「冷酒」という言葉があるのをご存知だろうか。これからの暑い時期に思いうかべるとぴったりとくる言葉かもしれない。もっとも最近は「大吟醸」だとか「純米吟醸」だとか比較的高価な酒の場合、寒い時期でも冷蔵庫などで冷やしたものを飲ませる風潮のようである。
梅田にある百貨店の地下1階にある日本酒コーナーでは蔵元の主催する試飲コーナーがほぼ常時あるが、ここでも日本酒をワインクーラーか何かで冷やして飲ませる。
個性的な地酒達なのに、その魅力を発揮するどころか、冷やして飲むといういわば「同じ厚化粧」をさせられて、地酒本来の素顔の美しさを消されてしまっているのが残念でならない。そのへんのわけの分からない居酒屋ならば、ともかくも、蔵元がそんなことをするようでは日本酒の将来は暗いと思わざるを得ない。百貨店もそのへんの不勉強な居酒屋とあまり変わらないようである。
「冷酒」とはそういう種類の日本酒があるわけではなく、日本酒の「飲み方」であり、より正確に言えば「飲ませ方」である。したがって「この酒は冷酒ですから、燗はできません」などという店主の店を私は信用しないし、二度と行かない。また「地酒=冷酒」という訳のわからない解釈をして、日本酒通だと気取る方たち、店主は救いようがなく、私にとっては悪魔のような存在である。
昨年物故された作家の中野孝次氏は知る人ぞ知る日本酒愛好家で毎日3合半を定量としておられたが、「趣味に生きる愉しみ」(光文社)のなかでこう仰っている。「冷酒ではこういう高揚感はやってこないから、わたしは一年中酒は必ず燗をして飲む。近頃吟醸酒なるものが出回りだし、… そんなのに決まって冷でお飲みくださいと余計な指図書きがある。しかしわたしは、そんな指図は無視して、吟醸でも何でも燗をして飲む」。この一節を読むたびにわが意を得たりという気がして安心する。私自身も「ぬる燗」で飲むのがほとんどで、間違っても冷蔵庫で冷やしたりはしない。体内温度とほぼ同じ温かさの酒が喉を通って胃にしみこんでいく。このやさしさがたまらない。
日本酒の飲み方はその人の好みであり、他人がどんな飲み方をしようととやかく言うつもりはない。ただ誤った認識の店主の居酒屋、百貨店等が多すぎるため、もはや外で地酒を楽しむことは不可能といって過言ではない。したがって私は好みの銘柄の地酒を仕入れると、もう一つの百貨店の煮魚コーナーに行き、愛想のいいおばちゃんの店でからすがれいの煮付け、その近くのお惣菜屋さんで愛想のわるいおばはんから、ぬたなどを買いこむ。準備万端ととのえて、帰りの電車にウキウキしながら乗り込む。先日居合での知り合いのある女性から薦められた帆立貝の粕漬けを買い忘れたことを思い出し、しまったと思うのは、たいていそのすぐ後である。
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