38、「日本軍の南京への狂気の爆撃」展示板の前
日本軍は上海に進攻すると同時に、何度も航空機を出して南京を爆撃しました。わずかに8月15日から10月15日の2ヶ月内だけでも、日本軍の南京空襲は65回に達し、最も多い日には、[来襲]航空機はのべ90余機に達しました。多くの市民が爆死し、多くの公共施設、工場、そして民家が爆破されました。南京市内は家屋が倒壊し、血肉が乱れ飛びました。続いて写真を見てください。
(写真を指して解説):これは日本軍の航空機が低空から南京を爆撃している写真です。これは日本人自身が撮影したものです。
(写真を指して解説):この写真は日本軍が当時、南京市を爆撃するのに用いた航空地図であり、図上「3」の字が書いてある所が3号投下点であり、おおよそ市内南部の武定門付近です。
c:これは当時の南京市市長・馬超俊の[書いた]、南京爆撃についての報告と爆撃被害者についての結びの文の一部があります。この結びの文には、南京が日本軍機の爆撃で受けた損失の実際の数字が詳細に記載されています。
(写真を指して解説):これは南京の衛生事務所が日本軍機の爆撃を受けた後の情況です。
(写真を指して解説):これは日本軍機爆撃後の評事街の惨憺たる光景です。
39、「南京の陥落」標題板の前
1937年11月20日、国民政府は重慶遷都を宣言し、同時に、唐生智を南京衛戍《えいぼ》区司令官に任命し、10余万の兵力を投入して南京を守備しました。12月5日から8日にかけて、彼我双方は江寧、湯山、龍潭等の地で遭遇し戦闘となりました。10日から12日にかけて、また雨花台、上新河、紫金山、光華門等の地点で激戦を展開し、12日午後5時に至って、中国守備軍はあわただしく撤退し、南京は遂に陥落しました。
(史料を指して解説):日本軍参謀本部は、1937年12月1日南京攻撃に関する大陸命令の第8号令を下達しました。
(史料を指して解説):これは南京に進攻した日本軍の主要部隊序列です。指揮官は華中方面軍司令官松井石根、その配下には朝香宮親王率いる上海派遣軍と柳川平助率いる日本軍第10軍の主要部隊があり、おおよそ20余万人でした。
(史料を指して解説):これは中国守備軍の将領と部隊序列で、おおよそ11万人余りです。
(写真を指して解説):これは南京で戦死した中国守備軍の中下級将校の一部の写真です。
(公文書史料を指して解説):これは中国守備軍司令・唐生智が下達した12日午後5時前の撤退命令です。ここに至って、南京市は既に無防備都市となりました。
(写真を指して解説):南京市には13の城門があり、日本軍は12月13日最初に中華門から侵入しました。これは日本軍が光華門を占領した所です。これは日本軍が長江を渡るための避難民の竹いかだを砲撃している所です。?
12月17日、日本軍は南京占領の入場式を挙行しました。日本軍司令官松井石根は馬にまたがり武威をひけらかしました。
これは1937年12月14日、日本国内の新聞の南京占領についての報道です。真相を知らない日本・東京の10万余りの市民は、大通りを提灯行列して狂喜し、南京の陥落を「慶祝」しました。しかし、この時、南京の人間はむごたらしい日本軍の虐殺に遭い、血だまりの中に倒れていたのです。
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史料陳列ホールの一角
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