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 聖武天皇の夢の跡----------
聖武天皇はなぜ奈良・平城京を離れ、信楽の地に新しい都を造ろうとしたのか? また、それはどんな夢や理想を実現するためだったのか?
聖武天皇は生涯に奈良東大寺の大仏や諸国の国分寺とともに、平城京以外にも3つの都を造りました。  難波京(なにわきょう)、恭仁京(くにきょう)、紫香楽宮(しがらきのみや)です。  大仏建立の大事業は、そもそも信楽に建てられた「甲賀寺」で始められたものです。このように信楽の地は天平時代の政治・宗教・文化などを考える上で重要な位置を占めています。
 天平9年(739)に大流行した天然痘や、3年後に九州で起こった藤原広嗣の乱などをきっかけに、平城京にいた聖武天皇は伊勢への行幸を決意します。そして、帰りに突然。恭仁京(京都府相楽郡加茂町)への遷都を宣言します。この恭仁京の離宮として造り始めたのが紫香楽宮ですが、聖武天皇は大変この地が気に入り、短期間に紫香楽宮に何度も行幸を繰り返します。
そして、重要な詔を発します。地元への税の軽減と有名な「大仏造顕の詔」です。天平14年10月15日のことです。 大仏を造るために寺地(甲賀寺)を開いて、当時の民間仏教の指導者・行基(ぎょうき)を呼び寄せ、恭仁京の造営をストップしてでも紫香楽宮の造営に力を注ぎます。
ところが天平16年(744)になると突然、難波京に都を移す動きが表面化し、一旦は難波京へ都が移動しますが、聖武天皇は再び紫香楽宮に帰ってきます。
天平17年(745)には紫香楽宮は「新京」と呼ばれやっと皇都であることが公示されます。ところが、この年の4月から紫香楽宮や甲賀寺周辺で次々と火災や地震が発生します。
このため、聖武天皇はついに平城京にもどることを決意します。それは伊勢への行幸から4年半後のことでした。それにしても恭仁京―紫香楽―難波―紫香楽の短期間の遷都は何を意味するのか。聖武天皇はどんな夢を描きながら“まぼろしの都”を目指したのか。
歴史の謎でもあります。
また甲賀寺で中止された大仏建立の工事は、 平城還都後、東大寺で引き継がれ天平勝宝4年 (752)に完成しました。 
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