足の指の間が痒くなる心意気
2002年11月10日(日) 「共に過ごす時間」〜日曜日の恋愛論 |
好きな人と一緒に過ごす時間。 それは長ければ長いほど良い、としばしば言われる。もっとも飽くまでもその人のことをずっと好きであり続けることができれば、の話ではあるが。 たった半日や一日しか一緒にいられない恋人たちが、30年以上連れ添う夫婦と比べて不幸だというわけではない。半日には半日の分だけ幸せと不幸があり、30年には30年に見合った幸せと不幸がある。さらに言えば、それは量についてのみ言えることであり、その質については全く比定することができない。 たった半日の出会いでも、めくるめく恋を体験する恋人たちもいる。30年連れ添っても、ときめきさえ覚えないまま来てしまった夫婦もいる。 一緒に過ごす時間の長さと恋の質は関係ない。 半日でも一日でも、40年50年でも同じだけ燃え上がるチャンスはあるのだ。むしろその短さゆえにすべてを燃やしつくすような恋のほうが物語にはなる。 明日もある明後日もあるその先もまだまだ眠くなるくらいあるし、ぜんぜん焦らなくて良いし、肝心なこともいつかそのうちにやれるさ、大事な言葉もいつか伝えればいいさ、と、いつまでも何も出来ずにいる。 そんな夏休み半ばの宿題みたいな恋。 結局我と我が身を燃やす機会を逃してしまい、物語を残せなかった恋。 一緒に過ごす時間が長いと、往々にしてそう陥りやすい。しかし線香花火の美しさも言葉には尽くしがたい。小さな炎でも、じっくりじっくり長く長く保たせればほんのりとした余韻にひたれる。こういう恋の平和で平凡で波風のない側面もきわめて魅力的な存在ではあるが。 短く終わる恋は逢える時間にすべてをつぎ込んで一気に燃やしてしまう。 だから燃え尽きるのも早いのかもしれない。しかしそれだけに立ちのぼる炎の大きさや美しさは他とは比べものにはならないだろう。たとえるならば特大の打ち上げ花火。その美しさに声を上げない人はいないが一瞬にして散ってしまう大輪の花。 一方で長ければ長い方が良い、という人もいる。 片や短いからこそ意味を求めることが出来るんだ、と言う人もいる。 人の命のありようにもなんとなく似ている。 恋とは人生そのものなのかもしれない。 |