中国侵略日本軍南京大虐殺遇難同胞記念館・解説
その4 展示史料解説部分(中)



38、「日本軍の南京への狂気の爆撃」展示板の前

 日本軍は上海に進攻すると同時に、何度も航空機を出して南京を爆撃しました。わずかに8月15日から10月15日の2ヶ月内だけでも、日本軍の南京空襲は65回に達し、最も多い日には、[来襲]航空機はのべ90余機に達しました。多くの市民が爆死し、多くの公共施設、工場、そして民家が爆破されました。南京市内は家屋が倒壊し、血肉が乱れ飛びました。続いて写真を見てください。
 (写真を指して解説):これは日本軍の航空機が低空から南京を爆撃している写真です。これは日本人自身が撮影したものです。
 (写真を指して解説):この写真は日本軍が当時、南京市を爆撃するのに用いた航空地図であり、図上「3」の字が書いてある所が3号投下点であり、おおよそ市内南部の武定門付近です。
c:これは当時の南京市市長・馬超俊の[書いた]、南京爆撃についての報告と爆撃被害者についての結びの文の一部があります。この結びの文には、南京が日本軍機の爆撃で受けた損失の実際の数字が詳細に記載されています。
 (写真を指して解説):これは南京の衛生事務所が日本軍機の爆撃を受けた後の情況です。
 (写真を指して解説):これは日本軍機爆撃後の評事街の惨憺たる光景です。

39、「南京の陥落」標題板の前

 1937年11月20日、国民政府は重慶遷都を宣言し、同時に、唐生智を南京衛戍《えいぼ》区司令官に任命し、10余万の兵力を投入して南京を守備しました。12月5日から8日にかけて、彼我双方は江寧、湯山、龍潭等の地で遭遇し戦闘となりました。10日から12日にかけて、また雨花台、上新河、紫金山、光華門等の地点で激戦を展開し、12日午後5時に至って、中国守備軍はあわただしく撤退し、南京は遂に陥落しました。
 (史料を指して解説):日本軍参謀本部は、1937年12月1日南京攻撃に関する大陸命令の第8号令を下達しました。
 (史料を指して解説):これは南京に進攻した日本軍の主要部隊序列です。指揮官は華中方面軍司令官松井石根、その配下には朝香宮親王率いる上海派遣軍と柳川平助率いる日本軍第10軍の主要部隊があり、おおよそ20余万人でした。
 (史料を指して解説):これは中国守備軍の将領と部隊序列で、おおよそ11万人余りです。
 (写真を指して解説):これは南京で戦死した中国守備軍の中下級将校の一部の写真です。
 (公文書史料を指して解説):これは中国守備軍司令・唐生智が下達した12日午後5時前の撤退命令です。ここに至って、南京市は既に無防備都市となりました。
 (写真を指して解説):南京市には13の城門があり、日本軍は12月13日最初に中華門から侵入しました。これは日本軍が光華門を占領した所です。これは日本軍が長江を渡るための避難民の竹いかだを砲撃している所です。?
 12月17日、日本軍は南京占領の入場式を挙行しました。日本軍司令官松井石根は馬にまたがり武威をひけらかしました。
 これは1937年12月14日、日本国内の新聞の南京占領についての報道です。真相を知らない日本・東京の10万余りの市民は、大通りを提灯行列して狂喜し、南京の陥落を「慶祝」しました。しかし、この時、南京の人間はむごたらしい日本軍の虐殺に遭い、血だまりの中に倒れていたのです。


史料陳列ホールの一角

40、「日本軍の殺す、焼く、犯す、奪うの暴行」標題板の前


 続いて私は第二部分の史料:「日本軍の殺す、焼く、犯す、奪うの暴行」について紹介します。? 歴史学者たちの研究によると、日本軍の南京大虐殺事件においての暴行は四方面の内容を含んでいます。すなわち虐殺、焼く、そして強姦と略奪です。まず日本軍の虐殺について紹介します。

41、「虐殺方針と犯罪の元凶」標題板の前


 日本軍が南京を占領した後、「中国を恐怖させ屈服」させるため、計画的に大規模な虐殺を展開しました。我が罪のない同胞はむごたらしくも日本軍の集団射殺に遭い、かつ死体を破毀され隠滅されたもの19万人余り、日本軍の小規模な虐殺に遭って、その死体を慈善団体によって埋葬されたものは15万体余りに達し、被害総人数は30万以上に達しました。
 (資料を指して解説):1937年11月下旬、松井石根は南京への進攻を下達した命令の中で、露骨にこの場での虐殺方針をむきだしています。大体の意味は、中国の首都南京を占領したならば、武力をもって中国を恐怖させ屈服させねばならない、というものです。
 (資料を指して解説):日本軍第16師団長中島今朝吾の日記には、日本軍の大虐殺の方針:「おおよそ捕虜は留保せず、全部これを処理せよ」と披瀝されています。
 (写真を指して解説):これは、ここでの大虐殺を受け持った日本軍の犯罪元凶たちの一群です。

42、「大規模な捜索捕縛」展示板の前
 (「捜索捕縛路線図」を指して解説):日本軍は南京を占領した後、南京で大規模な「捜策捕縛」を行いました。これは日本軍が南京市内外で区分けして捜索捕縛を行った路線図です。
 (写真を指して解説):これは日本軍が中山東路で狩り出した青壮年が、郊外での集団虐殺に連行される写真です。写真に出ている碑は今なお中山東路の中国第二歴史文書館前に残っています。この「不」の字の印章は、当時の日本軍が写真を検閲した後、公開発表を「不許可」としたしるしです。
 (写真を指して解説):この写真は、日本軍の軍用トラックが南京市民を積み込んで、集団虐殺のために郊外に運び出そうというものです。
 (写真を指して解説):日本軍は武器を放棄した中国軍人を大量に捜索捕縛すると同時に、国際安全区内に留まって秩序を維持した中国警官をも見逃しませんでした。これは日本軍が400余名の中国警察官を漢中路に沿って、漢中門外の秦淮河《しんわいが》のほとりでの虐殺に連行した写真です。

43、「集団大虐殺」展示板の前

 虐殺の規模から区分して、南京大虐殺には集団虐殺と分散虐殺の二つがあります。?
 (幕の背景を指して):これは日本軍の集団虐殺後、長江のほとりに残された大量の死体です。?
 (彫像を指して):この像は母と子と名づけられています。年若い母親は既に日本軍に殺害され、ただ孤児が遺されて母親の身体に伏せて痛ましく泣いています。
 (ケースを指して解説):南京大虐殺30万の数字は近年になって提出されたものではなく、歴史上早期に定論となったものです。これは1946年の中国南京の戦犯審判軍事法廷の調査確認に基づいた集団大虐殺の説明図です。この図では、皆さんは集団虐殺に遭った遇難同胞が19万人余りであることをはっきりと見て取ることが出来ます。その中でも、5万人以上は燕子磯《えんしき》と草鞋峡《そうあいきょう》の両所、5万人以下1万人以上は魚雷営、煤炭港、中山埠頭、上新河、雨花台などの所です。集団虐殺地点は主要には長江のほとりに分布しており、これは日本軍が市の南部から市の北部へと捜索捕縛し、大量の難民と中国の除隊兵が長江を渡って江蘇省北部に逃げようとしたためで、当時、長江には船舶がなく、加えて長江の南京部分は江面が広く、水の流れが急で、また日本軍の航空機と砲艦が長江を封鎖していたので、長江のほとりに滞留していた難民の大群は、それぞれ日本軍に包囲して捕まえられ、ほとりで殺害されました。
 (ジオラマを指して解説):このジオラマは中国侵略日本軍の南京大虐殺の説明図です。当時、日本軍の主な攻撃方向は市の南の中華門、武定門、光華門の一線でした。最初に攻め破られたのが中華門で、続いて南から北へ大虐殺が展開されました。緑色の線で表示した区域は、当時の国際安全区の位置です。赤い点で表示したのは集団虐殺の地点です。本館は市西部の上新河地区の江東門に位置しており、当時また集団虐殺が行われた場所の一つです。
 (資料を指して解説):当時、下関《かかん》の発電所内には、45名の労働者がいて、むごたらしく殺害されました。これは遇難労働者の名簿です。
 (資料を指して解説):1937年12月28日、上海のイギリスの中国語新聞は、日本軍が南京で集団虐殺:「市内、罪なき住民の死体が通りを埋め尽くし、長江辺りの城門を見れば、死体は堆積して山を成し、高さ1・に及ぶ」とのニュース報道を載せました。この死体が堆積して高さ1㍍に及んだという城門は市の北の湍江《たんこう》門を指しています。
 (写真を指して解説):市の南の中華門の外では、集団虐殺に遭った青壮年の死体が通水溝に満ちあふれました。
 (陳列台を指して解説):これは1998年2月、中山埠頭・下関《かかん》発電所の排水工事の施工中、発掘された日本軍が当時、虐殺現場で使用した銃弾、弾頭、手榴弾、ホーローのコップ等の一群の物証です。
 (油絵を指して解説):この大型の油絵は、中国軍事博物館の画家・徐宝中などの人々が創作したもので、それは当時の燕子磯《えんしき》大虐殺の無残な情景を再現しています。それは大量の遇難同胞の死体が漂う長江。これは燕子磯、三台洞。これは狂気の集団虐殺を行う日本軍人。これはまさに殺害されようとしている同胞、彼らの中には、老人もおれば、また婦人や児童もおり、教師、労働者、農民、学生、また中国の負傷兵と警官もいます。
 (展覧板を指して解説):この展覧板に展示されているのは集団虐殺の一部の幸存者の写真と証言です。
 (写真を指して解説):この老人は名を唐広普と言い、当時、彼は中国守備軍のある後方勤務中隊の戦士で、日本軍につかまり、草鞋峡《そうあいきょう》で虐殺に遭った時に、その他の遇難同胞の死体の下に隠れ、幸いにも難を免れました。夜中に、彼は死体の山から這い出て、生きのびることが出来ました。
 (写真を指して解説):劉永興は当時、衣服を作る裁縫師でした。彼は弟と一緒に日本軍によって国際安全区内から狩り出され、中山埠頭に連行されました。機関銃が発射された時、兄弟はともに長江に跳び込みました。弟は銃弾が命中し、その場で死亡。劉永興は水に潜って長江のほとりの1艘の古い船のわきに隠れ、水中に何時間も漬かっていました。夜中の時分になって、彼は岸に這い上がり、幸存を得ました。
 (写真を指して解説):潘開明は当時、人力車引きの車夫でした。手にたこがあったため、中国兵であるとして日本軍により国際安全区内より狩り出され、煤炭港に連行されました。彼は、ここでの集団虐殺の中で幸いにも難を免れました。
 (写真を指して解説):彼は伍長徳と言い、当時、国際安全区内で秩序を維持する交通警察官でした。彼は400余名の中国警官と一緒に、日本軍によって漢中門外の秦淮河のほとりに連行され、集団虐殺に遭いました。機関銃が発射された時、伍長徳はチャンスをとらえて地に伏せました。後で、日本軍が銃剣で止めを刺そうとした時、銃剣は彼の身体の上の死体を突き抜けて彼の背中に突き刺さり、傷跡を残しました。1946年、伍長徳は東京に赴き、極東国際軍事裁判で日本の戦犯を審判するために証言をしました。
 (展覧板を指して解説):日本軍は長江のほとりで集団虐殺をした後、死体を破毀し、隠滅するため、大量の難民の死体を長江の中に投げ込みました。これは長江のほとりに打ち上げられた大量の難民の死体です。
 (展覧板を指して解説):この写真は日本軍の従軍記者村瀬守保が現場で撮影したものです。撮影地点は下関の幕府山にある一兵営で、ここで日本軍は捕虜の中国人将兵を合わせて14777人を監禁していました。後に、これらの人々は全部、長江のほとりの草鞋峡に連行され虐殺されました。



史料陳列ホールの一角

44、「分散虐殺」展示板の前


 日本軍は狂気の集団虐殺を実行すると同時に、また南京の大通りや路地、庭園住宅、寺院廟堂、村落田野などでほしいままに人を殺し、南京市内外は到る所に死体が横たわり地に満ちました。1946年の中国・南京の審判日本戦犯軍事法廷の調査立件によると、小規模な虐殺は合わせて858件、小規模虐殺に遭い、慈善団体に埋葬された死体は15万体余りと確認されました。
 皆さん、一連の写真を見てください。
 (写真を指して解説):日本軍の殺人手段は極めて残忍で、まず銃殺。この2枚の写真は一人の農民が日本軍によって銃殺される前後の情況を映し出しています。
 (写真を指して解説):斬殺。この青年は日本軍に斬られて顔中血だらけです。
 (写真を指して解説):生き埋め。これは日本軍が中国の難民を生き埋めにしている所です。
 (写真を指して解説):刺殺。中国人を刺殺訓練の生きた的としました。残忍野蛮な日本軍は婦女、児童も容赦しませんでした。この二人の児童は一人は3歳、一人は7歳、彼らはまた日本軍に刺殺されました。
 (写真を指して解説):李呉氏は纏足《てんそく》した老婦人でしたが、日本軍の道案内を拒否したため、腹部を撃たれ、地に倒れて死亡し、はらわたがみな出ました。
 (写真を指して解説):この老人は名を夏淑琴と言い、彼女の一家9人は日本軍によって7人が家で殺され、わずかに彼女と3歳の妹とが残りました。当時7歳の夏淑琴は日本軍に身体を3箇所刺され、今なお刀の痕があります。
 (殺人競争のスクリーン背景を指して解説):「殺人競争」です。これは日本の『東京日日新聞』が1937年12月連続して4編、日本軍の二人の少尉が南京・紫金山で行った殺人競争のニュースを掲載したものです。この二人の少尉は、一人は向井敏明と言い、一人は野田毅と言います。彼らは南京へ進攻する際、どっちが先に100人の中国人を殺すか競争してみようと約束しました。12月14日、彼ら二人が南京東郊の紫金山で落ち合った時、一人は105人を殺し、一人は106人を殺し、どっちが先に100人を殺したかは判明できませんでした。そこで、二人はハハハと大笑いし、150人を新たな目標として殺人競争を続けようと約束しました。これは二人の犯罪者が南京紫金山で一緒に撮った写真です。
 (「百人斬り」の軍刀を指して解説):台湾の台北歴史博物館内には、今でも一本の「百人斬り」の凶刃が陳列されており、刀のみねには「南京之役殺一〇七人」の字句が刻まれています。それは1945年日本戦犯の手から鹵獲された後、台湾に運ばれました。
 (「殺人を楽しむ」展覧板を指して解説):「殺人を楽しむ」。このちょうど刀をふるって首をはねようとしている日本軍人は田中軍吉と言います。彼は「助広」という名の一本の軍刀を使って、南京で300余人の首をはねました。
 (「殺人模範」展覧板を指して):「殺人模範」。これは日本軍が新兵に殺人の模範を示すための4組の組写真です。襟をつかむ、刀をふるう、刀のきっさきが一閃《いっせん》するや首は体を離れ、地に倒れます。
 (中国画を指して解説):また「人を殺して馬を祭る」というのがあります。市の西の上新河の綿花堤で、日本軍の一頭の軍馬が流れ弾に当たって死にました。そこで9人の中国人を探してきて穴を掘らせて馬を埋め、また彼らに無理やり自分の家の戸板をかついでこさせて、墓碑を作りました。その後、馬を埋めさせた9人の中国青壮年の男子を全部殺してしまい、九つの血のしたたった人頭によって一頭の死馬を祭ったのです。 
 (写真を指して解説):溺死があります。この池の中には、水につかった数百体の死体があります。
 (写真を指して解説):焼殺があります。これは焼け焦げた難民の死体で、残酷で見るに忍びないものです。


殺人競争の下手人
向井敏明、野田毅

45、「婦女強姦の暴行」標題板の前

 日本軍は残酷に大虐殺を行うと同時に、また人間性のかけらもなく婦女を強姦しました。極東国際軍事裁判の判決によると、日本軍が南京を占領した一ヶ月余りの間に、市内では二万件余りの強姦・輪姦といった暴行が発生しました。このように短時間の間に、このように多くの強姦暴行が発生したのは、人類文明史上ほとんど例を見ないことです。そのため、当時南京にいた外国人士は、日本軍を「獣類の集団」と憤怒をこめて譴責しました。
 (写真を指して解説):これは当時、南京光華門外で発生した日本軍にまず強姦された後に殺された妊婦で、胎児とはらわたは全部、体外に出ました。
 (写真を指して解説):日本軍の暴行の対象は、上は70歳の老婦から、下は9歳の幼女にまで及びました。
 (写真を指して解説):この老人は名を李秀英と言い、当時19歳で、妊婦でした。彼女は国際安全区内に逃れ五台山小学校の地下室に非難した時、3人の日本兵の凶暴に反抗したため、顔面、身体、ももと37箇所刺されました。これは当時、南京鼓楼医院でアメリカ人医師ロバート・ウィルソンが治療した時、アメリカ人宣教師ジョン・マギー氏が撮影した写真です。

46、「略奪暴行」表題板の前

 日本軍はほしいままに略奪し、到る所、私人の住宅であれ、役所、商店、倉庫、ひとしく空っぽにしました。日本軍の奪わないものはなく、外国居留民の財産もまた難を免れませんでした。
 (写真を指して解説):1937年12月15日、日本軍は軍用トラック、馬車、自転車、乳母車など市内にあった各種の運輸手段を動員して、南京で組織的に市民の財物を略奪しました。
 (写真を指して解説):この写真の条文は南京を占領した日本軍が書いたもので、「12月13日午前10時、小池部隊占領、客車8両、機関車3両」とあります。12月13日は、日本軍が南京市に侵入した第1日目です。
 (写真を指して解説):これは日本軍が南京市民を身体検査して、銀貨を奪っています。
 (写真を指して解説):当時、南京にいたイギリス人記者デンプレーは、彼の書いた『外国人の目撃した日本軍の暴行』という本の中で書いています。市内南部夫子廟「石壩街50号の漢方医石篠軒から有名な書籍4箱、書画骨董2000余点、木器400点、衣服30余箱を略奪。」
 (史料を指して解説):日本軍はまたほしいままに財物を略奪しただけでなく、また狂ったように文物、図書を略奪し、「文化略奪」を実行しました。わずかに国立図書館だけでも奪い去られた図書資料は88万冊、300余両のトラックで埠頭に運ばれ、海路より日本に運ばれました。
 (史料を指して解説):日本軍はまた狂ったように経済略奪を実行しました。1937年12月、日本海軍は永利アンモニア化学工場を占領し、その工場の全硝酸アンモニア設備550トンを略奪し、日本国内に運び、九州大牟田東洋株式会社横須工場内に据え付け、軍用火薬を生産するのに用いました。この設備は当時先進水準のものであり、かつて中国で初めて硝酸アンモニアを生産しました。

47、「焼くという破壊暴行」標題板前

 日本軍は到る所で火を放って燃やし、大火濃煙は1ヶ月にも渡って全市に立ちこめました。全市で焼かれた家屋は3分の1以上に達し、当時、南京市は破壊の跡が累々とし、到る所、廃墟だらけでした。公私の財産の損失は数えがたいものがありました。
 (写真を指して解説):凶暴な日本軍が、南京郊外の集落を燃やしている所です。
 (写真を指して解説):これは日本軍が南門大街で放火しているところです。
 (写真を指して解説):南京の古城壁は明代に建てられ、600年余りの歴史があり、文化古都・南京を代表する建築の一つです。日本軍が南京に侵攻した時、爆破、砲撃等の手段で破壊しました。これは日本軍が爆破した中山門城壁の一角の写真です。
 (写真を指して解説):これは光華門城門に残された累々たる弾痕の写真です。
 (資料を指して解説):日本軍は中山陵を守備していた26名の兵士を凶暴に殺害し、また砲弾によって中山陵石段前の銅の鼎に穴をあけました。弾痕のある銅鼎が、今でも中山陵の石段の上に残っています。

48、「国際安全区内の暴行」標題板の前

 南京の陥落前、当時に南京にいた外国人士は、自発的に南京国際安全区(また難民区とも言う)委員会を成立させました。3.86平方㍍の一区画を国際安全区と定め、四面を大通りで区切り、25の難民収容所を設け、最も多い時にはおおよそ25万の難民を収容しました。当然、安全区も決して安全ではなく、安全区に逃れた多くの難民も、同様、日本軍に狩り出され、虐殺、強姦されました。
 (写真を指して):これは南京国際安全区委員会の一部のメンバーの写真で、真ん中が委員長・ドイツのシーメンス社の南京事務所責任者ジョン・ラーベ氏。
 (写真を指して解説):南京陥落の初め、多くの難民が続々と国際安全区に避難しました。
 (写真を指して解説):これは金陵女子文理学院・難民収容所の活動家で、前列中央はアメリカのミニー・ヴォートリン女史。彼女の中国名は華群だったので、当時の難民は彼女を華ねえさんと呼びました。彼女はかつて金陵女子文理学院、現在の南京師範大学の校門を守り、日本軍が学院内に侵入して婦女をさらったり蹂躙するのを阻止しました。そこに避難した9千名余りの中国の婦人と児童を保護するためでした。彼女は毎日二・三時間眠るだけで、高度の緊張のため、彼女は精神分裂症を患いました。
 (写真を指して解説):国際安全区内では、臨時に難民のバラックが立てられました。難民たちは家があっても帰ろうとせず、ここで悲惨な生活を送りました。


ジョン・ラーベ

49、「死体の破毀隠滅と埋葬」標題板の前

 南京大虐殺30万人以上の数字については、当時の死体破毀、埋葬の記録が、客観的な証拠を提供しています。
日本軍の血なまぐさい虐殺の後、南京市内外には死体が地を覆いました。日本軍はその暴行を覆い隠すため、穴を掘って埋め、ガソリンをかけて焼き、死体を長江に棄てるなどの方法で、死体を破毀し、隠滅したものは15万余体に及び、南京の慈善団体及び私人が、同胞の死体が外にさらされているのを見るに忍びず、あるいは組織的に、あるいは自発的に22万体余りを埋葬しました。
 (写真を指して解説):撫順戦犯管理所に収監された日本人戦犯太田寿男は、かつて南京を占領した日本軍部隊は、区域ごとに分担して、計画的組織的に死体の破毀隠滅の暴行を行ったと白状し認めました。彼はこの供述書の中で、彼の所属したのは日本軍第2碇泊場司令部で、彼と別の一名の安達という少佐は、800名の将兵、30隻の小船、10両の自動車を率いて、毎日、下関《かかん》、浦口一帯の長江のほとりで死体の破毀隠滅に従事したと、承認しています。彼らの処理を経た死体は10万余体に達し、その他の日本軍攻城部隊の処理した死体は5万余体に達しました。
 (鉄桶などの実物を指して解説):南京鋼鉄工場の労働者郭永柱は、彼の家で長年保存していた三つの実物:鉄桶・長鉄針・鉄釘を本館に寄贈しました。これは彼の祖母が当時、長江河畔の日本軍の死体破毀現場から拾って来たものです。この鉄桶の口には一個の小さな銅メダルがあり、それには「昭和十二年宮崎株式会社制造」との文字列が刻まれています。昭和十二年とは1937年であり、これは日本軍がガソリンをかけて死体を焼くために用いたものです。長鉄針と鉄釘とは日本軍が難民の目を突くために用いたものです。
 (ケースを指して解説):このケースの写真は、1946年に日本戦犯を審判した中国南京軍事法廷の工作人員が撮影したもので、そこは墓だらけです。長江河畔の草鞋峡《そうあいきょう》には一個の石碑があり、「民国二十六年、草鞋峡無主孤魂墓」の字が刻まれていました。民国二十六年とは、すなわち1938年です。無主孤魂の墓とは、そこで虐殺された姓名の分からない遇難者を指します。
 (慈善団体の死体埋葬展示板の前で解説):当時、死体の埋葬に参与した慈善団体は主に五つで、崇善堂、同善堂、世界紅卍字会南京分会、中国紅十字会と回民[イスラム教徒]埋葬隊で、あわせて死体185000体余りを埋葬しました。その中の崇善堂の埋葬した死体が最も多く、112267体です。これは当時、崇善堂の埋葬隊員・崔金貴の写真で、彼は現在まだ健在です。
 これは慈善団体が死体を埋葬した時に使用した隊旗、鉄鍬、死体をかついで運ぶためのかご、竹ざお及び埋葬隊員のベストと身に付けた袖章です。
 (史料を指して):これらの表の数字は、当時の埋葬統計の真実の記録です。当時、雇用された隊員が死体を埋葬したため、一定の金銭あるいは食糧を給付する必要があり、もとの記録が残り、何月何日にどこで何体の死体を埋葬したかが詳細に記録されました。現在、これらの記録の原本はなお中国第2歴史文書館と南京市文書館とに分かれて保存されています。
 (史料を指して解説):これは南京に留まった市民芮芳縁《ぜいほうえん》等の人は、自発的に組織して同胞の死体を埋葬しました、これは彼らが中華門外で遇難同胞の死体を埋葬した文書です。  
 (史料を指して解説):当時、湖南省に二人の材木商がおり、名を盛世征、昌開運と言いました。彼らは長江を通過して湖南から南京市西部の上新河まで材木を運んでいました。1938年初め、彼ら二人は同胞の死体が数ヶ月もの間、郊外に野ざらしにされているのを見るに忍びず、そこで自分で金を出して労働者を雇い、上新河地区で被害を受けた28730体の死体を埋葬しました。不完全な統計によると、当時、私人が埋葬した死体は35000余体に達しました。
 当時、日本によって樹立された南京の傀儡政権も、社会秩序を回復するため、また死体の埋葬と収容を組織しました。
 (史料を指して解説):これは傀儡下関《かかん》区長の劉連祥が死体の埋葬を組織した報告です。
 (写真を指して解説):これは傀儡政権が1939年初め、東郊外の霊谷寺の東、現南京体育学院の側に立てた無主孤魂墓です。この無主孤魂墓の墓碑は傀儡南京市政府が監督したもので、傀儡南京市長・高冠吾が題字を書いています。大意は、1939年の2月、東郊外の卯山、馬群一帯の山上に一年有余もの間、少なからぬ死体が郊外にさらされていると、絶えず市民からの報告を受けたので、ここにおいて、市衛生局に命じ、人員を組織して、遺骸3000余体を収集し、霊谷寺の東の地に運んで、深く埋めて動物を避け、厚く封じてその所を記し、墓前に酒肉を設けて孤魂を祭る。




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