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エリヤハウスを考える会は聖書からミニストリーを検証する団体です。

ローマ書5−8章から

SERVICE&PRODUCTSローマ書から「聖化」についての考察

エリヤハウスの「変革」は、自分が抱いてしまう悪感情(怒り、恨み、ねたみなど)との戦いであると言えます。キリスト者となった後も、罪深い性質がもとで人間関係などのトラブルを引き起こすものです。決心してもまた失敗してしまう。私たちに希望はないのでしょうか。幸いなことに聖書にはその答えがあります。神は私たちが思いも及ばないような驚くべき恵みを備えてくださっています。それが「聖化」と呼ばれる神の奥義です。
これから、ローマ書5章〜8章より「聖化」について考えていきたいと思います。
  

「自分の内にある罪の性質とどのように戦えばいいのか」ローマ書より考察

ローマ書は「聖化」による聖めを説いています。聖めは人間ではなく聖霊のわざです。罪と戦うには人はまず救われて聖霊を受けていなければいけません。では、救われた人とはどういう人なのでしょうか。あなたはこの救いに与かっているでしょうか。

罪との戦いの準備 第1:キリスト者となる 

<あなたは救われていますか?>
キリストの死と復活に合わされ、自らに死んでキリストにあって生まれること。


それともあなた方は知らないのですか。キリストイエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(ローマ6:3)


1.キリスト者とはキリストと1つとされた人。バプテスマはキリストと共に死んで復活したことの象徴。

<バプテスマの意味>
浸す、沈める、水に沈めたときのようにすっぽり捕えて圧倒してしまうこと。圧倒的に1つの力のとりこにしてしまうこと。
<キリスト・イエスにつくバプテスマ baptized into Christ Jesus> 

(解釈・考察)
キリストにつくバプテスマとは外からキリストの中に入れられる、つまりキリストの支配以外のところからキリストの支配の中に入れられることです。(into=外から中へ 動きを現わす前置詞) キリストの中に完全に浸された結果、キリストの圧倒的な力により覆われ、キリストと一体となった、キリストの体の肢体となったという意味です。 これは、性質において神と一体となったのではありません。神に覆われ、支配され、神の命令に従う器官、神の手足、神に用いられる道具となったという意味です。そして、神と私たちは一体となり、切り離せない者同士となったという意味です。 この奥義は偉大です。

2.キリスト者とは、罪に支配された古い私が死んだ人

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:3)

(解釈・考察)
キリストの死にあずかるバプテスマ によって、私はキリストとともに十字架につけられ、死んで葬られました。 私たちの古い人、罪に支配される生まれながらの私(罪の体)は滅びたと言われています。
キリスト者とは、生まれながらの自分がキリストと共に葬られた人です。

3.自らに頼らず、新しい命により新しい生き方をするように変えられた人

キリストの死にあずかり、キリストの死と同じようになっている人は、必ずキリストの復活とも同じようになります。キリストが復活の命によってよみがえられたように、キリストと一体となっている私たちも、キリストの復活の命にあずかってよみがえったのです。 そして、今は復活の命によって生きているのです。
キリスト者とは、キリストとともに十字架につけられ、罪の支配下にある自分が死んで葬られた者。 キリストの中にバプテスマされることにより、キリストと一体となり、キリストの復活の命にあずかってよみがえった者です。キリストの命を源とし、キリストの圧倒的な支配の中に入れられ、キリストの命令に従う、キリストの肢体となった者です。

罪との戦いの準備 第2:「聖化」の奥義を知る

<罪と死の原理から解放されたことを知っていますか?>
1.律法からの解放
私は、律法が適用されない者・律法によって罪に定められない者となった


私たち古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は罪から解放されているからです。(ローマ6:6−7)

(解釈・考察)
死んだ者に対して、その人の罪に刑罰を与えるための法律は適用されません。 死んだ人を、さばいて、刑務所に入れることはしません。 それと同じように、キリストとともに死んだ私に対して、律法は適用されなくなりました。キリスト者となった私はキリストとともに十字架について罪の体(罪に支配されている自己)が滅びて(無力・無効とされて)いるからです。 罪から解放されたとは、律法によって罪に定められることから自由になったという意味です。キリスト者は律法の法的効力が及ばない者となったのです。

2.罪の力からの解放
私は、罪が主人として支配しない者になった。

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者だと思いなさい。(ローマ6:8−9)

(解釈・考察)
キリストは死なれてよみがえり、もはや死はキリストを支配しません。 キリストはただ一度罪に対して死なれ、よみがえって神に対して生きておられます。キリストの支配の中に入れられた私たちも、このキリストの経験を通ったのです。私たちも、罪に対して死に、今はキリストとともによみがえって神に対して生きているのです。死がキリストを支配しないのと同様に、私たちを死に定める罪の力は、もはや私たちを支配しないのです。

<御霊の力強い助けが与えられていることを知っていますか?>
1.御霊の力は罪の力を圧倒する。御霊は信者の内に宿り、力強く働く。


もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物を豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。(ローマ5:17)

(解釈)
恵みと義の賜物を、神から豊かに受けている人は、アダムの違反によって死が支配したときよりも、恵みと義の賜物がいっそう力強く働いて、その人を罪の支配から解放し、キリストの命がその人を支配することになる。
(考察)
私たちは御霊が私の内にあって働き続けていること、その偉大な力をどれほど認めているでしょうか。御霊の力は罪の力に勝るものであることを認めているでしょうか。
恵みの力は罪の力に打ち勝つと聖書は言っています。罪が入って来た時よりも、キリストの命はいっそう力強くその人に働きかけ、その人を支配するのです。アダムという人間の影響が私におよんだのであれば、神ご自身が私の内に聖霊として内住され、働きかけておられることが、私にどれほど大きな影響を与えるものであるか理解できているでしょうか? このことを認めるか認めないかで、クリスチャンの生き方が大きく変わってきます。
この奥義を知っているなら、勝利の確信をもって罪と戦うことができます。
また、御霊に任せることが最善の方法だということがわかります。
御霊が内住されること、その働きは力強いものであることを信仰によって認め、自らに頼らず御霊に頼ることです。人間の努力では律法は守り切れません。御霊により頼み、御霊に従うことで律法を守るようにと聖書は定めています。
<参照聖句>
それは肉に従って歩まず、御霊にしたがって歩む私たちに律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ8:4)

<神の前に永遠に義とされたことを知っていますか?>
1.これがはっきり認められないと御霊によって歩むことが難しくなる。

「罪に対して死んだ者、神に対して生きた者だと思いなさい。」ローマ6:11

もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者だと思いなさい。(ローマ6:8−11)


(解釈)
キリストが復活して神に対して永遠に生きておられるように、キリストと一体とされている私たちも、神に対して永遠に生きる者とされている。キリストがただ一度、罪のさばきを受けられたように、信じたその時、私は、キリストの犠牲の死にあずかって自分の罪を赦されて義とされている。そして、今は神に対して永遠に生きる者とされている。
(考察)
このように、自分は罪が主人として支配しなくなった者だと思うこと。 義とされて神の前に永遠に生きる者となったと思いなさい。 というのがローマ6:11の意味です。 それでも、自分の内にある罪の存在を見てこのように思えないと言うのなら、それは不信仰です。
この意識が確立していない場合、御霊に信頼する生き方が非常に困難となります。
すでに罪を赦され義とされていることが前提にあっての召しであるからこそ、 自分の罪を隠さず神に告白することができ、神からゆるしを受け取ることができます。失敗を繰り返しながらも、神との平和を維持しつつさらに前進し続けることができるのです。また、罪の力に打ち勝つ、神の力強い支配の中に入れられているからこそ、自分ではなく御霊によって、罪に勝利していく確信を持つことができるのです。

<私の生まれつきの性質に自分の責任はないことを知っていますか?>
1.与えられた御霊によって行う責任がある。

ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。(ローマ8:12)
もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8:13)


(解釈・考察)
この聖句は、肉の欲望に従って生きる責任を、肉に対して、つまり、自分の肉の努力や性質に対して負っていませんと言っています。また、人間の努力によって罪をゆるしてもらおうとするなら、(肉に従って生きるなら)努力は報われず、結局は罪に定められて永遠の死に至ると語っています。つまり、人間的努力によって行う必要はないのです。自分の力や決心では決して完全に行うことはできないからです。 わたしたちの責任は御霊によって体の悪い行いを制御し、殺すことであると聖書は言っています。 私たちの生まれつきの肉の性質にその責任を問わない神様に心から感謝します。生まれつきの人間は罪人であって、律法を守れない弱い者であることを神はよくご存じです。 だからこそ、神は人間に聖霊を注ぎ、新しい人に生まれ変わらせて後、古い人によってではなく、御霊によって行うことを求めておられるのです。人間に不可能な要求をなさらない神に感謝します。御霊と一体とされている者にとって、御霊に従って生きることが本来の生き方となっています。古い人にはできないことが、新しい人には喜びであるのです。

<古い自分と新しい自分を分離できていますか?>
1.新しい自分は古い自分の罪の責任を負う必要はない。


悪い思いが心に起こることはあるでしょう。それは生まれつきの私の思いです。自分の罪責感に打ちのめされて力を失っているクリスチャンが多くいます。 そのように思うことは、聖書的ではありません。なぜなら、あなたは生まれつきそうであり、たとえ自分を責めても、自分の性質を自分ではどうしようもできないからです。御霊に従えない古い人は、死んだとみなすようにと聖書は語っています。その立場に立って、新しい人として、御霊に従い、新し歩みをしていくのです。私たちは、キリストを信じる前の古い自分と、キリストを信じて後の新しい自分との間に、超えることができない垣根をもうける必要があります。

罪との戦いの実践 第1:原理に従って実行する

1.御霊によってからだの行いを殺す。自分の努力でそうしてはいけない。
肉の行いを殺すのは、人間の努力ではなく御霊による。


もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(ローマ8:13)

(解釈・考察)
人間的欲求や努力によって罪への責任を果たそう、罪を赦してもらおうとするなら、(肉に従って生きるなら)努力は報われず、結局は罪に定められて永遠の死に至るのです。しかし、御霊によってからだの悪い行いを制御し、殺し続けるなら、義とされて天国に迎え入れられ、永遠の命に生きることができるのです。

2.肉の思いではなく御霊の思いに従う。
肉の思いと御霊の思いは相反する。人はどちらかを選んで実行することになる。


肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが。
御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます(ローマ8:5)
肉の思いは死、御霊の思いはいのちと平安(ローマ8:6)
肉の思いは神に反抗する。神に服従できない。(ローマ8:7 )


(解釈・考察)
御霊の思いは肉の思いに反し(8章5−7節)、御霊の支配は罪の支配を圧倒するために(5章)、御霊に従うならキリスト者は罪に打ち勝つのです。 罪の思いと御霊の思いは互いに反するため、人はどちらか一方に支配されて、その奴隷となります。(8章5−7節)人はその両方の思いを同時にかなえることはできません。御霊が勝つか肉が勝つか。しかし、わたしたちキリスト者は御霊の支配の中に入れられた者、キリストと一体となっている者です。そして御霊の力は罪の力を圧倒します。御霊がからだの行いを殺してくれることを信じることです。御霊は、罪の思いが私たちを支配することから守ってくださる。このことは、私の努力や決心ではできないけれども、御霊にはおできになるという信仰を持って、罪の思いを御霊に制御していただくのです。また、いつまでも自分の心の内を探ることは止めて、その代わりに自分に与えられている恵みについて考えることです。つまり、思いを自分から神に向けるのです。御霊の助けや導きが与えられていることを思うこと、御霊に属することで心満たされ、御霊に従っていくことが大切であると思われます。

罪との戦いの実践 第2:間違った方法に惑わされないこと

1.人間の努力により聖化されたと感じさせる誤ったミニストリーがある
その行き着くところは終わりのない徒労です。

      
罪の思いが起こらないようにするミニストリーがあります。悪い思いが来たら自分の決心で消して、それと反対の思いを思うようにするミニストリーがあります。これらは、すぐに変化が起こるので一見は良いもののように思いますが、人間の努力でする自分の性質の改善で、聖書が禁止していることです。 一時的には自分が良い人間になったように思えますが、その状態を維持し続けることは困難であって、必ず落胆してしまうことでしょう。ある人は、こういうミニストリーをさらに受け続けて行かなければ改善されないと思い、ますます自分の努力で自己改善してしまう悪循環に陥っていくでしょう。しかし、聖書はローマ書8章4節において「肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ」(上記の解釈参照)とあるように、 いくら自分で努力しても、最後には神にさばかれてしまうのです。私たちは、自分の人生を破滅へと導くミニストリーに気を付けなければいけません。
聖化は聖霊のわざです。聖霊による聖化は、神のみわざであるために、いつ、どのようにしたら、こう変わるというプロセスを私たちは説明することができません。 自分の性格が変えられるプロセス(こうすれば、こうなるという過程)を具体的に示して欲しいとか、すぐに変えられたいなどと、性急になるところに、誤った聖化への道に誘い込まれる危険が待ち受けています。

罪との戦いの方法:御霊によって自分の罪に勝利する実際的方法

1.失敗したときには 神のみこころに添った悔い改めをする。(聖書的悔い改め)失敗を告白して、罪の赦しを受け取ること。御霊に頼ることを学ぶこと。

失敗したときは、自分が古い人の思いに従ってしまったことを正直に認め、神に告白することが大切です。そのことを通して、神との平和を確認できます。その罪は赦されています。しかし、私たちは、自分の罪を神に告白して心の中に赦しをいただくまでは、神に対して、アバ父と親しく呼ぶ関わりを持てなくなっています。告白して、心に赦しを受け取ることによって、私たちの側で神を隔てていた心の壁が取り除かれ、再び神に大胆に祈ることができるようになるのです。これが悔い改めの祈りです。
悔い改めが、ただ自分の罪を悲しむだけで終わっている場合、いつまでも赦されたという気持ちを受け取れないで祈り続けている場合、それは聖書的な悔い改めではありません。そのような祈りをいくら続けていても、自分を苦しめるだけです。
このような祈りは、聖化とはなんの関係もない人間の悲しみです。 日本語では悔い改めという言葉の意味が、悲しんで、後悔しているということであるために、誤解しているクリスチャンが大勢います。 私たちは、聖書に従って正しい悔い改めをしなければなりません。

<参照聖句>
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。御覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみがあなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう Uコリント7:10−11

みこころに添った悔い改めは、必ず信者に神への熱心を引き起こします。その人は、以前よりもっと自分の罪が赦されていることを神に感謝するようになります。また、古い人に頼ることが愚かであることを学んで、ますます御霊によって歩むことを願うようになります。この思いに至らせるかどうかによって、その悔い改めが聖書的な悔い改めであるか、人間の反省や後悔であるのかの区別ができるでしょう。

2.古い自分の思いを無視して取り合わないこと
御霊よって生きる新しい歩みをすること

悪い思いが心に浮かんだときには、それを今の自分の責任としてではなく、古い人の思いであると分離して受け取ることです。古い人は、すでに処罰され、古い人は死にました。その立場に立って、古い人の思いを死んだ人の声だと認め、無視して取り合わないことです。また、御霊によって生きる新しい人として生まれ変わったことを認めて、御霊に頼り、御霊に従って歩むことです。 それでもまだ、自分が罪を犯すのではないかと恐れているなら、それは不信仰です。

3.御霊に頼ることによって、自分の罪との戦いにおいて勝利する。

罪との戦いにおいて、私というものに頼らなくて良いことは福音です。
なぜなら、私は不完全で変わりやすく頼りにならないものだからです。
御霊による「聖化」の歩みを備えてくださった神に心から感謝します。
御霊は信者に内住され、力強く働かれます。
私たちは、自らに頼らず、御霊の働きにゆだねて従うのみです。
ここにクリスチャンの平安な歩みの秘訣があります。

<聖化についての考察 まとめ>

御霊によって罪との戦いを日々繰り返していく中で聖化がなされていくのではないでしょうか。聖化とは、自分の罪深さや愚かさを神に照らされて、ますます神に頼る者とされていくこと。この罪深い自分を義としてくださる神にますます感謝するようになること。神にすべての栄光を帰する者へと変えられていくことではないでしょうか。

罪との戦いは、同時に聖化の過程でもあります。この習慣を日々繰り返すことで、私たちは聖化されていくのではないでしょうか。聖化とは、自分の無力を知ること、神にゆだねること、神に従うことを学んでいくことだと言えるのではないでしょうか。また、失敗を通して罪の自覚が増し加わり、この罪深い自分を赦し義としてくださる神に感謝する思いが深くされ、神の前にへりくだる者とされることではないでしょうか。そして、自分に授けられている神の恵みをいっそう深く知ることにより、ますます神を愛し、ますます自らに頼らず神により頼む信仰が与えられることではないでしょうか。その結果、すべてのことにおいて、神に栄光を帰する者へと変えられていくことが聖化であると言えるのではないでしょうか。

     

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