足の指の間が痒くなる心意気

2002年9月12日(木) 「グラウンド・ゼロ」

 有史以来、人々は無数の「グラウンド・ゼロ」を作ってきた。この一年でいったいどれほどのそれが出来たことか。ニューヨークは言うに及ばず、アフガニスタンにも数え切れないほどの「グラウンド・ゼロ」が穿たれた。

 その地点を作った者達は、必ず口をそろえてこう言う「正義のためだ」と。アラブにはアラブの正義。アメリカにはアメリカの正義。しかしその「正義」のぶつかり合いで産まれた「グラウンド・ゼロ」にいったい何が残されたのか? 考えてみるといい。
 お互い痛みはわかっているはずなのに、それでもなお産み続ける「グラウンド・ゼロ」。愚かなことはきっと元より承知の上だろう。莫大なカネをドブに捨て、多くの人命を無駄にすり減らして。それでもやってしまうのだから、恐らく「正義」というものは何ものにも勝るモノなのだろう。

 我々日本人も忘れてはいけない。我が国にも多くの「グラウンド・ゼロ」があることを。そして、かつて多くの国々に我々の爺さん達が「グラウンド・ゼロ」を作らされてきたことを。

 それを爺さん達に強いたのはもちろん、その当時の我が国の「正義」だった。そして我が国にいくつもの大きな穴を穿ったのは、当時敵国だったアメリカ人の「正義」だった。「正義」よって産み、産まれた「グラウンド・ゼロ」からいったい日本人は何を学んだのか。

 虚無に逃げ込むのは簡単だ。だが、それでは「死」の持つ意味があまりにも希薄になってしまうではないか。我々が学んだはずの痛み、苦しみ、哀しみ、そして怒り。それらをもう一度思い出すことは、そう難しいことではないはずだ。50数年ほど前に「グラウンド・ゼロ」の中心にいたのは我々日本人だったのだから。

 そのあまりにも多くの死を、そしてこれからも迎え続けなければならないであろう多くの死(もしかしたら自分のそれも含まれるかもしれない)を、無意味にしないために。我々には色々なことが出来るはずだ。それは一人一人によって質も大きさも違うだろう。

 謝る。祈る。それでもいい。それだけでもいいじゃないか。その気持ちが出発点になりさえすれば。

 みんな大なり小なり、心の中に「グラウンド・ゼロ」を持っている。それをただただ、忘れてはいけない。自分の「正義」を振りかざすだけでなく。

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