江戸食文化の定着(4)
-高級料理屋と料亭-
「小料理屋」では、畳を敷いた小上がりの座敷に上がって酒と料理を注文する。居酒屋、一杯飲み屋、小料理屋で酒を愉しむ客は多く、個室のような部屋はなく、広めの座敷を屏風で仕切る程度である。小料理屋よりも高級になるのが個室がある「会席即席料理茶屋」である。そして、今でいう料亭
「貸座敷/会席即席料理茶屋」では、仕切った座敷(個室)の中央に料理を置いて、出席者が料理を囲むように座る。宴会中には仲居が料理をとってくれたり、三味線を演奏してくれたりのサービスもあった。また、個室の離れ座敷もあって周りを気にせずにゆっくりと酒を飲みながら語らうことができた。
1.高級料理屋
■会席料理茶屋・即席料理茶屋
「会席料理」が生まれた時期を知ることができる記述本として次のものがある。
『続飛鳥川』には、「料理茶屋にて会席仕立の始まりは安永の末」とある。また、『武江年表』巻之七にも、享和年間(1801~1804年)に会席料理を始めた者がいたという記述がある。これらのことから、“会席料理あるいは会席料理屋”の出現は、安永期末(1770年代後半)から1800年代初めと思われる。
そのうちに、“即席料理屋”が出来てくる。『江戸買物独案内』にも、「会席御料理」を営む店は15を数えるとある。『江戸名物酒飯手引草』などの書物に記された会席料理茶屋の広告などをみると、“会席料理茶屋を営む店が、同時に即席料理を営んでいた”ことがわかる。
即席料理とは、料理屋に入ってから頼む料理のことで、その日に調理可能な料理を客の好みで注文する。即席料理屋は、事前に料理の支度をしておいて、客を待ち、お客が来ればすぐに料理を出すという仕方であった。一般に「料理茶屋(貸座敷御料理)」または「会席茶屋(会席即席御料理)」と称していた。
- 即席料理屋の「天ぷら」について、幕末・明治初頭の記録『江戸の夕栄』 鹿島万兵衛 著より以下を引用する。
- 「天麩羅は上流の料理に出さぬではなきも、多くは“即席料理店の出し物”にして、天鉄羅専門の料理店というほどの家はあらず。多くは[※]家台(やたい)見世のものにて天麩羅茶漬店、飯付き一人前二十四文か三十二文、せいぜい四十八文ぐらゐのもの(略)福井町の扇夫といふ人(福井扇夫、お座敷天ぷらの始祖)、出揚座敷天麩羅(であがりざしき天ぷら)を始めてから、やや上等の位置となりましたやうに思ひます。当時の天麩羅屋は、新堀喜六
銀座丸金 安針町銀造 塩町丸新 今川橋百足 人形町茂七 日本橋丸吉 人形町ひろの等を主なるものとす。芝海老、馬鹿貝の柱、あなご等に至つては他にない材料です」
- [※] 家台見世≒屋台見世、屋台は近代用いる語彙
- 洒落本・中洲雀(1777)「餠菓子干菓子の家台(ヤタイ)見世には買喰の族(やから)蟻の如くに集り」
- 町の路傍・空き地などに簡単な屋根・柱つきの台を設け、一定の場所に据えて、すし・てんぷら・あん餠などを商う大衆的な店。屋台。
- 特に、江戸での名称。常設の床店(とこみせ)より簡素で露店より臨時的でない。関西では出し店と総称する。

『風俗三十二相 むまさう』 ‐天ぷら‐/月岡芳年、「むまさう」は現代仮名の「うまそう」のこと。
月をながめながら海老の天ぷらを食べる遊女。嘉永年間(1848~1853)の遊女の風俗として、魚類の天ぷらを楊枝で刺して食べようとする姿が描かれている。
■会席・即席料理屋が広まる
江戸時代の代表的な料理書のひとつとして『料理早指南』享和元年(1801)がある。『料理早指南』には、本膳料理・会席料理の季節ごとの献立や重箱料理の献立、塩魚などの料理、汁・酢の物などの作り方を記していた。また、それには「即席料理と部立
(ふだて)せしは先
(まず)魚をえて、さて其
(その)魚に依
(より)て趣向するゆえに名付く」とあるように、即席といっても食味を重んじたものであった。
同書の即席料理の部で「タイ(鯛)」をみると、平皿用には「おらんだ焼」とあり「切身にして串
(くし)にさし、玉子くだきかきまぜ、かけながら焼くなり」と説明されるなど、会席料理のかなり詳細な内容が紹介されていた。
このように、茶屋で会席料理が楽しまれるようになり、加えて会席料理に関する書物(先述の『料理早指南』、1781年『会席料理帳』、1806年『会席料理細工包丁』)が相次いて刊行されたことで、会席料理は当時の社会に定着化をしていたようである。さらに江戸時代後期になり、一般庶民の間で、酒宴や会席料理を楽しむ余裕が生まれ、そういった層にも気軽に楽しめる会席料理が流行していった。

『江戸高名会亭尽』より 「白山 傾城か窪」/歌川広重画 安政6年(1859)
中山道沿いの料理茶屋「万金」は、旅人に簡便な即席料理を供する店。絵には武家一行が腹ごしらえをしたり、慌ただしく行き交う人々の賑わいが描かれている。
■料理茶屋の番付

安政六年(1859)に刊行された料理茶屋の番付『即席会席 御料理』には、相撲の番付に見たてた江戸で評判の料理茶屋を大関、関脇、小結というように番付した183軒が掲載されている。
料理茶屋見立番付の行司の欄には、別格の三料亭の深川八幡前「平清(ひらせい)」・日本堤山谷「八百善(やおぜん)」・檜物町「嶋村」、そして浮世「百川(ももかわ)」・向島「大七」・山下「がん鍋」などの22店の名が見られ、番付に入らずに別格で扱われて名前が記されている。行司の「嶋村」は、嘉永三年(1850年)、仕出し屋として創業し、胡麻油で揚げた「きんぷら」や天ぷらの「金ぷら」が評判の料理茶屋であった。
2.高級料理屋(料亭)の出現
■料理屋(料理茶屋/会席茶屋)
江戸時代の後期には、江戸の町の各地に料理茶屋が出現する。幕府の役人や各藩の外交担当を務める「留守居役(るすいやく)」が交渉の席を設けるために利用したり、文化人が狂歌の会を開いたりするようになると、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅(ぜい)を尽くすような高級な料理茶屋(料亭)が次々とできた。
江戸の町には手の込んだ本格的な料理を供し、器も吟味され、蒲・ヨシ・竹・杉皮などの天井や化粧屋根裏天井の数奇屋(すきや)造りの座敷や庭を持つ、今日の高級料亭に相当するような「会席・即席料理茶屋」が、明和年間(1764~1771年)の頃に数多く生まれた。

東両国駒留橋,会席料理茶屋「「青柳」は、料理屋番付『会席即席御料理』元治二年(1865)、に載っている名店のひとつ。
■料理茶屋「料亭」
江戸で「料亭」と呼ぶにふさわしい料理茶屋としては、江戸・深川洲崎の「升屋(ますや)」が料亭の元祖といわれ、明和八年(1771年)に生まれたとされる。江戸随一と称されたの八百善(やおぜん)の開店は、その三十数年後の享和(1801年)のころである。
江戸時代、高級な料理茶屋の双璧といわれたのが、浅草山谷の「八百善」と深川八幡前の「平清(ひらせい)」だという。会席料理が確立し始めたのもこの頃からで、料理屋料理として最初から酒を供し、飲みながら食べるという会席料理というものも出来て高級化した宴会料理となった。

『江戸高名会亭尽 深川八幡前』(会席料理茶屋 平清)/歌川広重 文政~安政5年
深川の料理茶屋は、江戸湾の魚介類や多種類の川魚を潤沢に得られて、江戸前の味を売り物にしていたが、いずれも遊女や芸者をよんで遊興のできる揚茶屋を兼ねていたことも大きな魅力だった。「平清」は瀟洒な庭や風呂を備えた設備の豪華さや料理の質の高さで知られていた。
■料理屋の高級店化
江戸文化の爛熟(らんじゅく)期、化政期(文化・文政期1804~1830年)には料理屋の高級店化がさらに進んだ。座敷や庭を備えた高級料理茶屋は、幕府の高官、各藩の江戸留守居役や有力商人、文人墨客(ぶんじんぼっかく)などが常連客として、このような茶屋を大いに利用した。
かけ蕎麦(二八そば)の値段が十六文の時代に、嘉永年間(1830~1853年)頃の江戸の武士や町人がお酒とともに楽しむ高級料理茶屋では、一汁三菜(禅寺の食事形式で、ご飯に汁もの、おかず3種(主菜1品、副菜2品)、漬物(香の物)で構成された献立)を基本とし、一品づつでき立てを配膳する会席風(会席料理)の食事が、銀十匁(銭一貫文)から五、六匁(五、六百文)である。
会席風の食事の値段は、当時、庶民の中では給金がいい大工職人の日当は銀立てで支払われ銀四匁のため四百文、庶民の平均的な日当三百文、住込み職人の日当百文、住込み食事付の下女の日当五十文、長屋の家賃が月に棟割り裏長屋(九尺二間の裏長屋)で約三百文、二階建ての割長屋で五百文、表長屋(二階建て)では一千文であり、決して安い額ではないことがわかる。
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江戸時代の金銀銭貨間の交換比率は、
- 江戸初期 慶長14年(1609)で、金1両=銀50匁(もんめ)=銭4,000文(銭4貫文)
- 江戸中期 元禄13年(1700)で、金1両=銀60匁=銭4,000文(銭4貫文)
- 江戸末期 天保13年(1842)で、金1両=銀65匁=銭6,500文、銀1匁は銭100文

『職人尽絵詞』鍬形蕙斎画/「(料理)茶屋」(文化年間 1804-1818)
3.料亭文化の定着
■料亭文化
幕末へあと50~60年と迫った文化・文政期(1804~1830年)は、蕎麦屋、寿司屋の大繁盛に加えて、料理だけでなく、座敷や庭にまで贅(ぜい)を尽くすような有名料理屋が次々とできた時代となった。京坂では寛文(1661~1673年)から元禄(1688~1704年)頃に京都ではすでに料理店が発生していた記録がある。
江戸に料理屋と呼べるような店が登場したのは、江戸も中期、明和年間(1764~1772年)だといわれている。続く安永から天明にかけて、深川、浮世小路、向島、中州等に次々と料理屋の名店が創業し、多くは武家階級に接待の場所として利用された。
「料亭文化」がいよいよ庶民の物となるのは、町民文化が花開く文化(1804~1818年)文政(1818~1830年)期ごろであり、著名な料亭には平清(ひらせい)・百川(ももかわ)・八百善(やおぜん)などを含む104店が数えられた。この頃になると、料亭だけでなく、居酒屋、料理茶屋のほか、蕎麦屋や鰻屋なども江戸市中に多く広まった。

『新版御府内流行名物案内双六』(弘化4年~嘉永年5/1848~1852)より、「王子,海老屋」
王子稲荷前「王子のゑびや」(即席料理茶屋)。当時、王子稲荷の門前より飛鳥山の麓までの道筋は茶店や料理屋がならび、春の花の頃より冬は雪見の頃まで人足のたえる時はなかったほどに江戸っ子の遊山行楽の場所として大いに繁栄していた。
また、『江戸会席料理老舗番付』では、勧進元(主催者)は八百善、東の大関は「平清」、西の大関は王子の「海老屋」と書かれるほどの高級料理屋であった。寛政十一年(1799)の春に飛鳥橋のたもとに海老屋、扇屋が店聞きして、以後に料理屋が増えていった。「王子
海老屋」は、隣接する「扇屋」とともに『即席会席御料理番付』に掲載されるなど、名高い料亭の一つであった。
蜀山人が随筆に「王子の茶屋は茶めし、田楽のみにて青魚に三葉芹の平皿盛りたるのみ」であった状態が、文化年間(1804~1818年)になると、「今日扇屋、ゑびやなぞと言う料理出来て其余の茶屋も其の風に学ぶこととなりぬ」」と書いている。また、十方庵『遊歴雑記ゆうれきざっき』(1812~1829年)には、「あふぎや(扇屋)、
海老屋の二軒茶屋は、軒をならべて高宅を巧みに作り料理の美味に庖丁の手際なる、器物には善尽し」と述べるように、この二軒の高級料理屋は趣味性の強い料理屋であった。

葛飾北斎/『画本東都遊(えほんあずまあそび)』より「王子 海老屋」 享和二年(1802)
■八百善の一両二分の茶漬け
寛政期の風俗などを記した『寛天見聞記』に、高級料亭/八百善の逸話<一両二分の茶漬け>が記述されている。
【享和の頃、淺草三谷ばしの向に、八百善といふ料理茶屋流行す、深川土橋に平淸、大音寺前に田川屋、是等は文化の頃より流行せし料理屋也、或人の噺に、酒も飮あきたり、いざや八百善へ行て、極上の茶を煎じさせて、香の物にて茶漬こそよからんとて、一兩輩打連て八百善へ行て、茶漬飯を出すべしと望しに、暫く御待有べしと、半日ばかりもまたせて、やうやうにかくやの香のものと、煎茶の土瓶を持出たり、かの香の物は春の頃よりいと珍らしき瓜茄子の粕漬を切交ぜにしたる也、
扨食おはりて價をきくに、金一兩貮分なりと云、客人興さめて、いかに珍らしき香の物なればとて、あまりに高直也といへば、亭主答て、香の物の代はともかくも、茶の代こそ高直なり、茶は極上の茶にても、一ト土瓶へ半斤は入らず、茶に合たる水の近邊になき故、玉川迄水を汲に人を走らしたり、御客を待せ奉りて、早飛脚にて水を取寄せ、此運賃莫大也と被
レ申ける】
- 江戸時代後期、美酒美食に倦きた客が数人、八百善の座敷に上がって“極上の茶漬け”を注文すれば「暫しお待ちを」と。しかし、長々と半日が経過しても一向にお茶漬けが来ません。ようやく膳が並べられたのですが煎茶の入った土瓶に添えられた春先には珍しい瓜と茄子の柏清けを切り交ぜにしたもので香の物以外は普通の茶漬けでした。
- とりあえず食べ終わって勘定を聞くと一人一両二分という高額なものであった。
- 「いくらこの時期に珍しい香の物と言っても、あまりに高いではないか」と客が訝し気に聞くと、亭主はこう答えた。「いや、香の物のお代はともかく、茶の方が高うございます。まあ、茶葉は極上と言いましても土瓶には半斤も入りません。しかし、
この茶葉に合う水が近隣にはございませんゆえ、玉川まで早飛脚を立てて水を汲みに行かせました。この運賃が莫大となりました。」
- それを聞いた客は"さすが八百善"と感心して帰っていったという。

『江戸高名会亭尽(えどこうめいかいていづくし) 山谷 八百善』
同画は、江戸の料理茶屋の筆頭株ともいえる八百善の座敷を描いている。鴨居の上の長押(なげし)には江戸南画の大家である谷文晁(たにぶんちょう)の描いた額がかかっている。
4.江戸の高級料亭
■江戸で著名な高級料理茶屋(料亭)は、浅草山谷の「八百膳」、深川八幡前の「平清」や「二軒茶屋(伊勢屋と松本楼)」、浮世小路の「百川」、鯉などの川魚料理で有名な本所向島の「大黒」や「大七(だいしち)」などがある。その代表格の高級料亭が「八百善」である。
『守貞謾稿』嘉永六年(1853)にも、「料理茶屋、江戸にて名あるは山谷の八百善、深川八幡前 平清これに次ぐ、柳橋北の河長宅広からずと雖ども美食なり」、「八百善、平清、河長等の飯後段の茶にも菓子を出し、その他は飯後の茶に菓子これなし、八百善以下三家、大略一人分銀十文目、その他は銀六、七、八匁なり。浴室を設け酒客を入れ、余肴を折に納め、夜の帰路に用ひ流しの提灯を出すこと、毎戸しかり」と記述されている。文政五年(1822)の『明和誌』によると、八百善は「一箇年の商ひ高二千両づゝありと云ふ」と記述されていて、その繁盛振りを伝えている。
■貸座敷・料理茶屋「大七」
『江戸名物酒飯手引草』には、向島に洗ひ鯉と云われた川魚料理の貸座敷料理茶屋「大七(だいしち)」が記述されている。向島の高名な料理茶屋「大七」は、隅田川沿い今戸橋傍にあり、川から引き込んだ生簀に鯉を飼って、鯉の洗いなどが名物であった。
また、『江戸名物詩初編』方外道人著、天保七年(1836)刊 には、「大七洗鯉 向島」、「客込奥庭中二階、温泉石滑暖如
蒸、酒肴色々喰來處、洗出鯉魚數片冰(客は込む奥庭中二階、温泉石(イシ)滑(ナメラ)かにして暖めること蒸すが如し、酒肴色々飡ひ来る処、洗ひ出す鯉魚数片の氷(コホリ)」とある。

『江戸高名会亭尽』 向島 大七 歌川広重/画(天保中期-後期、1835〜1842年)
■会席料理茶屋(料亭)「百川(ももかわ)」
日本橋浮世小路の料理屋百川が出来たのは明和・安永(1764-81年)の頃といわれています。天明(1781-87年)の頃には文人墨客が書画会などを催す名の知られた卓袱料理屋となり、文化・文政(1804-30年)頃には高級店として繁盛しました。嘉永年間の百川の1人分の食事代金は、上が200疋(銀二分)、中が150疋(銀一分と二朱)、下が100疋(銀一分)だったようです。(一分銀が4枚で一両である)

百川繁栄図 五渡亭国貞(のちの三代豊国) 文政8年(1825)
「百川」は料理の素材、味はもちろんのこと、内装や食器、店員のマナーに至るまで隅々まで洗練されていた。江戸大衆芸能の大田南畝や戯作者の山東京伝、兵学者の佐久間像山、測量家の伊藤忠敬などの名だたる文人たちが集まり、彼らは日本橋の魚河岸で出荷される、新鮮な魚介類の料理に舌鼓を打った。
- ○「百川楼仕出し献立」
- 【本膳二汁五菜】
- ・鱠 鮒平作り、巻小川、つみ岩茸、干わさび、金柑
- ・汁 萩つみ入、よめな
- ・香物 粕漬、塩押小蕪、手巻紫蘇、しお山枡
- ・煮物 鯛豆腐、粒初茸、のりせん
- ・飯
- 【二の膳】
- ・平皿 みつ葉、蒸ひらめ、もみあわび,あわび薄切かけにしてよくもみさっと煮湯を通しおく事、篠の人参、ぶりぬかぼ、ねりくず
- ・汁 王余魚(かれい)背切、蒔ぼうふう
- ・猪口 菊味和、小海老,生海老の皮をとり小口より切り湯引也、巻くわい
- ・焼もの 小鯛、かけ塩
- ・吸物 松笠すずき、水芝しのり、白川柚子
- 【中皿】
- ・硯蓋 より牛房、巻水半弁(はんぺん)、梅ヶ香蒸きす、てり煮たいらぎ、吹寄たまご,吹寄はおぼろ鶏卵を蒸申候事、ホ葉くわい、みとり河茸(かわたけ)
- ・鉢 錦やき、子持鮎、からみ大根、柚醤油、□□□(三字不明)
- ・盛交菓子
■二軒茶屋「雪中遊宴之図」
挿絵は高級料亭「二軒茶屋」での雪見の宴を描いたものである。栄華を誇った二軒茶屋は、天保12年(1841)頃から、水野忠邦による「天保の改革」の倹約令と風俗取締によって廃業を余儀なくされた。

『江戸名所図会』 二軒茶屋 雪中遊宴之図(江戸後期の天保5年・1834)
深川永代寺門前・二軒茶屋の「松本屋」(料亭)で立派な脚付火鉢と料理を囲んで雪見の酒宴。挿絵の注記には、「此の地は、江都東南の佳境にして、月に花に四時の勝趣多かる中に、取りわきて初雪の頃などには都下の騒人ことに集い来つつ、亭中の静閑を賞し一杯を酌みかはしては酔興のあまり、冬籠もる梅の木の下、秋ならば尾花苅りたき、一夜の夢を結ぶもまた多かりぬべし」と記されています。
二軒茶屋の伊勢屋と松本屋は、板葺屋根の料理茶屋で柴垣を回らした庭園を持つ、瀟洒な建物の高級料理屋であった。文政七年(1824)刊行の『江戸買物独案内』にも、二軒茶屋の伊勢屋と松本屋が収録されている。
5.高級料理屋の仕出し料理
■高級料理屋と「仕出し料理」
仕出料理は出前(でまえ)料理ともいい、注文に応じて調理して客方に届ける料理で、そうした専門業者は幕末期の江戸に出現した。最初の頃は単に注文に応じて調理し届ける「出前料理」が多かったが、やがて料理全体を作るようになり、器に料理を詰めた「仕出し料理」を届けたり、武家や商家で催される冠婚葬祭の席に料理人を送って調理した「仕出し料理」を提供した。

『江戸買物独案内』(1824)を見ると、高級料亭の大半が仕出しを行っている。山谷の八百善は江戸第一と称された店だが、一時は仕出専業であった。そのころのようすを『皇都午睡(こうとごすい)』(1850)は「当時は精進料理の仕出しのみをして、町家にて三十人五十人の法事仏事あれば、誂へ(あつらえ)に任せ朱黒青漆とか膳碗家具まで残らず取揃へ、引菓子に至るまで揃へ……」と伝えるが、そのように膳椀はじめ道具一式を運び込んで宴席を調えることも多かった。
『守貞漫稿』には、「三谷(山谷)の八百善、天保中に自宅に客することを止め、仕出しのみを業とし、嘉永初めより再び自宅に客を請す」とあり、天保年間(1830~44)に江戸で有名であった料理茶屋の八百善が仕出業専門に切り替えたとあって、この頃には仕出し料理業も一般化した。
江戸で、料亭が仕出し屋を兼業するようになるのは近世後期になってからである。その後、仕出し専門の「仕出し屋」と言う料理の出前専門の店も現われ、一業種として確立していった。
■江戸名物酒飯手引草
江戸庶民の食事処も、江戸後期には、一膳飯屋を含めて料理飲食店の数は文化元年(1804年)で6,165軒、天保六年(1835年)では「天保の飢饉」の影響もあって減少するが、それでも5,757軒にものぼった。この頃には江戸庶民の下層にまで外食文化が浸透したといえる。
また、
『江戸名物酒飯手引草』のようなガイドブックも登場する。記載されている飲食店は次のように分類されている。
- ①貸座敷御料理(会席料理、即席料理)=高級料理茶屋(料亭)は、料理以上に座敷の提供に重きをおいた料理茶屋
- ②料理茶屋(会席料理、即席料理)
- ③料理茶屋(即席料理)
- ④御茶漬料理屋
- ⑤江戸前蒲焼屋(鰻屋)
- ⑥どぜう・なまず・あなご料理屋
- ⑦寿司屋
- ⑧蕎麦屋=二八蕎麦屋(砂場そば、更科生そば、ざるそば、手打ちそば、鴨なんばんそば、蘭めんそば)
- ⑨御膳生蕎麦屋(十割りそば屋)
などの名店を紹介している。

『江戸名物酒飯手引草(えどめいぶつ しゅはんてびきぐさ)』嘉永元年(1848)刊 の一部を抜粋(国立国会図書館)
『江戸名物酒飯手引草』の蕎麦屋にある「蘭めんそば」の料理茶屋絵と現在のらんめん

料理茶屋『新版御府内流行名物案内双六』一英斎芳艶 画(弘化4年~嘉永5年)より「本郷,らんめん」
らんめん=蘭めん、卵めん(そば・うどん粉に卵を練りこんだ麺類)、らんめんというのは、小麦粉をタマゴでつないで、そばのように細く打った麺。
6.高級料理屋と料理屋番付
- ■『江戸の夕栄』(鹿島万兵衛 著)、幕末・明治初頭の「料理屋」の記録
- 会席料理屋(料理屋の屋号に記した地名は『会席即席御料理』實長堂蔵版/元治二年によるもの)
- (山谷)八百善 (深川土橋)平清 (采女ヶ原)酔月(楼) (深川八幡)枩(松)本 (浅草代地)川長 (向嶋今戸)大七 (高砂町)萬千 (蔵前)誰袖 (東両国駒留橋)青柳 (上野廣小路)松源 (甚左衛門町=日本橋小網町)百尺(楼) (橋場)川口 (下谷大音寺前)田川屋 (両国柳橋)梅川 (霊岸嶋)翁庵 (今戸)有明楼 (山谷)八百半 (柳嶋)橋本 (甚左衛門町)豊田
- 即席料理屋
- 海老屋 扇屋 寿仙 小さくら(桜) 伊勢源 中重 松保 車屋 平枩(松) 川文 魚佐 魚半 鳥八十 魚仙 万久 鷹鍋(がんなべ) 讃岐や(屋) 太橋 川舛 岡村 丸竹 吉浦 播磨や いせ勘 濱(浜)田 田川 万清 増田 いせ源 蛤 平松 魚幸 高橋 魚十 魚安 魚鉄 立場 木屋 綿や(屋) 八辻 高砂
- 精進料理屋
- 吉見や 八百善 和泉や いせ綱 武蔵庄 武蔵治 大阪や 朝倉 尾張 菊や 八百仙 玉藤 池田 森田 八百十 田川や(屋) 八百久 いせ忠 八百栄 松よし
- 茶漬見世
- 両ごく五色 ぎんざ玉の井 馬くろ町しがらき 通二宇治里 くらまへ宝来 北しんぼり明ぼの 人形丁万安 かはらまち万久 よろづ丁さゝ岡 南てんま七浦 くらまへ福来 同朋丁ゑび甚 いづも丁山ぶき すは丁宇治里 ふか川立川 下や宇治里 なみき五色 外かんだ宇治里 なみき七色

料理屋番付『会席即席御料理』實長堂蔵版/元治二年(1865)、この番付に載っている料理屋の店名は上の
『江戸の夕栄』にて
茶色で示した。
■「料理茶屋」上方の味と江戸の味
江戸時代の末頃出版された守貞慢稿に
は、「生業(なりわい)」の章「料理茶屋」で京阪と江戸の味付けについて次のように比較している。
- 『三都自ラ異ナル所アリ 京阪ハ美食ト雖モ鰹節ノ煮ダシシテ是ニ諸白酒ヲ加ヘ醤油ノ塩味ヲ加減スル 故ニ淡薄ノ中ニ其物ノ味アリテ、是ヲ好トス 江戸ハ専ラ鰹節ダシニ味醂酒ヲ加ヘ或ハ砂糖ヲ以テ代エ醤油ヲ以テ塩味ヲ付ル
故ニ口ニ甘ク旨シト雖モ其ノ物ノ味ヲ損スニ似タリ』
つまり、関西の味と関東の味について、「京阪は鰹だしに清酒を加え醤油を控えめに加えて不足する塩味を食塩で調節する。したがってうす味だけれども素材の味が生きており、これを好む。一方、江戸は、鰹だしに味醂または砂糖で甘味を加え、塩味は醤油の量で調節することから、甘くて旨いけれども素材の味が損なわれている」と述べている。