-----
-----
-----
-----
-----
-----
 よみがえる紫香楽宮----------
最近の発掘調査で、紫香楽宮の中心建物やメインストリートの「朱雀路」が相次いで発見され、幻の宮といわれてきた紫香楽宮の実情が徐々に解き明かされています。
平成12年度の「宮町遺跡」の発掘調査でみつかった建物跡は、東西22間以上(91.5m)×南北4間(11.8m)の庇付建物で、当時の都であった平城宮や難波宮の中心区画の建物規模に匹敵することから、「続日本紀」に記されている紫香楽宮で重要な国家儀式に使われた「朝堂」の建てもの跡と考えられます。
さらに、宮町遺跡と史跡紫香楽宮跡の中間地点に位置する「新宮神社遺跡」では、役所跡とともに「朱雀路」と推定される幅12mの道路や幅員8.6mの橋跡の遺構が発見されました。
このことから、今まで想定されていた以上に紫香楽宮の造営計画が大規模で、宮都としての機能が整えられていたことが明らかになりました。 江戸時代中頃から丘陵上に礎石(そせき)や瓦があることが知られ、大正15年(1926)に国史跡に指定されています。
紫香楽宮の周辺地図
http://www.mapfan.com/m.cgi?MAP=E136.05.7.4N34.54.26.1&ZM=9
●宮町第12次調査
遺跡発見の契機は、昭和40年代前半に行なわれたほ場整備で柱根が出土したことです。柱根が発見された当時はまったく遺跡の発見に気がつかず、56年になって新しく発見さ れた年輪年代測定によって、紫香楽宮造営の際に伐採された柱であることが判明しました。 昭和58年から町教育委員会が発掘調査を始め、2本の大きな溝がL字状に取り巻く東西500m×南北450mの範囲に堀で囲まれたいくつかの区画を発見しました。これらの区画 が宮殿や朝堂、中央官庁などの紫香楽宮中枢施設に相当するようです。
また、紫香楽宮関連の遺跡は、宮町遺跡を北限に東西1.5`×南北4`の範囲に8箇所が分布しています。この大きさは平城京の半分弱で、文献から推定される 紫香楽宮の人口2〜3万人の生活範囲とすると適切な規模と考えられます。 (平城京の人口は8〜10万人)
●宮町第25次調査
紫香楽宮へ全国から納付された税の荷札です。木簡の上下の切り込みは、荷物に荷札をくくりつける際に紐が解けにくくするための工夫で、左から尾張国山田郡、三河 国渥美郡、丹後国熊野郡と読み取れます。 また、遠くは上総国(現在の千葉県)から鮑の干物や駿河国(静岡県)鰹の干物隠岐国(島根県)から牛肉が届いていたことなどもわかりました。
▲Page Top
-----
-----