亀山演武場の歴史

 文政11年(1828)に亀山藩江戸藩邸で生まれた山崎利右衛門(雪柳軒)は、8代 伊庭軍兵衛秀業から免許皆伝を受け、伊庭道場の師範代をしていましたが、元治元年(1864)3月13日に江戸詰めを解かれ亀山藩に戻り(37歳)藩の剣士育成を始めました。
 その3ヵ月後に伊庭秀業の息子であった八郎秀穎が亀山を訪れた際には、雪柳軒は高弟である大津央と接待にあたった他、亀山藩をあげて丁重にもてなしており、数日間の滞在中、八郎は連日朝稽古に参加した他、形を披露したことが記録に残ります。
 元治2年(1865)、時の15代亀山藩主石川総脩により武道場の設立が許され、南野村喬松館御殿の東(現在の南野町)に江戸の伊庭道場の長所を取り入れた約50坪の道場「亀山演武場」が建設されました。この時期、亀山藩では柳生新陰流や鹿島新当流などがおこなわれていましたが、明治3年(1870)、16代藩主石川成之により亀山藩の武芸流儀は心形刀流に統一されることとなりました。また、亀山藩では城内に藩士の部隊訓練をおこなう大道場を新設し、武芸局を創設、雪柳軒は武芸局撃剣係として大目付兼剣法教授教頭を拝命して門弟とともに藩士の教育に尽力しました。
 明治4年(1871)の廃藩後、演武場は雪柳軒に下賜され武術の指導を続けましたが、明治9年(1876)には廃刀令が出されるなど、その存続の為の苦労は並大抵なものではありませんでした。事実、雪柳軒は私費で稽古着や竹刀、防具を購入し門人に無償で与えた他、就職斡旋まで行っており、さらに演武場の維持運営の為に門人有志と「赤心社」という組織を作りました。
 明治15年(1882)、演武場は赤心社により旧本丸の館跡地(現在の本丸町)に移転しますが、雪柳軒は明治26年(1893)9月5日に故あってそこで割腹自殺しました。
 明治32年(1899)10月1日、門人たちによって亀山神社境内に山崎雪柳翁遺剣之碑が建立されますが、その表碑文は西郷従道の書であり、碑の下には自害した際の短刀が埋められました。
 その後、明治40年(1907)、演武場は現在の場所である亀山神社境内に再度移され、昭和25年(1950)には亀山市指定文化財に指定されました。その翌年、心形刀流剣術は無形文化財に指定(指定名「心形刀流武芸形」)され、さらに昭和50年(1975)三重県無形文化財指定を受け、同年9月には心形刀流保存赤心会が発足し、保存伝承、普及振興に努めていましたが、昭和60年(1985)1月16日未明の火災によって演武場が焼失するという悲劇に見舞われました。幸いただちに有志その他の方々の努力によって復元計画が進められ、昭和63年(1988)、旧演武場の外観・内容を取り入れた亀山演武場が再建され現在に至っています。


参考文献:『古武道心形刀流教本 心形刀流を学ぶ人のために その歴史と心』仲野洋著、『伊勢亀山藩御流儀 心形刀流武芸形』社団法人亀山古武道保存振興会、『伊庭八郎のすべて』新人物往来社

伊勢亀山心形刀流の系譜

開祖 山崎雪柳軒光孚

三代目師範役

加藤正斎

亀山演武場外観

亀山演武場内部

四代目師範役

加藤文郎

山崎雪柳翁遺剣之碑

 山崎雪柳軒遺品「枕刀」写真提供:亀山市歴史博物館

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