正覚寺 縁起
その昔天平年間弘法大師の御開基にして真言宗成等山正覚寺あり。明応2年2月25日(1493年)足利氏管領従三位畠山政長公は、諸将を率いて正覚寺に着陣せり。この正覚寺は境内四町四方、本堂二十一間四面、不動堂七間四面、その他山門、廻廊、伽藍等巍々たる名刹なり。時に京都に居りたる敵将細川政元、諸将合せて四万余騎河内をさして進撃し長駆正覚寺さして攻めいりたり。政長陣営僅かに二千余人時の足利義植(よしたね)と共に寺内の大庭にて、ここを先途と戦いしが本陣内の混乱甚だしくついに防ぎきれず4月23日もはやこれまでと自刃を決意し政長は諸将九人と共に最期の盃を交し相果てたり。さらば残る二百余人も火を放ち一人残らずこれに殉じたり。兵火は三日三晩燃え続け、大堂、大伽藍悉く灰尽と化す。寺院内の高僧七人多くの修行僧と燃ゆる寺院と運命を共になされたり。廃寺のままにて経過、現在東の坊のみ正覚寺遺跡として残れり。
ここに昭和27年4月当山初代上人この地に仏縁ありて、今の成等山正覚寺を開かれるその御縁により戦いに討死にせし多くの将兵を昭和28年4月無縁塔を建立しとむらう。又昭和37年3月には本堂、大伽藍と運命を共にされし、高僧と多くの修行僧の御霊は如来像を建立、慈悲如来と称号しとむらい奉る。爾来不思議なる霊力現象あり、一心に念ずる者、一願かならず成就せり数々の功徳授けし慈悲如来なり。