玉置氏

守護被官
家紋:州浜
居城:紀伊国日高郡河上館
 大和吉野郡十津川玉置社の神官にして十津川郷士の出自といわれる。家伝では平資盛の子が熊野に逃れ、玉置社司となったと伝える。
『太平記』に玉置荘司と見え、その本拠は現奈良県北山村折立付近という。元弘の乱における荘司盛高は、幕府方して大塔宮の入山を拒んだ。
養子直光の子に三子あり、長男は玉置社別当職を継ぎ、次男・三男は紀伊国日高郡川上庄・山地庄に移って別家を立てた。これが室町期に畠山被官となる玉置氏であろう。
 畠山基国が応永7年(1400)、紀伊守護として入国して以来臣従したと推定され、またその惣領は幕府の直勤御家人として奉公衆に任じられ、将軍の親衛隊の構成員となっている。
康正2年(1456)の内裏造営の際は、国役16貫7文を負担しており、その記録に本領紀伊河上庄とあるから、宗家が奉公衆であったことは疑いない。
また文安元年(1444)には、惣領と覚しき玉置某が管領畠山持国邸にて殺害されているが、その理由は『国に於て野心ある故なり、公方奉公の者なり』とあり、奉公衆が守護にとって、ともすれば敵対的存在となっていたことを推測させる。
長享元年(1487)の将軍近江出陣にはその名が見えないから、奉公衆からはずれていたのであろう。
 戦国末期には玉置千光院・小平太の親子が当主で、信長の頃日高郡・有田郡の内で一万石を領した。秀吉が天正13年南征したとき、抵抗したのであろうか三千石に減知されている。
以後、秀吉の弟秀長に属し三千五百石に復し、秀長没後秀吉に直勤となった。関ヶ原では西軍に与し没落、のち尾張藩に仕えた。

<新人物往来社刊『歴史読本・戦国大名家370出自総覧』より>



                                  
  直和───────小平太                    
   大膳亮      百松                    
   千光院