椎名氏

守護被官
家紋:蔦
居城:越中国松倉城
 桓武平氏千葉氏族で、下総国椎名が苗字の地とされる。鎌倉時代から越中と関係をもったらしく、南北朝初頭に椎名孫八入道が足利方として越中松倉城を攻めている。
明徳三年(1392)には畠山満家郎党等三〇騎の中に椎名長胤の名がみえ、この頃までに越中守護畠山氏の重臣になっていたことがわかる。
十五世紀半ばから三守護代制が布かれると、椎名四郎次郎は新川郡守護代となり、越中東部で勢力を伸ばした。
 応仁の乱でも政長方として、神保氏とともに東軍に属し活躍する。
 永正十七年(1520)、椎名長常は畠山氏の要請で越後から侵攻した長尾為景に敗れて降伏し、新川郡守護代となった為景の代官としての地位を保った。以後、越中西部を勢力圏とする神保長職との対立を強めることになる。
 弘治元年(1555)椎名・神保両氏は一旦和睦するが、神保氏が武田氏と結んで椎名氏を攻撃したため、椎名康胤は長尾景虎(上杉謙信)の支配を仰いだ。このため景虎は永禄三年(1560)越中に出兵して神保長職の富山城を落とした。康胤は長尾小四郎を養子に迎えるほど上杉氏との結びつきを強めていたが、永禄一一年上杉方を離れ武田信玄と結んだ。このため翌年上杉軍に本拠松倉城を攻められ落城した。康胤はその後も一向一揆と結んで上杉・神保氏に対抗し、元亀三年(1572)富山城に籠って、来攻した謙信と対峙したが、翌年正月陥落。康胤は上杉氏に帰参を請うたがうけいれられなかったようで、天正四年(1576)、謙信に討たれたと伝える。養子小四郎も、天正七年の上杉家御館の乱で景虎方についたため滅ぼされ、椎名家は滅亡した。

<新人物往来社刊『歴史読本・戦国大名家370出自総覧』より>



                                  
  胤光─…………─某 ─…………─長胤─…………─順胤─…………┐
           孫八              四郎次郎  │
                                 │
┌────────────────────────────────┘
│                                 
└─長常──────康胤──────景直              
                   小四郎