五段 さかさまの求法

一節 人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。

二節 法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。

 この一節は、人が初めて求法するときは、だれでも無条件に誤まる、と聴こえる。たしかに主語としての人が、法を目的として求める以外に仏法を求めようがないのであるが、それは二段一節で〈自己を運びて万法を修証するを迷とす〉と説かれたように、迷であるほかない。〈おほよそ初心の情量 は、仏道をはからふことあたはず〉《渓声山色》といわれる通りだ。初心とは、初段Bの時節から、やっと発心したばかりの心である。無常を感じて発心するとは、明日死ぬ かも知れない我が身が、死ぬ前になんとか救いを、あるいは本当のあり方を見い出したいと求めることであり、すべては私の為になされる他ない。 もちろん、そういう求法そのものが否定されているわけではなく、人の求法の営みの初めは、必ずそうであり、すでに二段・四段でも明らかにされた通 り、錯誤はそこに不可避的に纏い付く、ある種の必然として示されている。

 〈はるかに・・・離却せり〉とは、その錯倒が方向の逆であって、仮に目的とされている「悟り」まではまだはるか遠い、というような同方向の遠さではない。かえって進めば進むほど離れていくのであり、それが〈はるかに〉と形容されている。

 それに対し、二節の〈すみやかに〉は、遅速という時間的速さを超えた、現にある事態(本分)の顕現を形容する速さといえる。しかし、それは、常にもともと有る、ということではない。その前の条件、〈法すでにおのれに正伝するとき〉を見落とすことはできない。

 〈法すでにおのれに正伝する〉とは、一章で明らかにしたように、体験的悟りを師から認められて成立するような伝法ではないし、仏法はなにか把握できる対象としての真理であるわけではなく、人のあり方なのだから、〈正伝は自己より自己へ正伝す〉《仏教》るといわれた。自己から自己へ、だから、正伝はいつも〈すでに〉なのであり、そういう意味で〈すみやかに〉である。〈おのれに正伝するとき〉の「時」は、只管打坐の時にほかならない。坐禅のとき、すでにある電波に受信機の波長が合うように、すでに、すみやかに〈本分人〉である。〈本分人〉というのは〈自己から自己へ〉だからであるが、その〈とき〉を無視するとおおきく誤る。

 うっかりすると『普勧坐禅儀』に「道もと円通 、いかでか修証をからむ」とあり、また『弁道話』に「この法は人人の分上に豊かにそなわれり」とあることから、いつ、いかなる人にも、本分としてさとりが備わっている(本覚)、と誤解される。しかし、〈仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり〉《仏性》と言明されている。さとりは、「いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」『弁道話』と言い切られる。もちろんその修証は、自己を運ぶのではないが、あえて人の側から言えば「回光返照の退歩を学す」『普勧坐禅儀』ともいえる。

 別の言い方をすれば、只管打坐において、このどうしようもない自分が転ぜられて、自分の知らない、自分に見えない自分になっていることが、ここでは〈本分人〉と表わされている。「坐は 即 ち不為也。是、即ち 自己の正体也」(『随聞記』三)といわれることである。

 

   六段 「我思う」のあやまり   

一節 人舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、

二節 身心を乱想して万法を辨肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。

   もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ 道理あきらけし。

 ここで、はじめて「譬え」という表現様式が出てくる。五段まではなにほどか論理の言葉で説かれてきたが、さとりや修証は体験ではないが、知的洞察でもなく、人のあり方であるから、論理の言葉には馴染み難い。論理の言葉は、物事を抽象化し、元来はたしかなあり方として具体的であったものをも、何にでも応用の効くスケルトンにしてしまう。生きている具体的な事態を表わすには、イメージの言葉、譬えや比喩が有効だ。すでに鏡と影(鏡像)、月と水(三段)という二つの比喩が用いられたが、この段以降は、川を舟に乗って行く(六段)、薪が灰になる(七段)、春と夏(七段)、月に水が映る(八段)、魚が水を行き、鳥が空を飛ぶ(八段)、船で海を航行する(九段)と、比喩や譬えが次々に語られていく。 

 一節の舟の譬えは、九段の船にのって海を行く譬えとも重なって、ここに新しい展開が聞き取れる。二節は、すでに触れたように初段Bの〈万法ともにわれにあらざる・・〉、また三段の〈身心を挙して・・〉と響きあい、迷のありさまを説明するものとして、二段一節〈自己を運びて万法を修証する〉と対応する。文の流れからは前の五段一節の〈はるかに法の辺際を離却せり〉を、譬えによって説いているともいえる。つまりこの段全体は、仏法を求める時、人がどのように間違うか、その迷のしくみを示したものである。

 文の構造を見ると、一節と二節はそれぞれ精確に対応している。

 一節の走る舟から岸を見て、岸が移ると錯覚することは、二節の己れの身心を様々に計らい使って、万法を分別 し、その分別する自分の本性は変わらないと思うこととパラレルになっている。

 ところで初段Bを解釈した時、静かに坐して自分の身心を省みて分かる道理は、万法がわれにあらぬ 無常であった。したがって舟とは、私たちの身心(四大五蘊)だとみることができる。岸とは、私が生きていく時、目にし、耳にし、考える世界(万法)である。

 ここには、たんに私が自分が主体となって万法を悟ろうとする誤りだけでなく、ふつうに世界を理解し解釈するということが、そもそも、この歴史的社会的流動性・制約のもとにあるにすぎない生身の私を、固定した基準としている、その日常的迷妄をも指摘していよう。  〈身心を乱想し、万法を弁肯する〉とは、道元自身は、坐禅をしてさまざまな観法や精神集中に励んで「悟り」を得ようとする事を念頭に置いていたのだろうが、現代的に見れば、大望遠鏡を使って宇宙の果 てを知ろうとしたり、コンピューターで遺伝子DNAの塩基配列を全て知ろうとすることも、やはり身心を乱想して、すべてを知って自分の物にしたいという同一の傾向であることが分かる。ニューエイジ宗教の多くもこのような科学的知見を自らの宗教教義に組み入れており、実に迷中又迷である。

 〈きしのうつるとあやまる〉とは、自分を静止した基準として外の世界を見れば、たとえば十年で植えた木が大木になって、環境世界が変遷したように思う。実際は、自分も二〇cm伸びていたり、二cm縮んでいたり、心身ともに十年前とは全くちがっているのだが、そちらは気付かない。それが普通 ひとが、無意識に自己を定点として世界を見る仕方であり、仏道でいえば〈自心自性は常住〉という憶測になる。

 もっとも自心自性の常住という言い方を見れば、たとえば霊魂(アートマンなど)の実体視とその不滅を主張するインドの宗教思想など、特殊な立場のように受け取れる。だが、考えてみれば、自分が万法を悟ろうと修行する者は、「自心は常住」という思想を自覚していなくても、その吾我の存立構造をまったく疑っていないから、結局同じようなことになる。また、仏教でなくとも、実は「われ思う、ゆえにわれあり」(デカルト)という近代的自我を根本原理として立ち上げられた現代的世界観にも、これは当て嵌まる。これだけは疑っても疑い得ない確実な「私」と、「私」の外にあって「私」の感覚・意識の対象としての世界!

 身心を乱想して万法を辨肯するとは、先に見たように科学の立場でもあり、さらに科学技術の世界とは、そのように自我の内に立てられた像を、物として再び産み出していく世界である。自然物と人が融即しているがゆえ自然物から呪縛されてもいた古代から、近代は人間が解放されたかに見えるが、その人間が主になって仕立てられた現代都市社会は、そもそも人間がそれによって抱擁されている環境世界を、ずたずたに壊し、自らが産み出す欲望で人を呪縛する世界になっている!

 道元はこの迷妄から覚めるのに、〈目をしたしく舟につくれば〉と譬えて、〈行李をしたしくして箇裏に帰すれば〉と示す。行李とは行住座臥のふるまいや行為ということで、箇裏とは自分自身であり、つまりは自分の身体とその日常生活の働きを顧みれば、無常の四大五蘊であることが分かる。確かに人間の肉体は日々成長していくか、日々衰えていくか、いずれにせよ常に変わり続け、もしかしたら明日、死ぬ かもしれない。この人の無常は、昔は自分を顧みれば、当たり前にうなずけることであった。『随聞記』には「念々に留らず、日々に遷流して 無常迅速なること、眼前の道理也、知識経巻の教を待つべからず」(巻二)と、目前の事実として指摘する。

 ところが、現代人にとっては、諸行無常ということはなかなか分かりにくい。この日々を、若者は終わらない退屈な日常と感覚しているし、たいがいの現代人は自分の死を目前のこととは思わない。都市の人工的風景には季節の変化などなく、医療技術が死をとりあえずは回避できるものに変えている。科学的世界観は、だいたい空間的であり、時間軸を無視する。

 現代人にとっては、無常迅速を自ら切実に感ずることこそ、仏道に赴くための急務なのであろう。それは足元をしっかり見さえすれば、崩壊しはじめている地球環境、子供の身心の危機として目前の事実であり、見損なう筈のないものである。それを自覚した時、はじめて迷悟以前の初段Bが実感され、そこから死生を究明する仏道への発心も出てこよう。

 さて、すでに述べたように、〈行李をしたしくして箇裏に帰す〉とは、眼前の事実によってうなずくことであって、それは仏道の了解ではない。また、〈万法われにあらぬ 〉は、そこでうなずかれた内容、「道理」であって、仏道に赴くのになければならぬ自覚ではあるが、それが悟りの内実ではない。そのことは、これをあきらかにするのに万法から証されるという契機をまったく必要とせず、ただ自己の足下を見ればよい、とされていることからも言える。ただ、仏道の誤ったあり方も、自らの無常迅速の道理に立ち返ることによって方向転換できるのだ。したがって、舟だけが動いて岸は移らないのは常識の範疇であり、この譬えはそれを出ていない。ところが、この六段二節を悟りとか仏道とする解釈が多いのだ。

 仏法を説く段になれば、おのずと表現は違ってくる。道元はけっして岸である万法の常住をいっているわけではない。別 のところでは、仏法として、舟も岸も移ると明確にいっている。すなわち《都機》ではこう言われる。

 〈今、如来道の雲駛月運、舟行岸移は、雲駛のとき、月運なり。舟行のとき、岸移なり。いふ宗旨は、雲と月と、同時同道して同歩同運すること、始終にあらず、前後にあらず。舟と岸と、同時同道して同歩同運すること、起止にあらず、流転にあらず。〉

 ここでは如来の言うこととして『円覚経』が引かれ、舟が行く時、岸が移るといわれている。岸すなわち万法もまた移る。月と雲、舟と岸の同時同道で、始めや終わりがあるのでも前後関係でもないとは、只管打坐に開かれる世界が、万法と自己と同時の動的な照らし合いであって、心の活動が起るのを止めるのでもなく、無常流転でもない。

(補論) だから〈青山の運歩は、其疾如風よりもすみやかなれども山中人は不覚不知なり〉《山水経》ともいわれる。山中人とは坐禅人と受け取れる。その打坐の時のみ〈草木叢林の無常なるこれ仏性なり、人物身心の無常なるこれ仏性なり〉《仏性》といいうるのだが、今の文脈は、打坐以前の人物身心の無常である。   

 しかし、同じ舟にのって人が行く譬えが、迷と証と両方に使われるのはおかしいとも考えられる。だが、四大五蘊という舟に乗って、どう考えるか、どうふるまうかが問題なのである。そこから移る岸を見て〈自心自性は常住〉と思って自分勝手にふるまえば迷であり、四大五蘊を只管打坐させて法の働きに叶って生きれば、仏道なのである。〈尽十方といふは、物を逐って己と為し、己を逐って物と為すの未休なり〉《一カ明珠》といわれるように、万法と自己との双方向の働き合いとして、開けの場が成り立っている。

 以上のように、この段は迷の樣子を、万法と人(自己)に時系列を加えて述べている。時系列は次段の生死ともつながる。