心形刀流は江戸時代の初め、天和年間に伊庭惣佐衛門秀明(是水軒)が創始した剣術の流派です。
 その名の由来は、「心は己が心、形も同じく身の形、刀はその用いるところの刀なり」といい、「まず、心の修養を第一とし、技の稽古を第二とする。技はあくまで形であって、心によって使うものである。したがって、心が正しければ技も正しくなり、心の修養が未熟であれば技もまた乱れる。すなわち、技が刀の上に実際に表れる。」という考えから来ています。
 是水軒は修行した諸流のうちから、特に志賀十郎兵衛秀則(如見斎)に学んだ本心刀流にひかれ、天和元年(1681)9月にその目録・許状を得たとされます。その本心刀流とは、妻方謙寿斎(貞明庵)が創始し、大藤弥次右衛門秀成を経て、志賀秀則に伝わったとされますが詳しいことはわかっていません。 天和2年(1682)是水軒は江戸に戻り、本心刀流をもとに諸流の長所を集め「心形刀流」を興しました。それは是水軒が師から受けた「常吟子」という道号の形式を、代々、心形刀流の許可の印として用い、皆伝の門人に「常」の字を与えていることからもうかがえます。
 二代目を継いだ嫡男の伊庭軍兵衛秀康は教養豊かで流派を整備・体系化したとされます。さらに、後継者の人選に当たり、門人の中で技量・人物ともに優れた者を養子として迎え後継者とする方針を立てました。事実、心形刀流では実に三代・五代・六代・八代が養子で、その徹底振りが窺われます。
 さらに三代軍兵衛直保・四代軍兵衛秀直の代に旗本に取り立てられ、五代軍兵衛秀矩、六代八郎次秀長、七代軍兵衛秀淵と続き、八代秀業の時に老中水野忠邦に認められて留守居与力に抜擢されると心形刀流も隆盛期を迎えました。
 水野氏の失脚とともに秀業は隠居をしますが、これより竹刀・防具を取り入れるなど稽古の工夫に尽力したとされます。安政3年(1856)、幕府講武所が設けられたとき、秀業は剣術教授方として出仕するよう命じられましたが、秀業はこれを辞退し、代わりに九代を継いだ軍兵衛秀俊、秀業の兄の子三橋虎蔵、湊信八郎、松下誠一郎らを推挙しました。のちに秀俊は教授方から師範役、さらに遊撃隊頭取へのぼりました。
 秀業の息子、八郎秀穎は秀俊の養子となり、文久3年(1863)には将軍の警護役である「奥詰衆」の一員に選ばれるなど、幕府の剣士として勇名を馳せ、箱根の戦いにおいて片腕を失ってからは隻腕の猛将としてさらに有名になりましたが、明治2年(1869)函館で戦死しました。やがて弟の惣太郎が十代目を継ぎますが、明治末に病没したことにより剣術家としての伊庭宗家はそこで途絶えることとなりました
参考文献:『古武道心形刀流教本 心形刀流を学ぶ人のために その歴史と心』仲野洋著、『伊勢亀山藩御流儀 心形刀流武芸形』社団法人亀山古武道保存振興会、『伊庭八郎のすべて』新人物往来社、『日本の剣術2』学研、『日本伝承武芸流派読本』新人物往来社、『國史大辞典第七巻』吉川弘文館

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