ぽかぽかとした温かな日だった。足元には、緑。そこから黒いものが伸びていた。
「おばけみたい」
ひょろひょろと伸びたそれを指させば、夕暮れ時の逆光の中、声が返ってくる。
「でも、のっぽに見えるでしょう」
「うん、すごく大きい」
「そう、だけどずうっと君の背丈より大きいままじゃない」
その時、足音がした。ぱたぱたと落ち着きないそれが、ひょろひょろした黒を踏みつけている。
「何やってんだ、お前」
別の声に、足音は止んだ。
「おばけ、やっつけてるの」
振り向くと子供が一人、うずくまって答えている。
「あのね、こうやってぱたぱたってしてね、すわって見てるとおばけも小さくなるの」
「ホント?」
問いかければ、子供は笑った。いつか出会った、懐かしい顔で。
「ホントだよ。いっしょにやっつけてあげる」
「そっか、お前も誰かにいいトコ見せたいってか」
「自然現象ですから、時間が来れば元に戻りますけどね」
もっと大きな、長い長い黒がふたつ、話している。それには構わず、子供は手を伸ばしてきた。
「こっちこっち。広いとこで追っかけて、やっつけるの」
温かい手だった。手を繋いで走ると、ゆらゆらした黒も追いかけてくる。まるで自分達がやられてしまうようで、怖くなる。遠くで見ている二人は、のんびり笑っているけれど。
「もっと走ったら、へいきかな」
あれは、どちらが言ったのだろう。覚えていないが、夢中で駆けているうちいつしか繋いでいた手は離れ、そのまま駆けて駆けて・・・何かがぶつかる弾みでそのまま、身体が宙に浮いた。声を出す間もなく、驚くほど近づいていた水面が見えて。
・・・落ちる。落ちる、落ちる、落ちる・・・そう、思ったとき。
【那岐!!】
二重に響く声に意識を開くと、間近に不安げな瞳があった。叩きつけられるはずだった、全身に広がる水の感触は・・・ない。代わりに感じるのは、しっかりと抱き込むその腕だけだ。
「大丈夫か?うなされていたようだったが」
「・・・夢、見てた・・・」
まだ、本家の闇を知らずにいた頃・・・川べりで過ごした平凡で幸せな夕暮れの風景。今にして思えば、あれが最後の日だった。自分の出自や、立場や、回りに及ぼす重さについて考え始めた、最初の出来事があの場所で起きた。自分を助けた風早が、逆に立場を悪くするのを見た。あの時は本当に彼が叱られているだけに思えたけれど、成長するにつれて死なせておけば良かったのだと、そう言われていたような気がして怖くなった。もし、本家に対する分家の思いが怨嗟そのものだとしたら。そうさせた根源はどこにあるのか、と。思うほどに、気付くほどに孤独になった。
「はじめて会った時の、お前がいたよ」
「そうか」
「風早が・・・羽張彦がいた。夢だけど、途中まではホントにあったことだったよ」
そっと、頬を寄せる。肌を通して、鼓動が伝わってきた。そこには、少し色褪せた朱花がある。それが分かるほど、差し込む光は明るい。
「・・・布都彦」
待っていたのだろう。夢見が悪くなければ、自分が目を覚ますまで。つくづく馬鹿だ、と思うのに鳩尾のあたりが温かい。同じく想いを返さないかもしれない相手に、ただ身体の欲を満たしたに過ぎないかもしれない相手に、そこまでするなんて。だから、痕など残されるのだ。誰もが好意や尊敬を見せかけにしているわけではない、と知ってはいても。感情が一色に染まらないのも当然の話で・・・なのに、信じたくなる。互いの出自も立場もなく、ただ誰かを想う心もあるのだ、と。
「遠夜に、会いに行こう」
「それは・・・かまわないが」
今日は、平日。特別な事情でもない限り、彼がいるのは。
「学校。いろいろ、取り戻さないと・・・ね」
会わなければならない。自分達が持っていた、当たり前の場所と、時間と。遠夜の処遇をはじめとする、自分の足元から生えた得体の知れないもの全て。そこに向き合わなければ始まりはしない・・・何も。葦原の家だけが独り歩きする虚構が、ただ残るだけだ。
「言っておくが、今からでは間違いなく遅刻だぞ」
「気にしないよ、そんなの」
はあ、と布都彦は溜息をつく。根が真面目なぶん、そこは気にして欲しかったのだろう。だが、反論はしなかった。そうして二人、背中合わせで身支度をする。途中、ちらりと振り向いた背中は鍛えられた綺麗な筋肉をつけていて。
「・・・何だ?」
「別に。用意できたなら、出るよ」
しばし、見とれていたなんて・・・死んでも言ってやらない。一人でなくて良かった、なんて。禍根を残す言葉を口にするくらいなら、まだ腹の中をたゆたう布都彦がそう思わせた、とか。そんなオカルトを信じる方が、まだマシだ。
「いい天気だな」
「そうだね。たまには悪くないかな」
ラッシュから外れた時間は行き交う車も少ない。取り巻く状況は何も変わらないが、それでも。
「・・・何のつもり?」
変わり映えしないアスファルトを見下ろしたまま歩いていると、手が伸びてきた。
「じき、国道に出る」
「知ってるよ」
「途中、横断歩道があるにはあるが・・・さすがに住宅街ではないし、その・・・」
いったいどこの小学生だ、と言いたいのをこらえる。確かに、布都彦と違っていつもは無視して横切るけれど。迂回し信号待ちをするほど危険な交通量が、この時間帯にあったかは疑問だった。
「・・・今更だが、その・・・か、身体は大丈夫なのか・・・と・・・」
ちら、と横目で伺えば顔は正面を向いたままだ。行為そのものに慣れていなくても、無理させた自覚はあるらしい。もちろん、だからと言って宙ぶらりんの手に応じる義理はなかった。義理は、ないが。
「何やってんの、危ないってば」
思わず、その手を引いてしまうのは反射神経のようなものだ。
「前向いて歩いてるくせして、看板にぶつかるとかあり得ないから」
「・・・あ」
振り向き、辺りを見回すところを見ると目は開けていても意識は見事に飛んでいたらしい。
「やっぱり、布都彦は布都彦だよね。チビのくせしてデカいな、と思ったんだけど」
「なっ!!お前、ててて、天下の公道でっ」
その呆れるほど赤い顔を眺めて、那岐は言った。
「まあ、謙虚は美徳って言うけどさ・・・器がデカいって言われるの、そんなに恥ずかしい?」
「・・・・・器?」
「何だと思ったの、お前」
途端、赤味は消えたが今度はフリーズしたらしい。さしずめ、どこかでメンタルの許容量を越えたのだろう。だからと言って、いつまでもそこで立ち尽くす理由もなく。
「ほら、行くよ」
行きがかり上、手を引いてやる。いい年をしてサマにならない姿ではあるだろうが、幼児退行で手間をかけさせた身としては借りを返している・・・気が、しなくもない。
「さすがに心配・・・させたし、ね」
そんなのいらない、と今までは口にしてきた。この先も、そのつもりだった。けれど、同じように心配させる存在ならいてもいいかもしれない。どちらがどちらを、というのではなく時々こうして互いに手を引くように。そんな風に思えるようになった自分が、不思議だけれど。
やがて通りを行く車の音が耳につくようになり、ただ引かれるだけの指は意志を持ち始めて。
「・・・布都彦のくせにそういう繋ぎ方するとか、生意気」
「くせに、は余計だ」
そうしてゼブラゾーンの、白と黒を通り過ぎる頃。足元から、2人分。二メートル足らず、等身大の影が伸びる。手を繋いだままのシルエットを作る那岐は、少しだけそっぽを向いて。僅か先を歩く、布都彦の影を気付かれぬよう、踏んで歩いた。持ち主には伝えられない、心の代わりに。
FIN.