さ ざ な み の 門 を 叩 い た 頃
森  邦 博

 私は「さざなみ国語教室」月例会第2回目からの参加者である。友人の中嶋芳弘さんの誘いでの参加であった。私の30歳の年、娘(高二)の誕生の年であったと思う。「人生、三十にして立つ」という言葉があるが、私の場合「国語の門、三十にして叩く」ことになったのであった。

 同人の中嶋さんは大学時代からずっと、文学を語り創作する会(「ぺった」「欠伸の会」)を作っていた同志であり、教職に就いてからは子どもの作文を交流して教育を語り合う会も作って活動していた仲間であった。しかし、大学気分の抜けきらない者の作った会である。教師としてはまだまだ未熟で、自己流、我田引水、独善的、主観的な教育論の表出が精一杯であったと思う。当然すぐに壁が見え、今後どう深めていけばよいのか、どう実践的に乗り越えていけばよいのか、方向を見失いがちになっていた。
 しかし、そこは若気の至り、自分の教育への考え、自分の教室の実践こそが教育の本道であるはずだなどと不遜な考えも芽生え始めていたのも事実。生意気で傲慢な教師の一人であった。まさに「井の中の蛙大海を知らず」である。

 こんな時であったので、私にとって「さざなみ国語教室」は、蛙の私に教育の大海を教えてくれ、自分の実践力、児童観・教育観の浅さに気づかせ、改めさせてくれる教師修行の場であったように思う。
 ここは、どこかに書いてあったような耳あたりのよい教育論を借りてきて語ることは許されない雰囲気があった。子どもの教室の事実で語らなければすぐに厳しくつかれた。怖い場である。
 特に故高野倖夫氏(児童作文誌「近江の子ども」編集長。氏は機関誌の編集もしてくださった)からは、子どもの事実で語れない実践には容赦ない質問が飛んできた。「子どもの顔が見えない」「教室の様子が伝わってこない」実践に高野氏の大鉈がばっさりと振り下ろされたこともしばしば。「子どもの事実中心主義」の思想は今もこの会のモットーである。

 機関誌の創刊号には倉澤栄吉先生の『心臓のように』という文が寄せられている。この「さざなみ国語教室」の心臓は「子どもの事実で教育を語る」ことだと思う。この心臓の動きをこれからも常に心に刻んでいたいと思っている。
 私が「さざなみ」の門を叩いた頃誕生した娘は今、高校生になった。生意気に大人びて、父親の批判もできるようになったが、私はどれほど教師として成長できただろうか?
(大津市立青山小)