足の指の間が痒くなる心意気

2002年11月30日(土)「ヒトは差別する生き物である」〜土曜日のクソマジメ

 差別はいけないことだ。してはならないことだ。しかし、無意識にする差別はヒトがヒトである以上、否、ヒトが生物の一員であり続ける以上、避けては通れない障壁である。決してヒトがヒトであるから差別をするのではない。ヒトは生き物だから差別をするのだ。

 例えばアヒルの群れに一羽、少し弱いアヒルを混ぜる。すると他のアヒルは揃って弱いアヒルをクチバシでこづき始める。弱いアヒルはこづかれすぎて、頭と言わず羽根と言わず、しまいにはところどころハゲてしまう。ほっておいたら殺すまでこづき倒されるという。野生の生物界では「淘汰」の名のものに、こういうことは日常茶飯事である。もちろんヒトはそう言う原始的なイジメや差別を、理性や知性で排除できる能力を持ってはいる。

 持ってはいるが、いくら理性で抑えようとも、無意識に心の奥底で泡立ってくる差別意識までは抑えきれないものだ。

曰く、ライバルのアイツよりテストの点が良かった。ざまぁみろ。
曰く、お隣のダンナは平社員、ウチのダンナは同い年で課長さん。フフフン。
また曰く、あのサイトよりウチのサイトのほうがアクセス多かった。(・∀・)
またまた曰く、アイツは俺より顔も収入もいいけど…実はハゲなんだぜ。けけっ。

 …最後の例には自分でヘコんでしまうが、ともかくもこうした「プチ差別」は人の心の中に、ヘドロから腐敗ガスが湧き出すように、あとからあとから浮かび上がってくる。ヒトは弱い生き物だ。他人との関係で少しでも他人と比べて自己の優位性を保つことで精神のバランスをとっていかざるを得ない。そうしなければ生きていけない。コレはもうヒトとしての「業(カルマ)」であり、一生抜け出すことは出来ない。

 誇りを持つのは素晴らしいことだ。しかしその誇りが他者を貶めることでしか生み出せないソレであるならば、今すぐ考えを改めて欲しい。誇りの基準は相対的なものではなく、絶対的なものであるはずだ。

 隣国の政治体制はともかく、その国の民族と我々の民族と、どっちがどう優れていて、どっちがどう劣るのか。それは理性や知性でわざわざひねくりだして意識的に生み出した差別だ。…こんなこと今更ナンセンスなのだが。

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