(越中)神保氏
守護被官
家紋:丸に竪二引、尾長の丸
居城:越中国富山城
上野国多胡郡辛科郷神保邑を名字の地とするといわれている。また、系譜についても『寛政重修諸家譜』によっても神保長誠以前のことははっきりせず、氏も惟宗・平・橘などの諸説があるが、一般には惟宗姓とされる。
神保氏と畠山氏の関係の始期は明らかでないが、『相国寺供養記』に記載されている明徳三年(1392)畠山満家の郎党三〇騎の中に宗三郎国久・肥前守氏久・四郎右衛門尉国氏三人の神保氏がいるから、この頃までに畠山近臣の地位を得ていたものと思われる。畠山氏は康暦元年(1379)頃、基国が越中守護職を得て以後、守護代には遊佐氏を任じていたが、嘉吉元年(1441)畠山持永が兄持国と対立して没落した際、遊佐国政も持永に荷担して失脚したあと、遊佐・椎名・神保三氏による三守護代制が布かれ、神保国宗は射水・婦負両郡を管轄した。
国宗の子長誠は畠山政長の重臣で紀伊守護代、越中守護代を勤めたようである。また将軍職を追われた足利義材が彼を頼って放生津に下向したほどの軍事力を持っていた。江戸時代の徳川家旗本の神保氏数家は彼を先祖としている。
次の慶宗は主家畠山氏よりの独立を図ったのあろうか、畠山氏の要請で越中に出兵した長尾為景のため永正一七年(1520)敗死したという。
慶宗のあとを継いだ長職は勢力を回復して椎名氏と越中の覇権を争った。永禄三年(1560)上杉謙信のため拠城としていた畠山城を抜かれたが、のちには上杉氏や能登畠山氏と結んで椎名氏に対した。
長職が元亀三年頃に没したあとの神保氏は、長住が織田信長に近仕し、守山城に拠った氏張も信長と結んで上杉軍に対抗した。なお長住は信長から富山城に配されるが、天正一〇年(1582)失脚しその後の動向は不明である。また氏張は佐々成政に仕え、成政没落のあと一時浪人した後、徳川家康に仕え、子孫は幕臣として名跡を保った。
<新人物往来社刊『歴史読本・戦国大名家370出自総覧』より>

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