さりげなく眺めた.
二人一緒に受けられる授業が,一,二,三……,
「同じ授業が六つしかない.」
同じ経済学部の一回生なのに.
一般教養なんて,ことごとくちがう授業を取っている.
「ごめんね.」
聡君が心から,すまなさそうに謝ってくれたので,
「いいの,気にしないで!」
あたしは悲鳴のような声をあげた.

あたしの名前は,角田誘(ゆう).
もちろん偽名.
あまりにもあたしの正体そのままな偽名に,お兄ちゃんのセンスを疑っちゃう.
大学に入ってから,あたしの本性のせいで,変な男にばかり追いかけられていた.
正直な話,大学はやめようかなぁと思っていたけれど.
今はやめるつもりは,まったくない.
聡君が告白してくれた日から,あたしは変わったの.
昨夜なんて,初めて携帯でメールできたし!
今日は時間割を交換できたし!
これで偶然会えることをひたすら待つ日々とは,おさらばよ.
あたしは聡君の時間割を,彼がくれた手紙と一緒に,大切にスケジュール帳にはさんだ.
彼もあたしの時間割を,リュックサックの外ポケットにしまってくれる.
こんな恋のステップのひとつひとつが愛おしい.
ずっと人間のふりをして,彼のそばにいたい.
だけど…….
あたしが“悪魔”だと知ったら,――聡君はどうする?
あたしの頭には,角が生えている.
あたしには,自分の望みに関わらず,異性を誘惑する性質がある.
あたしは悪魔.
でも人間の聡君が好きなの,大好きなの.
そばにいさせてほしいの.

***

彼女が僕の告白にうなずいてくれたとき,僕は本当に驚いた.
勇気を振りしぼって告白したけれど,応えてくれるとは思わなかった.
彼女は経済学部のマドンナ,誰も手が届かない高値の花.
僕みたいな地味で真面目なだけの男には,分不相応な女性.
つり合わないことは,分かっている.
けれど僕の全身全霊をかけて,彼女を守ろうと決意した.
いつも一人でいる彼女を.
そうすれば,いつか彼女はほほ笑んでくれるかもしれないと夢見ていた.
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