毎月の町会便りに掲載している読み物です。バックナンバーを読みたい、他町在住なので読めないなどの声にお答えしバックナンバーを掲載いたします。
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彫物の武者の表情が何だか怖くって苦手といった子供達も少なからずいるだろう思います。
我が宮本地車にも勇壮で迫力満点の彫物が豪華に施されています。しかしながらちょっと目線を変えてやると随所に愛くるしい動物達が刻まれているのをご存知でしょうか?今年の祭は動物探しをしてみてはいかがでしょう。
まず大屋根正面と左の枡合、題材は「忠臣蔵」。ここには「犬」が彫られています。これは第五代将軍綱吉の生類憐みの令により街中にたくさんの犬がいたと思われる史実によるものです。
そして腰廻り、正面土呂幕。「夏の陣 道明寺 薄田隼人」には向かって左下に「小さいお猿さん」がいます。正面土呂幕を手がけられた彫師河合申仁師の干支にかけたものです。次に右平面の土呂幕「義経八艘飛」の中央下部の波間には「イルカ」、左下には「ヘイケ蟹」が刻まれています。その右平面の縁葛は「富士ノ巻狩」、ここには仁田四郎と対峙する「大猪」に「兎」「鹿」「猿」とたくさんの動物がいます。次に後面、小屋根の車板。車板は覗き込まないと見られない部分ですが「天乃巌戸」の場面が彫られており踊るウズメノミコトの足元に「長鳴鳥(ニワトリ)」がいます。
竹の節には「蝉」がまるで本当にとまっているように刻まれているのはご存知の方も多いでしょう。新調が夏の暑い時期であり地車にたかることにかけた洒落の利いた彫物です。
そして摺出し鼻、宮本の子供達が元気に育ちますようにと御伽噺、「桃太郎」と「金太郎」が題材に選ばれていますが「桃太郎」には「犬」「猿」「雉」、「金太郎」には投げ飛ばされた「熊」のほか「兎」「猿」に「鹿」が彫られています。
最後に「千亀利」にちなみ「亀」、水板各所と大屋根正面懸魚に彫られています。懸魚の中央下から顔を覗かせている亀を見るのは至難の技ですがぜひ探してみてください。
我が宮本第五代地車の正面土呂幕には大阪夏の陣、道明寺における薄田隼人の奮戦ぶりが二代目よりの歴代地車に刻まれているのは皆様ご存知と思われます。さて薄田隼人は歴史の教科書などに出てくることはございませんが、いったいどのような人物だったのでしょうか。
薄田隼人は薄田隼人正兼相といい当初は小早川隆景、のちに豊臣秀頼に仕え三千石を領し、「大坂城一の怪力の持ち主」と言われた武将です。
大坂冬の陣、薄田隼人は浪人衆を率い博労ヶ淵砦(木津川)を守りましたが、敵軍が砦を攻撃してきた時、薄田隼人は娼婦の家に泊まりこんでおりました。大将不在の砦は敵軍にあっさりと落とされてしまいました。
この大失態により人々は薄田隼人を「橙武者」とあだ名しました。「橙」は見た目ばかり立派で食べられない、薄田隼人は格好は立派だが使い物にならぬ武者だと馬鹿にしたのです。
これを大いに恥じた薄田隼人は続く大坂夏の陣を決死の覚悟で臨む事となります。道明寺(藤井寺市)にて陣を率い大杯の酒を飲み謡曲を楽しみながら敵を待つ薄田隼人の元に敵が押し寄せた旨の報が届くや否や薄田隼人は栗毛の馬に飛び乗り鉄棒を引っさげて敵軍勢に攻め込み散々に討ち悩ましたそうです。
そして、自らの最期を覚悟していた薄田隼人は捕らえた若武者(土呂幕では若武者松平忠昌が薄田隼人に討たれ倒れた場面)の天晴れな覚悟に功名をと自らの脇腹に刀を突き立て生涯を閉じたとのことです。薄田隼人正兼相の潔さ、豪胆さに心引かれるものを感じずにはいられません。
見送り右平に馬上の塙團衛右門(ばん だんえもん)がいます。信長、秀吉、加藤嘉明などに仕え関が原の戦いに参戦しその後も様々な武将に仕えるも長続きせず一時期は仏門に入ったと言われています。
大坂の陣では豊臣方に仕え活躍、夏の陣樫井合戦(泉佐野市)にて右の脇障子に彫られている岡部大学則綱と功を競い先方争いの末、敵待ち伏せにより討ち死にしてしまいました。
さて、この見送り塙團衛右門と正面土呂幕の薄田隼人が別な部分で一緒に掘られているのをご存知でしょうか。それは匂欄合「岩見重太郎一代記」の数箇所にあります。「岩見重太郎一代記」は豪傑の重太郎が剣術修行をし武術修行の為に諸国を漫遊し、途中大狒々退治や琵琶湖湖上で難破などを経て最後に父と兄の敵討ちを遂げると云う物語です。この物語の中で重太郎の妹お辻を助け、敵討ちに助太刀をしてくれるのが塙團衛右門です。團衛右門は匂欄合の後半部分数箇所に彫られています。 では薄田隼人はどこにいるのでしょうか。実は岩見重太郎というのは薄田隼人の幼少名であり重太郎が薄田隼人その人なのです。
匂欄合詳細です。ぜひ一度物語を追ってご覧下さい。
@岩尾山に於いて剣道修行乃場 岩尾山にて一人稽古をしているところに老翁が現れ重太郎に剣術を教えています。
A名島八幡祭り武藝大試合の立札を見る乃場 数年の修業の後下山した重太郎が武芸の試合の立て札を見つけました。
B 重太郎能ある鷹は爪を隠す乃場 鬼門大膳ら三人の豪傑達を重太郎が打ち倒します。
C 武術修行の為諸国漫遊暦乃場 もっと腕を磨きたい重太郎は諸国へ修行の旅に出ます。
D 父重左衛門暗撃に遭う乃場 試合で重太郎に負けた鬼門大膳達は腹いせに父重左衛門を鉄砲で撃ち殺しました。
E 兄重蔵逆討ちに遭う乃場 兄重蔵と妹お辻は父の仇である鬼門ら三人に挑むが兄重蔵は斬られてしまいます。
F 塙團衛右門直之義の為助勢乃場 もはやこれまでと思われたところに塙團衛右門登場、三人を追い散らします。
G 藤左衛門宅に於いて重太郎に嘆願乃場 一方の重太郎は近江の国で生贄にされそうな娘を助けることとなりました。
H 村人重太郎の入った箱を担ぐ乃場 娘の着物を被った重太郎が入った箱を村人が山奥のお社に運びます。
I 国常明神社にて狒々退治乃場 大狒々が現れ重太郎に襲いかかってきます。重太郎は見事これを退治します。
J 琵琶湖上岩見の遭難乃場 重太郎は村を去ります。その後、琵琶湖で大嵐に遭い船は沈没してしまいました。
K 村松に重太郎危難を救われる乃場 岸へと泳ぐ重太郎を百姓村松平左衛門が救ってくれました。
L下男十助初めて腕前を現す乃場 十助と名乗り村松に奉公することになった重太郎。ある日、村松の道場に現れた道場破り達を重太郎は退治します。
M 天の橋立に於いて妹お辻と再会する乃場 天の橋立で出会った塙團衛右門が連れた娘は妹お辻、團衛右門に礼を言い一緒の宿に泊ります。
N 宿屋に於いて親の仇と出会う乃場 あくる朝、宿屋の窓から往来を眺めていると親の仇鬼門大膳らを見つけました。
O 決戦天の橋立仇討乃場 戦稽古の場に居た三人に挑む重太郎兄妹。鬼門は軍勢二百を兄妹にけしかけます。
P 岩見に助太刀する塙團衛右門乃場 「なんと卑怯な奴ら」と團衛右門が軍勢に飛び込み助太刀してくれます。
Q天晴れ岩見兄妹見事本懐を遂げる乃場 團衛右門に驚き後に引いた敵勢、重太郎兄妹は見事敵討ちを果たします。
「兵糧攻め」という言葉を調べてみると「敵の食糧補給路を断ち、兵糧を欠乏させることによって打ち負かす攻め方」とのことです。籠城する敵に対してこのような攻めを行ったという話は数多く残っています。
さて今回書かせて頂きますのは 左平面縁葛「正成 千早籠城ノ奇策」 であります。
幕府軍に大群を差し向けられた正成軍は山中の千早城に籠城します。太平記によりますと幕府軍一百万兵、正成軍一千兵の戦いというお話なのですが、主役はあくまで攻められている正成のほうなのです。
この籠城を正成は奇策を持って臨みます。細長い平面の縁葛にはその準備の様子が三つ刻まれています。向かって左には籠城に備えて兵糧を蓄えている家来達の姿、右側には城内に五所の秘水といわれる水源を確保する姿があります。さらに城中にも雨水を蓄える設備まで整えたそうです。これにより兵糧の心配は無くなりました。縁葛中央には藁で作った人形に鎧兜を着せている姿があります。この人形を城外に多数立たせて敵を欺いたとのことです。さらに城壁に近づいた敵には大木や岩石や熱湯を頭上より浴びせ大軍相手に粘り強く籠城を続けました。山中に大軍で向かった幕府軍は次第に兵糧が尽きてしまい撤退を余儀なくされてしまいました。兵糧攻めをしていた幕府軍は、正成の策により自らが兵糧攻めされてしまう結果となりました。大楠公楠木正成の見事な作戦による勝利といえるでしょう。
宮本地車噺 Vol.5 「神社と地車」
お正月も近づいてきましたので今回は神社にちなんだ地車の彫物をご紹介したいと思います。
「宮一番」宮本町にとって岸城神社と地車は切っても切り離せるものではありません。
まず随所に見られる「木瓜紋」と「橘紋」、いわずと知れた岸城神社の御神紋であります。
「木瓜紋」は鳥の巣を上から見たものを図案化されているとも言われ子孫繁栄を、「橘紋」はみかんの原種である橘が常緑であることから永遠を連想させ大変縁起の良いものとなっています。
次に地車正面中央に鎮座する番号持ちは悪霊や疫病の退散を願い岸城神社の主祭神となっている「素盞鳴尊(スサノオノミコト)(牛頭天王(ごずてんのう)と同一)」です。右手に剣を持ちどっしりと座った素盞鳴尊の迫力には圧倒されます。良く見ると左手には小さな壺を持っています。これは法薬の入った薬壺であり、この部分のみ白檀の木が使用されています。是非一度ご覧になってください。
大屋根後面の枡合には岸城神社の社殿が刻まれています。平成二十年に完成した現在の社殿ではなく旧社殿となっています。こちらはなかなか見ることが出来ない彫物ですので写真にてお見せしたいと思います。
そして後旗差しは初詣の際に必ず目にする岸城神社の賽銭箱です。是非見比べていただき精巧さに驚いていただきたいと思います。
※ 木瓜紋には、瓜を切った断面が図柄の元である説や御簾の帽額(もこう)に使われた文様から転じ「もっこう」となった説があります。
※ 素盞鳴尊の「鳴」の文字は正確には口に烏です。
「こんなところまで彫られているなんて気が付かなかった。」と思われる彫物が我が宮本地車には多数あります。その一つが大脇右平面の奥、笹の生茂る中に佇む一人の武将 上田宗箇です。ほんとうに覗き込まないと見えにくい場所にあり敵から隠れている様が見事に再現されています。
さて上田宗箇とはいかなる人物だったのでしょうか。宗箇は尾張の生まれで元の名を上田重安といいます。丹羽長秀の家臣の子として生まれ、元服後は長秀に仕えます。そして賤ヶ岳の戦いに参加、後に豊臣秀吉に仕え島津攻め、北条征伐、朝鮮出兵と武功を重ねます。関が原において西軍に属し敗戦、剃髪して宗箇を名乗るようになります。その後蜂須賀家を経て紀州浅野幸長の家臣となり大坂の陣では徳川方として出陣します。宗箇は茶道と造園にも造詣が深く、茶道は現在でも続く上田宗箇流初代家元であり、造園では和歌山城西の丸庭園、粉川寺庭園、名古屋城二の丸庭園の作庭なども担当しています。
彫物の上田宗箇は樫井合戦に於いて豊臣方から身を潜めている場面ですが、この時宗箇は美しい竹を見つけ敵が迫っているにも関わらず茶杓「敵がくれ」を二本作りました。塙團衛右門の首級を挙げたのは宗箇であるとも言われています。
この茶杓「敵がくれ」ですが、なんと今も現存しており上田流和風堂(茶道上田宗箇流の財団法人)が所蔵しています。
写真は見送りを組み上げる前に撮影したものなので黒目が書き入れされておりません。
東日本大震災以降、「絆」という文字を良く見かけるようになりました。宮本地車にも「絆」を感じさせる彫物がありますが、今回は戦国時代における父と息子の絆を題材にした彫物をご紹介したいと思います。一つは太平記より楠木正成、正行親子の今生の別れ「楠公父子 櫻井ノ駅」決死の覚悟して臨む戦場へと向かう父正成が息子に刀を授ける名場面であり、涙を誘います。
今回ご紹介したいのはもう一つの親子の絆を感じさせる彫物。右松良 源平盛衰記より「一ノ谷 生田ノ森」であります。強固な守りの平家方対し勇敢に攻め入った源氏方梶原景時率いる五百騎程の軍、中でも景時の息子達、長男源太景季、次男景高、三男景茂の活躍は目を見張るものがありました。長男源太景季は箙(エビラと読みます。矢を入れて装備するための武具)に陣中咲き誇る梅の枝を折って挿し攻め入ったといいます。その姿に平家の公家達も称賛の言葉を表したそうです。父景時が自陣に返すと長男源太景季の姿が見当たりません。景時は「戦の先陣の名誉を得ようと思うのも我が子らの将来の為、源太を討たれて景時が生きながらえたところで何になろうか。引き返すぞ。」と言い再度敵陣へ取って返しました。敵陣中を駆け回り探す景時の目に飛び込んできたのは兜を打ち落とされ五人の敵に囲まれ戦う息子景季の姿でした。父景時は歓喜し馬上より跳び下り、親子で敵を討ち無事に景季を救い出したそうです。
彫物には箙に梅を挿し見栄を切る長男源太景季と「二度の懸け」で息子を救い出した馬上の梶原景時が刻まれています。源太景季が大変格好よく彫られており是非ゆっくりとご覧頂きたいと思います。
大相撲春場所の季節です。ここ最近町内でもお相撲さんの姿をちらほら見かけます。(皆様がこれを読まれる頃にはもう終わっていると思われますが・・・)さて我が宮本地車にもお相撲さんに負けないほどの驚くべき力持ちが彫られています。今回はその彫物のお話をさせていただきます。
織田信長が明智光秀により本能寺で討たれた時、秀吉は備中高松城(岡山市)を水攻めしている最中にでした。悲報を聞いた秀吉はすぐに敵の毛利側と和睦を結び猛スピードで自軍を東へと返します。(中国大返しと言われています。)一方、光秀側は「秀吉に戻られては面倒」と尼崎付近に家臣の四方天但馬守らに百姓の格好をさせ待ち伏せさせていました。 そんなことを知らない秀吉は単騎でその前を通りかかってしまいました。四方天は凄まじい形相で「我こそは四方天但馬守なり!」と槍で突きかかりました。驚いた秀吉は必死に馬に鞭を入れ逃げましたが抜け道の無い古寺のあぜ道に乗り入れてしまいました。秀吉は馬から降りて追って来る四方天の方へ馬を向け突進するように一鞭入れました。四方天但馬守は蹴り殺さんばかりの勢いで迫り来る馬から逃げることなく、なんと前足を抱えてどっと深田に投げ入れてしまいます。秀吉はこの隙に廣徳寺に入り、剃髪し坊主に化けて難を逃れたといいます。走り来る馬を投げるこの彫物は「四方天但馬守(しほうでんたじまのかみ)勇力」、正面の小連子に刻まれています。ご覧下さい。
我が宮本地車の小屋根、見送り虹梁と枡合三方の題材には信長公記より本能寺の変が刻まれています。本能寺の変は天正10年(1582年)6月に信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に宿泊していた主君信長を自刃させた事件です。
虹梁には本能寺の変に至るまで、枡合には本能寺が再現されています。今月と来月はこの信長公記、本能寺の変をご紹介したいと思います。
明智光秀は諸説ありますが1528年岐阜県に生まれました。斎藤道三や朝倉義景など様々な武将に仕えた後、織田信長に士官しました。光秀の叔母が斎藤道三の夫人であり、道三の娘である濃姫が従兄弟にあたり、その縁を頼って士官したようです。また当時の将軍足利義昭にも通じており、信長は大変光秀に目をかけていました。士官後、各地の合戦においても武功をあげ、近江滋賀郡五万石、丹波二十九万石を拝領し近畿の織田大名の指揮権を与えられていました。この優秀な重臣がなぜ謀反を起こすこととなったのでしょうか。
信長は苛烈な性格で光秀は様々な場面で惨い仕打ちを主君から受けていました。光秀は酒が飲めず酒席では飲めぬ酒を強要され衆人の中罵られたりしたようです。また対立していた波多野家に光秀は母親を人質としてあずけておりましたが、波多野秀治、秀尚の兄弟を信長は殺害、これにより光秀は母を波多野家家臣に殺害されてしまいます。
そして虹梁正面「信長、光秀折檻」武田家を滅ぼした徳川家康の功をねぎらう為の宴席に於いて接待役となった光秀の用意した料理が気に入らないと信長に折檻される光秀の姿が刻まれています。これは京料理の薄味だった料理を尾張出の信長の舌に合わなかったようだという説や信長が家康を毒殺しようとしたのに光秀が毒を盛らなかったことに魚が腐っているなどと難癖をつけたなど諸説がありますが光秀はこの件で大変な叱責を受けたようです。
こんなことが重なり、光秀はついに謀反を決心します。
虹梁左「光秀、連歌百韻」光秀が京都の愛宕山で開催した連歌会の模様が彫られています。この歌会においての彼の発句はこのようなものでした。
「時は今雨が下しる 五月哉 (ときはいま あめがしたしる さつきかな)」
これは「土岐は今天が下知る 五月哉」という意味が隠されており土岐とは清和源氏土岐氏出身の光秀のことを、天が下知るは天下に向かって号令するという意味でありました。
そして虹梁右「光秀勢、亀山集結」羽柴秀吉の毛利征伐の援軍として亀山に集結した模様が彫られています。この後、桂川を渡り京都へ入る時、光秀は「敵は本能寺にあり!」と言い放ち周りのものに主君信長討伐の意を告げた。この時の雑兵達は最後まで目的を知らされず本能寺に向かったそうです。
いかがだったでしょうか、虹梁だけでもずっしりとしたボリュームとなってしまいました。来月は枡合、本能寺です。お楽しみに。