時計の針が動いている。眠れぬ夜にはうるさいほどのそれが軽く二回りする頃、那岐は静かに口を開いた。
「・・・入ってくれば?」
やがて、おずおずと襖が開く。背中を向けていても、表情は手に取るように分かった。話を聞いてしまったことで良心がとがめるのだろう。けれど、風早は聞かせるつもりで話したはずだ。布都彦が、選べるように。
「風早は、出てった?」
「ああ、仕事がたてこんでいるので戻れないそうだ」
振り返れば、落ち着かない様子で視線を落とす布都彦は迷っているように見えた。
「聞きたいこと、あるんじゃないの?無理には勧めないけど」
「では、答えるつもりはあるのか」
核心を突かれた気がして、今度は那岐が目を逸らせた。話す、べきなのか。何を、どこまで?一度足を踏み入れたら抜け出すことなど、かなわないのに。巻き込むのか。何の権利があって?
「確かに立ち聞きは後味が悪い。答えが聴けるなら、たとえそれが良い話でなくとも、よほどすっきりする」
「・・・それは・・・内容次第だろ」
慎重に言葉を選ぶ。葦原の成り立ちは、まっすぐな気性には受け入れがたいはずで。なのに、どこかで望んでいる。変わらずにいてくれることを。あり得ない、と否定する一方で。
「ずっと、分からなかったことがある」
布都彦は言った。
「何故、お前は分家で育った?」
「先祖がえりな外見で、双子で、おまけに病気がちだったからだよ」
「それが本家にはそぐわない、と?」
「古い家だからね」
妙なことを、と那岐は思った。問い質されるとすれば風早と交わした内容そのものについてだろうと予想していたのに、この会話は焦点がどこか違う。
「本家と分家では、役割が違うのか」
「そうだね。本家になじまないことは分家が担うことになる」
「いわば、光と影・・・か」
何気ない言葉だった。けれど、那岐は肯けない。布都彦は、どこまで分かっているのか。風早との会話を辿りながら、思う。影が意味する立場と、手管に気付いているのか・・・と。
「さきほどの話を聞いていて、思い出したことがある。昔、兄が言っていたことだ」
「羽張彦が?」
「分家は子を持たない。本家に準じて生きるために。なのに風早は養子になった。何かが、変わるかもしれない・・・と。その時は、分からない話だった。今も分かっていないかもしれない。それで終わっても不思議はないのに、心に残っていたのは・・・たぶん、那岐がいたからだ」
気付けば、互いが互いを見ていた。音のない部屋が、息苦しいほど気持ちを追いつめるけれど・・・振り払ってしまえばいい。影には、孤独が似合う。だから分家に生きる者は、いつの世も子を成さなかったのだ。ためらいを持たず、影は影として生きられるように。自分もそれに倣えばいい。
「だから・・・なに?」
布都彦に言われるまでもない、と笑い飛ばそうとしたとき。
「変えようとは、思わないのか」
「変えるって」
「那岐は今の在り方を良いと思っていない。違うか」
「・・・そんなの」
思うわけがない・・・それでも。葦原の影響力は、長い時を経て必要悪になっている。それはある種、社会の礎として。つまり、その崩壊は数多の混乱を意味する。ゆえに影は存続してきた。偶発的な罠を幾重にも仕掛け自らの行動を正当化する一方で、ある者は命を落とし、ある者は精神を病み、ある者は本家よりも力を持とうとして自滅しながら。その、声なき声が聞こえる。ほの昏い、闇の果てから這い上がってくる魂の重さ。けれど、それは。
「布都彦には、関係ないだろ」
声は冷たく響いた。もう・・・いいから。この忌まわしさにかかわる理由なんて、ないから。
「本家には姉さんがいて、いずれは羽張彦も加わるし。分家の役割はいずれ僕に来るけど、風早も立場上、手伝ってはくれるわけだし。それ以上は、別に」
「遠夜はいても良くて、私は違うのか」
「いても良いなんて、言ってないっ!!」
言い返してから、はっとする。かなうなら、遠夜だって巻き込みたくなかった。けれど本家の意向でこの国へ来たのなら、せめて守りたい・・・そう、思っただけで。どちらかを蔑ろにするとか、どちらが役に立つかとか。そんな気持ちは、まるでなかった。・・・ただ。
「・・・那岐」
かなうなら、遠ざけたかった。自分とは無関係な、陽の下で生きて欲しいと願うほどに。
「勝手な言い分だとは思う。自己満足でしか、ないかもしれない。だが、分かっていても理屈ではなくて」
手を、伸ばした。知っているから。那岐が一人であろうとするのは、背負う重さを気取らせないためで。子供の頃から身についた、不器用な優しさの形だと。
「私は、那岐がいい。誰を望んで、どこを見ていたとしても。お前のそばに、在りたい」
そのまま抱きしめても、抵抗はなかった。意志を捨てたのではない。ただ、はらはらと。気付けば声もなく、那岐は泣いていた。
「どうして・・・?」
ぬぐっても落ちてくる滴を拭いて、言葉を待つ。
「お前は、見たのに。あの日、あの夜だけじゃない。この身体は・・・汚くて・・・誰が相手でも何されても悦んで、腰振って・・・そういう、見境のないケダモノだよ?でも、この世界の、葦原の、一番に昏くて罪深いところで平気な顔して生きてくんだから、それでいいって・・・そのために生かされてるんだからって。おまけに人の命とか、不幸とか、そういうものを底なしに欲しがる血が僕の中には流れてるのに。こんな汚い生き物、かかわらなきゃいいって・・・一人にしとけばいいって、なんで分かんないの・・・?」
ちり、と胸が焦げる。風早の腕に身を委ねていた姿が、脳裏を掠めた。ならば、あれは・・・自虐だ。那岐は自身を蔑み、憎もうとしている。もがき苦しんでいった者たちの代わりに。
「もし、そういったものに染まりきっていたなら。きっと、お前は今も拒まなかった。そうやって一人で行こうとするの昔からだ。危ないところだと、苦しいものだと知っているほど他人には分けようとせず、自分だけのものにする。だから、一人にしたくない。もう、手が届かないわけじゃない。お前に手を伸ばす、その力を誰かに譲りたくない」
・・・ここにいるから。ただ、伝えたくて。
呼吸が、溶けた。柔らかく押しつけられた唇に呑まれるように。
「・・・布都彦、今の・・・」
「あ、いや・・・その・・・嫌、だったか・・・?」
自分から仕掛けておきながら落ち着かない布都彦に、やがて笑みがこぼれる。・・・いま、目の前に在る想いを抱きしめたいと思うのは罪だろうか。触れてしまえばきっと離れられなくなるのに。
「・・・わ、笑うな。それは、その・・・下手、だったかも・・・しれないが・・・」
「泣くよりマシだって、思いなよ」
項へ手を回して、那岐は言った。うまく笑えている自信はないけれど。どうか、このひたむきさを守れるように、と祈って。
「もっと上手なキスをあげるから・・・少しだけ、楽な気持ちでいさせて・・・」
たとえ、それが想いを喰らうだけに終わったとしても。救われたのは、嘘じゃない。かつて届かなかった手が大きくなって今へつながったのは、きっと幻ではないから。
仕事が溜まっている、というのは半分嘘で。半分真実だった。少なくとも、教師としてのデスクワークに急ぎの作業はない。裏の役割についてはそれなりだが、夜通し家を空けるほど雑務に追われているわけでもなかった。
「さて、と」
さほど困った様子もなく、風早は携帯を開く。大人ともなれば帰宅したくない夜の過ごし方も一つではないけれど。今日はなじみの番号をコールする。
「久しぶりですね・・・羽張彦」
「だからって、お前。今日かけてくるか?」
事情を知るがゆえの発言だった。羽張彦の家は本家が言うところの二流、である。だが、それ以下の扱いを受けていた風早の両親よりはよほど位の高い。滞りなく婚儀が終われば、一流に等しい扱いを受けることになるだろう。無論、そこへ至るまでには相応の障害や妨害があったのだが、さほどに見えないあたりが羽張彦の、羽張彦たるゆえんだった。
「まあ、こちらもそれなりに落ち着きそうなので」
他人事のように口にすれば、羽張彦の方が溜息をついた。
「ちっとは悩めよ・・・お前も、那岐も」
「それなりに悩んでますよ。かれこれ、20年近く」
「・・・ま、バックボーンからすればそんなもんか。普段のお前を見てっと忘れちまうんだが」
羽張彦は、風早が分家と養子縁組をした経緯を知る、数少ない一人だ。それだけに今回の一件を気にかけていた様子だった。風早には生と死の選択しかなく、那岐には自分か千尋どちらかしかない、と知っていて。二人が、それぞれどちらを選ぶのかも分かってはいたのだろうが、とことん悩め、と事あるごとに口にしていた。
「ところで、時間はありますか」
「馬鹿言うなって。それくらい、なくても作ってやる」
「なら、飲みに行きませんか」
「・・・お前、飲めるようになったのか?」
風早が下戸なのは、周知の事実である。
「いいえ。それでも、飲みたい夜があるんですよ」
「しょうがねえなあ」
呆れた声を出しても、羽張彦はそんな自棄を止めない。だから、だろうか。こうして泣きごとめいた意趣返しをしたくなるのは。
「今更ですけど、潰れますからね」
「分かってるよ」
「苦情は・・・そうですね、鏡の中へでもお願いしますよ」
それはあなたに良く似た、誰か。赦されることから始まった関係ではなしえなかった何かが、そこにはあって。絶望を和らげる朝は、結局そうした未知の可能性からやってくるのだろう。遠く、遠く光から閉ざされた闇の呪縛からではなくて。
震える舌がするり、忍んできた。それだけで身体のそこかしこに熱が灯り、広がってゆく。動めくほどに次を欲しがらせ、逃げるように息を継ぐ。激しくはなくとも、寄せては返すさざ波に若い身体は長く耐えられなくて。
「・・・つらい、よね?」
うなじから背中、腰へとすべり落ちてゆく白い腕が。荒く上下し始めた胸を、汗の伝う肌を自由にする。はらはらと互いの着衣が散って、剥き出しになる。行き先も知らず、ただ呆然と手を引かれる子供が隠していた熱さえ。
「ね・・・ここにキスされたこと、ある?」
見上げて聞けば、布都彦は声もなく首を振った。
「なら、無理しないで。出したくなったら、出して」
「・・・え?那、那岐・・・?」
人肌より暑く、柔らかなものに包まれて身体が跳ねる。股間では淡い髪が揺れて行為を隠しているけれど。
「馬、馬鹿・・・やめ・・・」
今しがた触れたばかりの唇が、音を立てる。熱を与えた舌が溢れ伝う滴を嘗めては吸って・・・引きはがそうとする力を削いでしまう。こらえてもこらえても、太く固く育ち暴れ出そうとする衝動に、やがて気が遠くなって。
「・・・っ、く・・・ああっ・・・!!」
乱れた息もそのまま目を開ければ、ちょうど唇から抜け出すそれが、残っていた滴を那岐の頬に散らすところだった。
「・・・あ、・・・」
たまらず引き寄せ、頬をぬぐっていると苦笑されて。
「それじゃ、逆に塗りつけてるようなもんだよ」
「・・・え、あ・・・す、すまない」
残る匂いに舌を這わせ抱きしめれば呆れた様子でたしなめられた。
「出していいって言ったのに。我慢しすぎるから、口の中いっぱいになっちゃって・・・逆に大変だったんだからね?」
「そ、それは・・・その・・・いや、それより・・・飲んだの、か・・・?」
「気にするんだったら、さ。布都彦も・・・してよ」
するり、と。その手を股間へ導いて那岐は言った。
「嘗めてるとね・・・入ってきた時のこと、考えるから。どうしても」
震えて立ち上がりかけた先から、滴が伝い濡れて。慣れた感覚がよみがえり、身体を芯から熱くする。初めてでは、ないから。身体の変化に戸惑うこともなく、ただ・・・欲しがる。繰り返し、繰り返し・・・快楽に身を委ねてきた結果がそこにはあって。
「・・・触って。自分で、する時みたいに」
熱を持て余した、すがりつくような眼差しだった。けれど、それは。布都彦にとってのそれは那岐を犯してきた記憶そのもので。その後ろめたさを余すところなく曝け出すようで、すぐには応じられない。と、那岐はその様子に焦れて腰を揺らした。触れていね手を、指を感じ、どくどく脈打っているのが、はっきりと分かった。
「あ・・・」
喉が鳴る。きつく寄せた眉、伏し目がちな瞳の艶。頭の中では犯しきれなかった、生身の熱が指の間を伝い流れるにつれて自然、ためらいも溶けた。
「・・・もっと、見せてくれ」
ぐちゃぐちゃと犯す手はそのままに、切ない息を漏らし、肩に乗せていた顔を他方で捕える。達する瞬間の表情を、まだ布都彦は知らないけれど。
「・・・や、だって・・・見る、なっ・・・」
これまで誰彼なく身体を開いていても、そんな風に請われた覚えはない。自ら求めれば、淫らな欲だと心を踏みにじられることさえあった。否、むしろ自身がそれを望んでいたのだ。
でなければ、交わりに救いを探してしまいそうで・・・怖かった。そこに大切なものを見つけてしまったら、逃れられない。影として生きられなくなる・・・そんな風に思っていたのに。
「・・・だ、め・・・も、出ちゃ・・・は、ぁんっ・・・!!」
吐き出したまま肩で息していると、布都彦が自らの手指を嘗めとろうとするのが見えた。
「・・・待っ、て・・・」
その、滴る手首を捕えて那岐は言う。
「後ろに・・・使って」
「・・・え?」
「分からない?布都彦が入るとこ、だよ」
双丘の下、息づく場所へそれをたっぷりと含ませ、夢の住人のように笑う。
「先だけ、入れるから。動いて」
再び固くなり始めていた布都彦に向き合ったまま、腰を落として。眉を寄せ、甘い息を漏らし、切なく見つめては、早く早く・・・と。包み込む熱い肉がせがんでいる。その甘い責め苦に耐えかねて突き上げると、きつく喰らいついた腰はなお淫らに吸いつくのに、胸へ埋めた顔は泣きじゃくる子供のようで。
こぼれ落ちる涙を舌で拭い、伏せたままの瞳へ、頬へ、首筋へ、柔らかな髪へ吐息が振り続ける。時に這わせる、舌の熱さ。耳元から忍び込む、声の切なさ。そうして包まれ、触れられた肌は淡く染まって、常の白さよりよほど美しく見えた。
「・・・お前の、キスって・・・」
奥へ、奥へと突き進むほどに大きくなる熱とは裏腹に、唇だけは舞い落ちる花弁のようにもどかしく、優しいなんて。
「ずるい、よ・・・」
季節がめぐれば、花は散り宴は終わる。ただ、日々の形だけを残して。けれど、また訪れる春は見えない。もう、自分の元へそんな季節は来ないかもしれないのに、と。
「・・・あ、くっ・・・」
それが悔しくて乱暴に腰を揺らすと、布都彦がうめいた。背中へ回っていた指に力がこもり、爪を立てる。締め付けられる刺激が辛いのだろう。それで、良かった。背中に残る傷痕。与えられるのが痛みなら終わりにできる。できる、はずだった。激しくなった行為の果てには。
「・・・っ、は・・・」
どこかで湿った音がする。それは合わせた肌を流れる汗か、下腹で噴き出した白濁か・・・確かめる間もなくトロリ、意識が薄れる。けれど、埋めた胸には確かな鼓動があって。伝える言葉を消した、孤独な唇が最後にその肌を食む。ただひとつ、小さな朱花を残して。
そこに翼ありて 〜空の贈り物〜 には、こちらからどうぞ