中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞記念館・解説
その5 展示史料解説部分(下)



50、「抗日戦争勝利」標題板の前

 (標題板の前で解説):日本帝国主義の侵略に反対し、中華民族を危急存亡から救うため、中国人民は奮起して8年の血まみれの抗戦を行い、死傷者3500余万人、直接の財産の喪失と戦争による消耗は1000億米ドル、間接経済損失は5000億米ドルと言う巨大な民族犠牲を払い、世界反ファッショ戦争の勝利のために、不滅の貢献を行いました。
 (写真を指して解説):これは毛沢東主席が延安で抗日戦争への動員についての報告をしています。
 (写真を指して解説):蒋介石もまた廬山で抗日に関する講話を発表しました。
 (写真を指して解説):中国守備軍は廬溝橋、淞瀘及び山東省の台児荘で日本軍を迎撃しました。
 (写真を指して解説):八路軍は平型関、長城の喜峰口及び黄土嶺での抗戦で、日本軍に大打撃を与えました。
 (写真を指して解説):中国人民の抗戦は、また世界人民と海外愛国華僑の積極的な支持を得ました。
 (写真を指して解説):1945年8月15日正午、日本天皇は日本の無条件降伏を宣言することを余儀なくされました。中国人民の8年の抗戦は、ついに勝利を得ました。
 (写真を指して解説):1945年9月2日、東京湾のアメリカ戦艦ミズーリ号上で、日本代表重光葵は降伏文書に署名しました。
 (写真を指して解説):1945年9月9日午前9時、南京の黄埔軍官学校の講堂、現在の南京軍区講堂で、日本軍の中国戦線での降伏署名式典が行われ、中国侵略日本軍総司令岡村寧次が降伏文書に署名しました。中国を代表して降伏文書を受け取ったのは何応欽です。
 (実物を指して解説):これは降伏式典会場で使用された鐘と印章の複製品です。

51、「極東国際軍事裁判の審判」標題板の前


 1946年1月、中国、アメリカ、イギリス、旧ソ連など11カ国によって、極東国際軍事法廷が組織され、東京で28名の日本のA級戦犯に対して正義の審判が行われました。法廷は日本の1931年以来の対中戦争を侵略戦争であると断定し、日本軍が南京大虐殺の暴行を行ったことを確認しました。一群の映像資料を見てください。
 (写真を指して):これは当時、日本の東京の極東国際軍事法廷の外景です。
 (写真を指して):中国の裁判官、梅汝?《ばいじょごう》博士、極東国際軍事裁判の裁判官席で日本戦犯を審判しました。
 (写真を指して):これは中国検察官・向哲俊。
 (写真を指して):これらは中国を代表して極東国際軍事裁判に出席した人員です。その内、倪征●《げいせいおう》[●は日に奥]、桂裕、裘紹恒《きゅうしょうかん》、高文彬《こうぶんひん》は今なお健在で、北京、上海、台湾に分かれて住んでいます。
 (写真を指して):極東国際軍事裁判に出席して南京大虐殺について証言した外国人の証人には、アメリカのウィルソン医師、マギー牧師、ベイツ教授などがいます。中国人の証人には、許伝音、伍長徳、梁延芳、陳福宝、尚徳義などがいます。
 (写真を指して):南京大虐殺の主犯・日本の華中方面軍司令官松井石根は、国際法廷に押送され審判を受けました。極東国際軍事法廷は2年半に及ぶ調査確認を経て、25名の日本A級戦犯にそれぞれ判決を下し、その内、7名が絞首刑に処されました。
 (写真を指して):これは極東国際軍事法廷の判決書の訳文です。
 (判決書を指して):判決書は南京大虐殺についてこのような確認を行いました。「この種の放火は数日以後に行われ、所定の計画に従っていたようで6週間もの長きに渡って継続され、そのため、全市の約三分の一の建築物が破壊された。……日本軍が南京を占領した最初の6週間の内に、南京及び近辺で虐殺され一般人と捕虜の総数は20万以上に達する。……この数字は日本軍が焼き捨てた死体、あるいは長江に投げ入れ、あるいはその他の方法で処理した人々は計算に入れていない。」
 (史料を指して):1948年11月4日、極東国際軍事法廷は松井石根に絞首刑の判決を下し、同年12月22日夜、東京で執行されました。南京大虐殺の主犯は厳しい懲罰を受けました。

52、「中国南京軍事裁判の審判」標題板の前

 国際法の規定によれば、中国は戦勝国の一つであり、中国侵略日本軍のB・C級戦犯の審判に責任を負っていました。1946年2月、中国は北京、瀋陽、上海等の地で10の軍事法廷を開設しました。南京では中国南京審判日本戦犯軍事法廷を専門に成立させ、南京大虐殺事件に対して専門に審理しました。法廷は、日本軍の南京での集団虐殺は28件、虐殺人数は19万余人、分散虐殺は858件、慈善団体によって埋葬された死体は15万余体と認定しました。
 (写真を指して):1947年2月6日午後2時、中国南京審判日本戦犯軍事法廷は日本軍第6師団師団長・谷寿夫に対して、まず公開審判を開廷しました。それから殺人競争の下手人・向井敏明、野田毅、及び殺人狂・田中軍吉に対して審判を行いました。法廷は被害者の親族及び国内外の証人の調査を通して、それには「万人坑」を発掘して被害者の銃弾で撃たれた穴や刀で切られた遺骨の検査も含んでいました。
(判決書を指して解説):最終的に法廷は「谷寿夫をもって死刑」と判決し、南京の雨花台で銃殺刑が執行されました。向井敏明、野田毅、田中軍吉もまた死刑が判決、執行されました。犯罪者達は相応の末路を得たのです。
 (資料を指して):日本政府は1951年、『サンフランシスコ条約』を締結し、極東国際軍事裁判と各戦勝国の法廷(南京法廷も含む)が日本の戦犯を審判した結果を受け入れました。ですから、歴史はとっくに南京大虐殺を定論としているのです。

53、「歴史の証拠」標題板の前

 南京大虐殺事件については、現在にいたるまで多くの内外の人士が当時、大量の証拠資料を残しており、幸存者の証言と大虐殺に参与した元日本軍将兵の日記もあり、これらはみな中国侵略日本軍が南京大虐殺を行ったことの鉄の証拠です。

54、「元中国侵略日本軍将兵の告白」展示板の前

 (写真を指して):彼は東史郎と言い、日本の京都の人で、現在まだ生きています[2006年1月3日死亡、享年93歳]。当時、彼は中山門から南京市に侵入しました。彼は南京に進攻した時、分厚い日記を書き、1987年、彼の日記は本にまとめられて日本で出版されました。この本の中で、南京大虐殺の残酷な情景を記述したため、東史郎とこの本を出版した青木書店とは、日本の右翼勢力によって日本の東京の裁判所に、長年に渡って訴えられました。正義を支持する日本人民は自発的に東史郎裁判支援実行委員会を成立させ、南京人民もまた80余歳の東史郎があえて歴史を反省する勇気に感動し、東史郎が言い及んだ郵便袋や、池、手榴弾等の問題について続々と証拠を提供し、また南京では手榴弾の爆破実験が専門に行われました。
 (展示台を指して解説):これは本館が東史郎及び東史郎弁護団の要請に応え、1998年4月、7月と1999年9月、南京郊外で前後して東史郎裁判のために三回の手榴弾爆破実験を行ないました。その後に残った手榴弾や郵政袋の破片などです。
 (写真を指して):かつて南京大虐殺に関わった日本兵士の北山と原で、死に臨み身は病床にあって、初めて彼の『陣中日記』を取り出し、当時の犯罪行為を告白しました。小俣行男は当時、日本の一従軍記者で、彼は後に『日本従軍記者見聞録―南京大虐殺』という名の本を書き、日本軍の南京大虐殺の暴行を詳細に記載しました。
 (写真を指して):曽根一夫は日本の静岡県人で、彼は『私記南京大虐殺』という一書の中で、当時彼の所属した部隊が、上海から南京に殺到する中での暴行を詳細に記述しています。


戦時の東志郎



55、「幸存者とその証言」展示板の前

 (写真を指して):この二人は、映画『屠城血証』の主人公のモデル羅謹と呉旋です。? 当時、羅謹は南京長江路の華東写真館で見習い工をしていました。ある日、彼は日本軍人が現像に持ってきた二本のサクラ印120フィルムの中に、南京での殺人、強姦、略奪の現場写真があることを発見し、一組余分に現像します。以後また続々と30枚余りを収集し、中から16枚を選び、これを自製の小アルバムに入れました。アルバムの表紙には、一本の日本人の刀と突き刺されて血を流している一個の中国人の心臓を描き、そのかたわらに「恥」の字と「?」の符合とを大きく書き、また彼の私印を押しました。以後、彼は日本人の追求から逃れるため、アルバムをトイレのレンガのすき間に隠し、後になくなっていることを発見し、あちらこちらに逃げ隠れし、今なお福建省三明市の大山溝に住んでいます。このアルバムは後になって呉旋に発見され、前後して家の梁の上や毘廬《びる》寺の仏像の底座の穴などのところに置かれ、1946年になって、呉旋によって南京市臨時参議会に提出され、続いて中国南京審判日本戦犯軍事法廷に渡され、「京字第一号」の物証となり、日本の戦犯を審判するために重要な働きをしました。 現在、このアルバムと写真は中国第二歴史文書館に保存されています。
 1984年、南京市は大虐殺の幸存者について全面調査を行い、1756名がなお健在であることを発見し、以後また1991年と1997年の夏、2回夏期休暇を利用して1万名の学生を動員して幸存者の全面調査を行いました。1000名余りの幸存者がなお健在であることが発見されています。
 (写真を指して):彼らの身体には、今でもまだ当時日本軍の傷害に遭った傷跡が残っています。もも、肩、臀部、腰、すね等です。
 (写真を指して):この老人は名を唐順山といい、南京大虐殺の幸存者の一人です。本館が建設されて10余年来、毎年清明節には、老人は必ず三輪車に乗って、遇難同胞に花輪を送り、彼の哀悼の意を表します。
 (写真を指して):これらはみな今なお健在な大虐殺の幸存者であり、彼らは皆歴史の証人です。




血の証拠である16枚の
写真の現像者:羅謹




幸存者:李秀英

56、「内外歴史文献」展示板の前

 (写真を指して):彼は郭岐と言い、当時の南京守備軍の中佐大隊長でした。南京陥落後、かれは一般人の服装をして、国際安全区に逃れ、三ヵ月後南京から逃れました。1938年3月、その自らの経験を元に、『陥都血泪録《かんとけつるいろく》』という本を書き、同年8月『西京平報』に連載しました。郭岐と同じような経験をした中国守備軍の軍医蒋公穀も、また目撃した日本軍の暴行について『陥京三月記《かんきょうさんげつき》』という本を書いています。
 (写真を指して):彼はアメリカから南京にきた宣教師で、名をジョン・マギーといいます。当時、彼は南京国際安全区委員会のメンバーで、また国際赤十字の南京委員会委員長でもありました。彼はこういった特殊な身分を利用して、この(写真を指して)家庭用の16ミリ撮影機で、日本軍の南京での各種の暴行を現場で撮影し、後に国際安全区委員会副総幹事、アメリカ人ジョージ・フィッチに委託し、秘密裏に上海に運び、コダック社が代理で4本の見本を製作し、1本を英国人に送り、1本はドイツ人に送り、2本はアメリカに戻しました。現在、この4本の見本は既に相次いで発見され、日本軍の南京大虐殺の最も重要な証拠資料となっています。本館・映画ホールで放映した記録フィルムのうち動画の歴史場面は、大部分がマギー牧師の撮影したフィルムのコピーから編集したものです。
 (写真を指して):1995年初め、本館は南京・鼓楼医院でその医院の米国籍医師ロバート・ウィルソンが、日本軍の南京占領前後の暴行を日記の形で詳細に記載したものを発見しました。
 (史料を指して):イギリスの著名な中国駐在記者デンプレーの書いた『外国人の目撃した日本軍の暴行』という本は、日本軍の南京での焼く殺す犯す奪うの暴行を暴露しています。1938年、漢口で出版された時、郭沫若はこの本のために序言を書きました。
 (史料を指して):数年前、ドイツ公文書館のポツダム分館で、当時のドイツの駐中国大使館員のローゼンが、ドイツ外務省に手渡した何本かの書面報告が発見されました。報告書の中では、「一般民衆、婦女や児童などの罪なく殺害された死体が路上にごたごたと横たわっている……。日本人の数週間の恐怖支配によって市内の商業区は……ほしいままの略奪の後には一片の瓦礫と変わり果て、まばらに見えるのは建物の残骸であり、日本軍隊の放った大火は、日本軍占領から1ヶ月以上の後もまだ燃えており、婦女、幼女に対する凌辱と強姦といった行為は今なお継続している。……日本軍が南京方面で行った行為は、自己のために恥辱の記念碑を直立したことである。」

57、「前事不忘《ぜんじふぼう》 後事之師《こうじのし》」標題板の前

 (同標題板の前):1985年の本館建設後、党と国家の指導者、広範な人民大衆、香港・澳門《マカオ》・台湾の同胞及び華僑同胞、そして外国の友人が、続々と本館を参観に訪れ、遇難同胞を追悼すると同時に、過去の悲惨な歴史を理解しました。
 (写真を指して):党と国家の指導者、李鵬、尉建行、喬石、楊尚昆、栄毅仁、宋平、布赫《ふせき》、李鉄映が親しく本館を参観し指導しました。
 (写真を指して):これは大中小学生達が館内で参観し、「国恥を忘れることなく、中華を振興しよう」の記念活動を行っています。
 (写真を指して):オーストラリア上院議長マクリード・リードや世界各国の友人も参観しました。
 (写真を指して):1995年、日中友好協会会長・平山郁夫先生は、歴史を教訓とし、日中友好を増進しようという講話を館内で発表しました。1987年、日本の元衆議院議長土井たか子は、日本社会党執行委員長の身分で来館し受難者を祭りました。1998年、日本自民党元幹事長代理・野中広務、日本の前首相村山富市先生が来館しました。これは日本の著名な俳優中野良子と日本で初めて駐中大使に任ぜられた林佑一が受難者に謹んで花輪を献じている所です。
 (写真を指して):日本の友人、市川誠先生が、本館の開館第一日に贈ってくれた「鎮魂鐘」です。鐘声でもって亡霊を慰め、平和を祈ります。

58、「南京大虐殺事件についての研究と宣伝」展示板の前

 (史料書籍を指して):南京大虐殺という重要な国際的影響を持った歴史事件は、国内外の史学界及び平和学の専門学者から広く重視されており、相次いで中国、日本、アメリカ等の国で少なからぬ学術機関が成立し、専門的研究と宣伝が行われ、一群の日本軍南京大虐殺の暴行を暴露する専門著書が出版されています。同時に、文芸界もまた映画、散文、詩歌、絵画等の各種の形式で宣伝を行い、歴史の教訓は忘れてはならないと人々を戒めています。

59、「結びの語の部分」標題板の前

 世界反ファッショ戦争において中国の抗日戦争は半世紀も前に既に勝利を得、中日両国もまた1972年に国交正常化を実現しました。しかし、日本国内のある一部の人がみだりに軍国主義復活を画策していることは警戒に値します。歴史は一個の鏡であり、歴史を回顧するのは今日と未来とを創造するためです。我々は高く愛国主義の旗を掲げ、我が国の富強のため、人類の恒久平和のために努力奮闘しなければなりません。

60、「今日の南京」写真の前

 現在の南京は、既に520万以上の人口を有し、古都の特色と現代化した都市が融合して一体となった長江のほとりの古い街です。南京人民は平和を愛好し、また自分の家郷をとても熱愛し、その建設に努力しています。見てください、(写真を指して):かつて中国侵略日本軍の重大な破壊を受けた歴史文化古都・南京市は、既に初歩的に現代的な装いを持った新型都市に建設されています。
 解説はこれで終わります、ありがとうございました! 


幸存者:夏淑琴


(侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館館長朱成山 編集執筆) 
【参考資料】

南京大虐殺記念館、改装へ 展示面積は3倍に

 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(南京大虐殺記念館)で15日、陳列館の改良に関する学術シンポジウムが開催された。シンポジウムでは、関連部門は近く多額の資金を割いて、陳列館の改装を実施することが明らかになった。改装により、展示面積が現在の約1700平方メートルから約5千平方メートルに拡張される。
南京大虐殺記念館は1985年に建設された。以降、大規模な改装は1987年と1994年の2回行われている。現在の展示品は10年前の改装時のままで、資料が古くなるなどで、展示効果への影響が出ている。特に、今年3月に無料公開してから参観者がますます多くなり、新たなニーズに応じられなくなくなっている。
記念館の朱成山館長によれば、南京大虐殺の調査や研究が進むにつれ、当時南京に滞在したドイツ人が大虐殺について記した「ラーベの日記」や日本人元兵士の日記である「東史郎日記」、日本人元兵士・伊藤兼男氏の写真集などが出版されたほか、中国の民間や日本、ドイツ、デンマークなどの諸国から大量の資料が見つかり、収集されている。現在の展示ホールではこうした資料を陳列する充分なスペースがないため、改装が必要になった。朱館長は「来年は抗日戦争勝利60周年でもあり、新たな姿で国内外の参観者を迎えるため、陳列館の展示品も更新するべきだ」と話した。(編集MM)

「人民網日本語版」2004年8月16日             
http://people.ne.jp/2004/08/16/print20040816_42429.html




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