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宮本町の歴史
我が町宮本町の歴史をご紹介いたします。岸城神社宮入において宮一番の由縁や岸和田祭りの歴史などを紹介いたします。

ギャラリー

町名の由来


 宮本町はかつては百姓町といっておりました。 今と違い昔は線路もなく城と紀州街道沿いが町の中心となっており、このあたりはのどかな田畑が広がっていました。 農業に従事するものが多く住んでおりそのような町名となっていたようです。 和泉国南郡岸和田は明治維新の際の廃藩置県により1871年に岸和田県となります。 同年に堺県に編入され(この時同時に和泉市の伯太県、田尻町の吉見県、松原市の丹南県も編入)その後1881年に大阪府に 統合されました。この時の住所は大阪府泉南郡岸和田町岸和田字百姓町でした。 1913年さらに改編あり、その際町名を岸和田村氏神の宮本であったことから「宮本町」となり現在に至っています。

岸城神社


 岸城神社はいわずと知れた岸和田(村・町・浜方)の産土神社です。 岸城神社でお祀りしている主祭神はアマテラスオオミカミとスサノオノミコトとホンダワケノミコトの三柱です。 アマテラスオオミカミは農耕に関わる太陽の神様としてかなり古くから神明社として当地域に祀られ 1666年頃岸和田城が城郭を拡大する際、社は城内に取り込まれました。 スサノオノミコトは疫病退散を願い京都の八坂神社より勧請され、城内に牛頭天王社が建立されました。 ホンダワケノミコトは武神として八幡大菩薩社として牛頭天王社と同一境内に祀られました。 江戸時代は神仏を同一することがありスサノオノミコト=牛頭天皇、ホンダワケノミコト=八幡大菩薩となっていました。 大政奉還の後、神道を復古させる運動に伴い神仏分離の令があり牛頭天王社と八幡社を合祀し岸城神社となりました。 神明社は岸城神社境内に遷されました。(平成二十年の改築に伴いアマテラスオオミカミは本殿に増祀されました) その後1915年政策により神社の合祀が勧められ大工町の蛭子神社、大北町の琴平社も合祀されました。

神社と祭り


 岸和田祭の歴史を紐解くと現在の祭りとの違いが多くあり大変興味深いものとなっています。 まず地車を曳いたりする岸城神社の祭は年に二回ありました。新暦七月の牛頭天皇の祭、新暦九月の八幡神の祭礼です。 これは次第に九月のみとなっていったようです。 また現在の地車曳行となる以前は大阪の天神祭で見られるような太鼓台や人形などを乗せた引き壇尻、荷い壇尻であったそうです。

明治以前の宮入


 祭礼の際、一般庶民は神社へと参拝します。岸城神社(この時代は御宮)は城の中にありましたので祭の日のみ城に入り庶民が参拝 することが許されました。この際に様々な芸事を城内で披露してお殿様を楽しませたようです。 また、泉大津より借り入れた地車が城門をくぐることが出来ないため屋根が下がるようカラクリの技術が生まれ現在の岸和田型地車のスタイルも 城内への宮入りにより生まれた産物です。

明治以降の宮入


 明治維新があり岸和田城は廃城となってしまいました。しかし神社の祭は継続して行われます。 今まで宮入の順番を決めていたのは侍でした。しかし時代は変わり侍にそのような権限はなくなっていました。 そこで村方・町方・浜方の代表者による話し合いが持たれました。この席上で宮三町の先番(宮一番百姓町・宮二番上町・宮三番五軒屋町) が決定し現在まで引き継がれているのです。

宮三町


 それでは上述の話し合いにおいてなぜ宮三町の先番ということになったのでしょうか。 これは明治以前の神社制度によるものでした。神社は地域の人たちが護持運営するものであり宮座と呼ばれる人たちがその役割を荷ってきました。 御宮でも同様に宮座が組織され当時はその座の長老が神主を務めていました。神主というのは当時大変名誉のある職業でした。というのも神主の前では 殿様も頭を下げることが神事ではあったからだそうです。そして御宮の宮座は宮三町の人たちしかおりませんでした。 御宮の護持運営をしてきた宮三町が先番となったのはこのような理由があったのです。 ちなみに宮座は現在も脈々と受け継がれており本座・和歌座・南座・神座・八幡座が現存し宮座の方々は年中祭儀に参列し奉仕をされています。

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