ご存知 忠臣蔵
ホーム 上へ 一葉記念館を訪ねて

 

ご存知 忠臣蔵 意外なその真相は
我々の年代になると、年末の風物詩の一つに忠臣蔵があげられる
のではないでしょうか?私も幼い頃、未だ娯楽の中心がテレビで
なく映画だった頃に、毎週末に両親に連れられ、(香川県)善通
寺市や隣町の丸亀市の映画館へよく通った事を覚えています。
 そこで観た総天然色シネマスコープ(懐かしい!)東映時代劇で
のストーリーは、「浅野方が善者で、吉良方が悪者」というもので
あり、従って配役も内匠頭が美男の大川橋蔵なら、吉良は月形龍之
介が顔をしかめながらにくにくしく演技しており、それ故必然的に
観客は全員浅野の味方になった訳です。水戸黄門や旗本退屈男、怪
傑黒頭巾等々、それらは等しく勧善懲悪の理念をベースにしており
、日本国民を真面目に黙々と働かせる為に、少なからず役立ったの
ではないかと感じます。
然るに、近年徐々に真相を知るに連れ、私は「吉良こそ被害者では
なかったか?」と思うようになりました。内匠頭は生来癇癪持ちだ
ったそうで、季節の変わり目でかつ勅使接待のストレスで、吉良の
よけいな嫌味の一言で切れてしまったのが真相ではないかと言われ
ています。

浅野内匠頭終焉の地(港区新橋)

 

 この刃傷事件の裁定について、綱吉は「武家諸法度での喧嘩両成
敗の原則」に反し、外様とはいえ5万石の大名浅野内匠頭に即日切
腹の片手落ちの裁定を下した訳ですが、その後の世論の思わぬ非難
をかわす為に、今度は「幕府公認で大石らに討ち入りさせて事件を
落着させた」というのが真相らしいです。

 当時吉良の屋敷は「御朱引き」内の呉服橋にあったが、僅か新築

3年にも関わらず、事件以降に隅田川を渡った本所松坂町の松平登

之助の屋敷へ移るよう命じられた事、そして何よりも討ち入りが誰

にも邪魔されずに決行され、しかも泉岳寺まで無事行進できた事等

、幕府公認であれば納得がいくというものです。

 同時に側用人柳沢保明は、討ち入り後、吉良家、浅野本家、米沢
上杉藩を改易させて領土を召し上げようとしていたとも言われてい
ます。実際5年程前のNHK大河ドラマ舟橋聖一原作元禄繚乱では
その当たりもきちんと描かれていました。

大石内蔵助像(泉岳寺)

 

 そして番外編ともいうべき俗説の一つですが、浅野内匠頭の遺言は
、当時の公文書である田村家記録に伝わるが、「兼ねては知らせ置
く可く存ぜしも、そのいとまなく、今日の事は已むを得ざるに出で
たる儀に候。定めて不審に存ず可き乎・・・・」という事になって
いる。「これまで知らせておこうと思ったが、その暇がなかった。
そして今日のこのことになってしまい(家臣のその方たちは)不思
議に思うだろうが・・・」といった意味です。真に尻切れトンボの
不思議な遺言です。ここからはある本での推理ですが、実は田村家
が書くことができない内容だったとしたら!?「不思議に思うだろ
うが、実はこのこと幕府要人・柳沢保明と謀った上での事で・・・
・」だった、という説すらあるのです。

 真相は歴史の中の闇に隠されてしまいましたが、今日はそんな事も
考えながら、

忠臣蔵の舞台を散策してきました。以下は写真とその解説です。

江戸城天守台より武道館を望む

 

松の廊下跡

皇居東御苑に建つ松の廊下跡。

ことは元禄14年(1701)314日昼近い江戸城中で起こった。京都朝廷より幕府に下向した勅使をもてなす4日間の饗応行事の最中の出来事であった。

「この間の遺恨覚えたるか」播州赤穂藩主・浅野内匠頭が一声叫んで、高家・吉良上野介に斬りかかったのである。所は殿中、松の廊下だった。

 

 

浅野内匠頭長矩終焉の地

日比谷通りに面して立つ浅野内匠頭切腹の跡を示す碑。内匠頭はここにあった田村右京太夫の上屋敷の庭で即日切腹となった。内匠頭は取調べの後ここに移され、座敷ではなく庭先で命を絶った。「風さそう花よりもなほ我もまた春の名残をいかにとやせん」の辞世が刻まれている。

 

 

大高源五句碑

決行の日を決めるべく吉良邸の動向を探っていた俳人義士・大高源五が、松尾芭蕉の弟子の榎本其角と交わした「日の恩や忽ちくだく厚氷」と書かれた句碑。

 

 

 

 

 

吉良邸跡(本所松坂町公園)

松の廊下事件後の1701年(元禄14年)、屋敷替えによって吉良上野介が江戸城内呉服橋から移った場所。当時は面積が2557坪と広大だったが、今はその一部が記念公園として残る。園内には上野介の首を洗った井戸が残る。

 

 

回光院

吉良邸裏門から引き揚げた時刻は午前6時。休憩をする為西隣の無縁寺(回光院)に入ろうとしたが、住職は関わりを恐れ門を開けなかったという。当時本所から泉岳寺へのコースは両国橋を渡って隅田川の西岸を歩くのが一般的だったが、当日は大名・旗本の定例登城日だった為、裏道ともいうべき隅田川の東岸を下り、永代橋から泉岳寺へ向かった。

 

 

 

 

 

泉岳寺

泉岳寺に着いたのは辰の刻(午前8時)。約11kmの雪道を約2時間で駆け抜けた強行軍だった。亡主の墓前に吉良の首級を供えた義士であったが、幕府は彼らの処置に困り、大名4家(細川家、松平家、毛利家、水野家)に一時預けられた後、結局翌年2月全員に切腹が申し付けられた。

同時に吉良家の改易も執行された。「片手落ち」とされた幕府の浅野家への処分であったが、ようやく大石らの望んだ「両成敗」となったのである。

 

付録:遺族のその後

巷の義士賞賛の陰で、浪士切腹の処分はその家族にも類を及ぼした。

浪士の遺族は、男子19名、女子24名いたが、男子は浪士の罪に縁座する為届け出させたので、その数ははっきりしている。

15歳以上の4名は伊豆大島に流罪となった。15歳に達していないものは15歳になった時に流罪とされるが、それまでは親類預けとされた。

3年後の宝永3年の大赦があり、僧侶になるのを条件に赦免された。

女子24名の内、6名は浪士の妻であったが、寡婦では生活できにくい時代である。多くは離散して消息を絶っている。

 一方吉良家は、事件後閉門となり、生き残った義周は諏訪へ配流された後

2年後の宝永3年病没した事で三河吉良家は断絶したのであった。

義士と呼ばれた彼らであったが、その陰で妻子がそして吉良家が皺寄せを受けたのであった。

 

義士の墓

最後に、またまた仰天の俗説をご紹介します。

泉岳寺に眠る義士は47名ですが、彼らの戒名には全員「刃」の一文字が入っています。ところが、唯一寺坂吉衛門のみが「刃」の一文字がありません。

これは、討ち入りは47名であったが、その後泉岳寺まで行き後に切腹となったのが寺坂を除く46名だったからです。即ち寺坂だけが83歳の天命を全うした後、泉岳寺に葬られたのです。

一般には彼は足軽で身分卑し恐くなって逃走したと言われていますが、実は大石の指示だったとしたら・・・。討ち入りを成功させた後、次の重要な務めは、討ち取った吉良の首級を泉岳寺に眠る主君の墓前に供える事でした。しかしその途中で上杉軍等の邪魔が入る事を予期した大石は、寺坂に首を持たせ、両国橋から小舟で隅田川を下らせたというのです。

討ち入り後、彼は自分の持ち道具の挟み箱の中の衣服に着替え、首を箱に収め、吉良邸裏門で仇討ちの成否を見守っていた江戸在住の支援者の中の腕達者、佐藤城右衛門、堀部九十郎らに守られて河を下っていったのです。泉岳寺門前で首を渡した寺坂はすぐに、よう泉院宅へ向かったのです。

一方大石らは整然と隊伍を組んで泉岳寺への行進を始めたのであったが、不思議な事に、行列の中の槍先に上野介の夜着に包まれた首が一つ、高々と掲げられていたのである。・・・・偽の首であった。そして、なんとその偽首は先夜の吉良家の茶会の席に飾られていた利休の「桂川籠花入」、千家秘蔵の名物であった。こんな名物を偽首に仕立て、しかもその槍先にはご丁寧にも江戸っ子には馴染み深い吉良家を示す槍鞘がついていた。人々が一目で吉良の首と判る仕掛けを思いついたのは、恐らく茶道俳諧に詳しい大高源五と思われる。

これはあくまでも俗説ですが、NHK大河ドラマの元禄繚乱では、白い椿が一輪いけられた花入れが数秒間クローズアップされていたのを思い出します。

 

両国橋

 二重橋(事件とは関係ありません)
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