会社案内


     「浄・不浄」


 疲れてヘトヘトになった時、タタミにゴロンと横になって、
しばらく頬(ほほ)をペタンとつけたままでも、それほど気に
なりませんが、もしそこがフローリングなら、少しばかり
抵抗を感じるかも知れません。

 もちろん、肌に当たる感触が違うので、当然の事にも
思われますが、それだけが理由とは言い切れません。

  私たちは、床の違いに対して、無意識に 「浄・不浄」 を感じとっているのかも知れません。

 
  例えば、おやつのポテトチップスを誤って床へ落としても、タタミの上ならそれ程抵抗なく、
 自然に口に運べますが、そこがフローリングの場合は、ちょっと戸惑いがあるはずです。
 
  それに、たとえフローリングがピカピカに磨かれていても、スリッパを履いていないと、
 なんとなく足元が落ち着かないものです。


  この様な、私達日本人が持ち合わせている床に対する 「浄・不浄」 の感覚は、その室の
 「格式」の違いに起因しているとも考えられています。

  今でこそ、バリアフリーが叫ばれ、室ごとの床の段差が無くなりましたが、ひと昔前までは、
 タタミの間は必ず板の間より一寸(3p)程度高くするのが常でした。
 
  そもそも、それは座敷に格式を持たすための手法であり、つまり 「床の高さの違い」 が
  「格の違い」 と言う訳です。


  考えてみれば、座敷よりさらに10p 高い 「床の間」 にあっては、中へ踏み込む事も、
 そこに腰掛ける事さえ躊躇するものです。 また、掛け軸を吊る際に、フローリングと同じ
 板張りであっても、とてもスリッパを履いたままそこに上がる気持ちになれません。

  時代劇を観れば、そこに登場する殿様は、いつも数段上の高い場所に座していて、
 その姿にとても威厳を感じ、同様にして神仏には敬虔 (けいけん) なものを感じます。

  こうしてみれば、私達は無意識に僅かな高さの違いに、意外と大きな 「格の違い」 を
 心理的に感じるDNAを受け継いでいるのかも知れません。


  合理性を追求するあまり、住まいの中の伝統的な 「意味合い」 を、あっさり無視してしまう
 事も、決して良い事ではないはずです。

  立派な銘木で造作された「床の間」や「違い棚」、さらに「出書院」まで備えた格式ある座敷を
 設えても、普段は使わない室なのに、バリアフリーにこだわるあまり、タタミに段差が無ければ、
 全てが台無しにも思えます。


  住まいの計画において、あえて様々な格付けを施し、各室を差別化する事は、それらの
 結びつきや使い勝手に対して、ある方向性を自然に発生させ、意外と合理的な設計手法の
 ひとつなのかも知れません。

  床の段差など、生活の中で一見不快に思える事でも、その本質を上手に生かして用いれば、
 私達の意識を変え、住まいに対する愛着さえ感じさせてくれそうです。



  ただし、日々の心がけも大切です。
 
  格式にこだわり、いくら床を高くした 「自慢の座敷」 でも、毎日の掃除を怠れば、
 「不浄」 である事に違いはありません。



戻る


Copyright (c) 2007,Seki Koumuten