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お友達さわださんちのホームページ、友達の部屋。「かしこし」という日本人の宗教観

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日本人の道徳・宗教感(かしこし)を考えてみる
和

宗教的対立により、多くの事件が起き、多くの方が犠牲になったり、傷ついたりしているというニュースが最近多くなっています。その報道の中で、宗教に対する日本人の無関心さや宗教心の薄さについても語られていました。欧米人は宗教心が篤く、日本人は宗教心が薄い・宗教に無関心だと言われますが、〇〇教(宗教)というのは、〇〇神を信じ、〇〇神を畏れ、〇〇神の教えを守ることだと思います。その理由としては、〇〇神が天地すべてを創り、或いは天地すべてについての知恵があるからだ、と思います。宗教とはその対象神に対する「想い」でしょう。

この宗教が善悪の基準となるものなのでしょう。善悪の基準が違うので争いが起こっているのでしょう。この場合、欧米では宗教(religion)と言われていますが、日本語では人倫(ひとのみち)・道徳の方が適していると思われます(その理由は後で述べています)。

和和 ところで、「我、太平洋の架け橋とならん」と言われ、国際連盟事務次長も務められた新渡戸稲造さんの著書「Bushido: The Soul of Japan (武士道、原文英語)」の序文に、この書を著した理由として次のように述べられています。

1つめは、日頃から奥さん(米国人)が、新渡戸さんの行動等について、何故このような日本人の考え方や習慣が日本で根付いたのか、と云う質問をよくされていたこと。
2つめは、ベルギーの著名な法学者のラブレーさんと散歩している時、「日本の学校では宗教教育と云うものがないと言われるのですか」との質問に「ありません」と答えると、ラブレーさんは驚きのあまり突然歩みを止めて、「宗教がないのならば、あなた方はどのようにして、子供たちに道徳教育を授けるのですか」と聞き返されて、愕然として、即答できなかった。何故なら私が幼いころ学んだ人倫たる教えは学校で受けたものではなかったからである。
そこで、善悪の観念を創りださせた様々な要素を分析してみると、その基は武士道であることが判った。

とあります。

また、よく言われる「武士道は死ぬること」については、宮本武蔵の五輪書の地の巻に「大形武士の思ふ心をはかるに 武士は只死ぬると云道を嗜事と覺ゆるほどの儀也 死する道におゐては 武士計にかぎらず 出家にても 女にても 百性巳下に至る迄 義理をしり恥をおもひ 死する所を思ひきる事は 其差別なきもの也」と書かれています。
「義理を知り、恥を思い、死する場合のことを考えている」のは、武士道とは別のもののようです。

してみると、日本人が学んだ人倫は、新渡戸稲造さんのいう武士道ではなく、もっと根っこのところにある観念だと思われます。

和和

ところで、日本には「かしこし(畏・恐)」という言葉があります。世の中のすべてのものには、命(いのち)があり、霊が宿っている。その霊を畏れ・敬い、霊が宿っているものに対して畏敬の念を抱き、それを感じる気持ちが「かしこし」です。
即ち、「れい・たましい」を古語では、「たま」といいます。「たま」とは「(魂・靈)①神や動植物、あるいは器物・言語などの内に宿る、不可視的な超自然的な力を備えた存在。②特に、人間の体に宿って、精神的な活動をつかさどると考えられた霊魂」とされているものです。
その為、日本人は、山・川・滝・海・岩・雷・風・水・犬・猫・狐・狸・鹿・言葉……らを畏れ、それらを神と感じたのです。
さらに、平安時代末期の作品とされる梁塵秘抄(りょうじんひしょう)口伝集に「ちはやぶる神々に をはしますものならば あはれにおぼしめせ 神もむかしは人ぞかし」とあり、人も神になれるのです。

してみると、日本人は宗教心が薄いのではなく、その対象が広いので、薄く思われるのではないでしょうかね。
この「かしこし」が新渡戸稲造さんの言う「人倫たる教え」ではないでしょうか。

すべての人がこの「かしこし」を道徳の基準とすれば、世の中の争いも無くなるのではないでしょうか。

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