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     居合の歴史

 

        居合の歴史   

       参照1)

 

    父浅野数馬の死 楯岡城第六代城主 最上因幡守満英の家臣として仕える

    室町足利将軍家の行事となる斯波兼頼三百年忌法要をめぐり武家風を主張する最上家と公家風を主張する大内     

    家との意見の対立から大内家臣坂上主膳により天文16年(1547年)闇討ちされる。民治丸は楯岡城の武

    術師範東根刑部太夫について剣術修行を始める。

 

    始祖 重信公の修行地と神社の正式名称は 熊野・居合両神社なり

    現在の東参道に設置されている「日本一社 居合神社」は俗称である。元来は熊野神社で祭神は素盞鳴尊であ

    り、林崎明神の鎮座地も現在の尾花沢市の石城岳釜ヶ沢であった。江戸時代に入ると居合(抜刀術)は全国に

    広まり多くの剣士達が重信公を崇敬し林崎神社に参拝、演武等が奉納された。かくて村人によって重信公を神

    とする居合大明神が草創された。現神社の祭神は井弉諾尊、素盞鳴尊、林崎甚助重信公の三神である。

 

 

 

    参照2)

 

    主な流派と近江

    居合兵法は始祖や継承者の苦心研鑚の末、創案された刀法であり、急変に処直ちに是に応じ己が身を守ることを

    主とする。更には、心身修養研磨の道でもあるため、強靭な心身を錬成し、自己を究明する道でもあるところか

    ら日本武道の根源である。

 

    直門の高弟は、次の通りである。

 

    高松勘兵衛信勝    武州一宮に住するところから一宮流を創始。その後、子の信繁、孫の信之へと相伝する。

    東下野守元治      下総香取の住人で神道流剣術に重信公の抜刀を習い鹿島・香取神宮に祈って夢想を得て、

                      神明夢想東流を起こす。

    田宮平兵衛重正    神業を会得したと言われ豊臣秀吉の武将池田信輝に仕官。子の長勝は徳川家康の懇望によ

                      り紀州徳川頼宣に仕え紀州藩の本流・紀州田宮流の流祖となる。

    長野無楽斎桂露    上州箕輪城主の一族である十郎左衛門は武田信玄が死去するや出羽に漂浪し重信公や田宮

                      平兵衛に学び無楽流を開く。井伊直政に仕え、近江佐和山に移封後は、彦根藩の重鎮とな

                      る。無楽流は会津藩をはじめ東北諸藩の主要流派となる。

    関口弥六右畔門氏心  今川義元の妹婿、関口刑部太輔氏興の孫で、松平飛騨守、本多甲斐守に仕えた。三浦

                        柔術を習い・諸国を修行、長崎で中国拳法の捕縛術を習得し関口流を起こす。

    片山伯耆守久安    小具足腰廻の竹内流開祖中務太輔久盛の弟で、豊臣秀次や秀頼の指南役を務め、慶長15年後

                      陽成天皇に居合の秘太刀を天覧し従五位下伯耆守に叙せられた。一貫流、のち片山伯耆流と

                      称す。

    江戸時代、近江国にはいくつかの藩があり、膳所藩の今枝流、水口藩の無行流など多くの流派が取り入れられて

    いました。