四段 自己をならう
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の身心をよび他己の身心をして脱落せしむるなり。
悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。
ここに初めて、〈仏道をならふといふは〉と説き出されて、今までの難解な言い回しがあたかも予備知識であったのかとさえ思わせるほど、なめらかに仏道が示されている。
〈仏道をならふといふは、自己をならふなり〉は、新鮮な驚きを伴って耳を打つ。仏道は、このわたしが実際に生きる問題なのであり、だから、仏法は、存在論でも認識論でも実体論でも、いかなる哲学でもなく、私がならうあり方なのである。
こういわれ、こう自覚して、私たちは初めて仏道のスタートラインに立つ。ここに実際に立った時、なるほど今までは仏道とは無縁であり、〈まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく〉であったと気付き、〈生なく滅なし〉といわれるように、切実に生滅を感ずることもなかったとうなずかされる。
〈仏道をならふ〉は、〈ならふ〉が習うという意味と同時に、倣う、模倣するという意味をもつことから、見当もつかない悟りを暗中模索で求めるというよりは、すでに先人によって踏まれて道となった仏道を、自分も模倣してやっていく、という趣きがある。しかしなお、仏道を対象として、自分が向かうべき目的を立てて進む、というふうにならずにはいられない。
〈自己をならふなり〉は、その対象としての仏道という響きを打ち消し、何を問い、何をならうのかを明示している。自己こそ、思えば私にとって一番の問題である。〈自己をならふ〉、これは日常生活ではありえない行である。日常生活で習うすべては、何かを身につけ、知識を増やし、世界を広げ、あらゆることが、外の対象を自己に取り込み、またその対象に働きかけるという自分以外の対象を目的語にしていることばかりだ。しかし根本問題はその生身の自己自身なのだ。〈みづからをしらんことをもとむるは、いけるもののさだまれる心なり〉《唯仏与仏》が深く響いてくる。「汝自身を知れ」は、ソクラテスならずとも最も深い知の要請であろう。だが、「知る」はなお頭脳に傾く。
ところが「ならう」は、なにか四肢身体を使う事態だ。〈自己をならふなり〉は、だが、それと同時に、なおいっそう、自己が主体となり、自己を目的として、知り行じていくのだという、自力的、自己目的的な印象を強くさせる。
次の〈自己をわするるなり〉は、そのような〈自己を運びて〉といわれた主体的なありかたを否定する。臨済禅が己事究明で貫かれているのとは対照的である。とはいえ、〈自己をわするる〉は、〈心性二つながら忘ずる〉《説心説性》ような精神集中による忘我、あるいは老荘の坐忘や心斎の境地、そのものに成り切る至人の境地かとも思われる。
たとえば坐忘は次のように説かれる。「肢体を堕り、聡明を黜け、形を離れ、知を去てて、大通 と同じくなる。此れを坐忘と謂う。」(荘子、大宗師篇)
また、心斎とは次のようなことである。「若、志を一にせよ。 これを聴くに耳を以てする無くして、 之を聴くに心を以てせよ。 心を以て之を聴くこと無くして、 之を聴くに気を以てせよ。 聴くは耳に止まり、心は符に止まる。 気なる者は、 虚にして物を待つ者なり。 唯、道は虚に集まる。虚なる者は心斎なり。」(荘子、人間世篇)
このような聞き方に対して、続く〈万法に証せらるるなり〉は、それを拒否する。〈万法に証せらるる〉は、あらゆるひとりよがりの恍惚境を否定し、しかも〈証せらるる〉と、証が受け身形で明言されている。二段の〈万法すすみて自己を修証す〉と同じである。心斎や坐忘と只管打坐との違いは多々あり、見取会取をいう八段でも触れられるが、要をいえば、打坐は「自己を忘れる」で終わっていないことだ。「万法に証される」とは、人が万法の開けの場となることである。だが、それもなお、自己の側からみれば、たんなる受け身の静止した響きを免れない。
〈自己の身心をよび他己の身心をして脱落せしむるなり〉は、そこを見越して、たんなる受動ではなく、自己自身の実存の転であることを示す。しかも自己の身心の脱落だけでは、また自分ひとりの事態に堕ちてしまうところを、〈自己の身心をよび他己の身心〉と言い留めることによって、自分ひとりに限定されない他者を包む。というより、自己が脱落すれば、もはや他己として自己に相対するものは何もない。だから自己を脱落したところでは同時に他己も脱落し、我でも、彼でもない、「たれ(誰)」となる。そして、注意すべきは、〈脱落せしむる〉と使役形になっており、自分が身心を脱落するというような個人の体験ではなく、個人は脱落させられ、あえていえば「諸仏」とも「たれ」とも言い得るものよりも従位 に転じられる。〈非思量にたれあり。たれ、我を保任す〉《坐禅箴》という実存の転である。
しかしながら〈脱落〉という言葉は、なお個人的な悟体験という語感を引きずる。 それが次の〈悟迹の休歇なるあり〉で消去されている。〈悟迹〉といえば、いかにも悟りがあり、その迹形が存在するように思われ、実際、「悟迹を消す修行」などと解説されたりもするが、道元は〈休歇なる悟迹〉という。つまり、そもそも悟迹ははじめから休みであり、欠けていて、消すべき跡はない。だから、鳥道ともいわれるのだ。それを主体に引き付けてみれば、二段三節で、〈自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず〉といわれたことに他ならない。さとりはいつでも不覚不知のままである。すると本来無事、無始本有の悟りとも誤解され、現に存在するものすべてを仏として肯定する、本覚的自然外道と混同される虞れがある。
〈悟迹を長々出ならしむ〉は、その傾向を遮って、人の具体的働きに出ていくものであることを闡明している。二段三節の〈仏を証しもてゆく〉と響き合う、打坐から立ち出た日常生活や説法など言語に展開する事態である。
以上のように、道元は言葉が必然的に帯びる両義性を巧みに操って、一方では上句が下句に同じ内容の言い換え・説明として素直に流れるように受け継がれ、同時に他方では、上句の否定として下句が用いられ、かくして曖昧な余地を微塵も残さない完璧な表現となって、さとりのみちゆきである仏道が、鮮明に、しかも後に何の固定的概念も残らないような仕方で示された。このみちゆきこそ「宗門の正伝にいわく・・・ただし打坐して身心脱落することを得よ」『辨道話』と如浄から示された只管打坐という根源的指南であり、その詳細はすでに第一章二節で論じた通 りである。
しかし、坐禅をどのように功夫すれば、〈自己をわするる〉、〈万法に証される〉、〈自己の身心をよび他己の身心をして脱落せしむる〉というあり方になるのか、再度踏み込んで考えてみたい。 道元は、〈仏道をならふは自己をならふなり〉ということは一応わかっていても、〈自己を忘るる〉ことがわからない人の様子をこう描く。
「仏道は人の為めではない、我が身の為であると云って、自分の身心によって仏になろうと真実に努力する人もある。是は以前の人々よりは真の修行者かと思うけれども、是もなお吾我を思って、我が身をよくしようと思うのだから、まだ吾我を離れていない。」『随聞記』( 六)
坐禅は、まずほとんど、自分が仏道を成ずるためになされるのであるが、そのような初心は、きっぱりと拒絶される。 「いわゆる我が身が仏道を成就する為に仏法を学んではならない。只、仏法の為に仏法を行じていくのである。たとい千経万論を学ぶことができ、坐禅し抜いて床が破れても、この心がなければ仏祖の道を学ぶことはできない。」 (六)
(補論) 同様のことが《現成公案》から五年後に書かれた法語『参禅学道妙術』に次のように説かれている。 「参禅学道するとき、この修行は吾我のためではないと習うのである。もし吾我のためにと思って修行するならば、たとえ大乗非常に深い仏法を行おうとしても、いまだ二乗や外道の家を出たとはいえないのである。また吾我をはなれて修行すれば、自分の為の功徳が多いだろうと期待しないで、ただひとすじに仏法の為に修行するのだと、行じていく。」 これは実際には、とても難しいことである。たいてい宗教は自分が救われたい、自分が解放されたいという思いを原動力として行じられる。しかしながら、私が悟りたい、私が仏になりたいという思いを放下し、私の人生を捨ててこそ、真に仏道を行ずることができるのだ。だが、人間の自我意識は恐ろしく強く、吾我を離れることさえも、自分にとってのなんらかの利益を計算してしまう。ただ自分を勘定に入れずにいくとき、そこにはじめて透明なゴータマ・ブッダと同じ道が開かれると道元はいう。
では、具体的には、どのようにエゴの心を放下できるのだろうか。〈自己を忘るる〉とは、なにかを意識してやることではなく、悟ろうとする意識ぐるみ、只管打坐によってやめていくことなのである。「只管打坐」と道元が熟語にしたあり方は、必ずしも坐禅と同義ではない。「凡夫・外道、倶に坐禅を営む」『永平広録』(四三七)のである。仏教の坐禅でも、かつてはそこで念仏したり、骨相観、日想觀など様々な観法を試み、神通 力や般舟三昧、獅子奮迅三昧、海印三昧など特殊な境地を得ようとしてきた。只管打坐とは、それらのあらゆる形の得ようとすることをやめることである。そのやめるありようを、道元は『普勧坐禅儀』で、「善惡を思わず、是非を管することなかれ。心・意・識の運転を停め、念・想・観の測量 を止めて、作仏を図ることなかれ」という。
(補論) そのような懇切な指示にもかかわらず、現代でも、坐禅という形が直ちに身心脱落であり、どんな心の持ち方でも、姿勢が崩れても、坐禅すれば仏だ、という了解がある。せいぜい妄想・妄念が浮かんだら、追うな・払うな、というほどの功夫が坐禅の功夫だとしている。妄想を追うな、払うなも、初心の用心として必要ではあるが、妄想も含め様々な思いが静まるのが、身心脱落である。もっとも、妄念などは止まることなどありえない、とも考えられよう。妄想やさまざまな思いは、日常生活の具体的生き様や葛藤とかかわって生じる。人間関係、社会関係の煩いから逃れ出て、日常生活を単純に整えて、坐禅に打ち込むことで、はじめて心意識、念・想・観の運転を止めることが容易になる。それゆえ道元は「動静大衆に一如し、死生叢林を離れず・・・また乃ち自己の脱落身心なり」『辨道法』ということもあった。
ここで「作仏を図ることなかれ」といわれるのは、文脈からいっても意図的な心の志向性であるが、身の工夫については、むしろ〈坐仏は作仏の図なり〉《坐禅箴》といわれる。作仏の図とは、 『普勧坐禅儀』で説かれるような端正な結跏趺坐、つまり仏の形を真似ることで、それを道元はまた〈坐相を捨し坐相を触するなり。この道理は、すでに坐仏するには不執坐相なることえざるなり。不執坐相なることえざるがゆえに、執坐相はたとえ玲瓏なりとも非達其理なるべし。〉《坐禅箴》という。
坐相を捨すとは、意図的に仏になろうとしないこと、坐相を触するとは、体の諸部分を『坐禅儀』の指示の通 りに狙うことである。この指示を守る限り、坐相がどうでもいいということはありえない。身体の狙いを定め、龍が蟠るような気力の充実した坐禅をするほかないのだが、そこで精神がクリアにはなっても、だからといって理法を悟るというようなことはない。不知不識であるばかりだ。このように私の身体が場となって尽十方界・万法のさとりが開かれる時、〈無上菩提の人にて有をり、是をほとけと云ふ〉《唯仏与仏》ということが成り立つ。
只管打坐が身心脱落なのであるから、坐禅以外の方法でこれを得ることはできない。 「仏祖の道は只坐禅である。」(『随聞記』六) 〈恁麼の工夫を脱落身心といふ。いまだかつて坐せざるものにこの道のあるにあらず。〉《坐禅箴》 次に、〈自己の身心をよび他己の身心をして〉という〈他己〉は、『正法眼蔵』の中で、十四回とも全て「人」を指している。他者の救いは、自己の救いが自己の脱落という仕方で止揚された時、次のように同時に成就する。他者が先でも、自分が先でもない。
〈これらを一世にあきらめをはりて、のちに他のためにせんと擬せんは、不功夫なり、不丈夫なり、不参学なり。おほよそ学仏祖道は、一法一儀を参学するより、すなわち為他の志気を衝天せしむるなり。しかあるによりて、自他を脱落するなり。さらに自己を参徹すれば、さきより参徹他己なり。よく他己を参徹すれば、さきより参徹自己なり。〉《自性三昧》 自己を参徹するとは、四元素で構成されている身体とその働き(四大五蘊)において只管打坐を行じ、個人の肉体と精神の限定を放すことである。四大五蘊は外に向かう時、初めて覚知となるので、凪いでしまえば対象的覚知はない。そのことが〈四大五蘊にて修行するちから、驀地に見成するに、四大五蘊の自己を染汚せず。〉《諸悪莫作》と表現される。その時、五官や食物、水、息を通 じての開放系である人間存在は、外と内の波長が一致する。身は、〈ふく草も みえぬ 雪のの白さぎは、おのがすがたに身をかくしけり〉『道元禅師和歌集・補遺』と詠われるように、一切と響き合って継ぎ目のがなくなる。
万法の開けの場となることと、自己の転がひとつの事態であるのは、例えば〈尽十方界真実人体〉《身心学道》と道得されるように、転じられた自分が真実人体であり、それが同時に万法の尽十方界である。あるいは〈尽十方界一カ明珠〉《一カ明珠》と言表されるが、その「尽十方界」とは、一粒の明珠に譬えられる「たれ」だけとなった、いかなる対象物もない打坐の開けの地平である。
ここで大事なことは、人がいわゆる自然と一体になるのではなく、むしろ人体が尽十方界になるのである。それが人間根性の放下、すなわち〈脱落〉という事態であり、その時、はじめて〈心とは山河大地なり、日月星辰なり〉《即心是仏》といわれる開けがなるのである。
この山河大地日月星辰は、〈清浄本然なる山河大地を、山河大地とあやまるべきにあらず〉《渓声山色》といわれるように、私が感覚をもって働きかけてとらえた対象と同じではない。私の六感の対象として歪められ、私の思いで汚された山河大地日月星辰は脱落するのである。そこが〈尽大地をわれらがかりにあらざりけるまことしき身にてありけるとはしるべし〉《唯仏与仏》といわれる。物を対象的に感覚し思惟し、所有する自己が転じられて、自他の区別 のない仏のわれが現成する。
これは、対象的な物の方が先に悟っていて、その物の方から証されるというようなことではない。そのような考えはすべて、人(精神)とその対象物という二元論の枠組みの中の話である。それに対して〈仏の云ふみずからは、則ち尽大地にてあるなり。〉《唯仏与仏》という地平が仏法である。沢木興道師は「わしぎり、ここぎり、いまぎり」といわれたが、この「わし」は、一面 では絶対主体ともいうべき個人であるが、他面では、ここ、いまの宇宙いっぱいの「わし」でもある。
仏教教理は、人とはアートマンのような常住の主体が存在するのではなく、ただ四大五蘊であり、無我だと説いてきた。その知解を、道元は具体的な人のあり方として示したのである。これはヨーガや黙想のように目を閉じてしまっては、けっしてありえないあり方である。目を閉じればたちまち自我のイメージの世界が広がる。そのイメージで自覚的に感官を操作したり、音楽やマントラなどを聴き、内に向かって感覚的刺激を与えれば容易に超常体験が得られるが、それはどこまでも意識内変化であって、他者とは無関係である。
仏道では、自己が脱落するから、それと区別 される他己も脱落する。そのような仕方で自分と同時に他者も救われる。ここに仏道の救済の驚くべき特徴があらわれている。先にも述べた通 り、宗教は自分が救われたいということで成り立っているといっても過言ではない。そしてまた究極的には自分しか救われない、という面 をもつ。とりわけ伝道・宣教を正面に据えず、自らの覚醒を期す覚の宗教の場合そうである。人は自分で悟るしかない。あるいは人は、やはり単独者として神の前に立つしかない。この、他人と手をつないでは救われないという、ほとんど宗教のもつ限界とも思えるものが、ここでは見事に乗り越えられている。
もっとも他者救済の思想は、晩年の道元においては、自分が救われる前に、他人を救うという菩薩思想に変わる。その「自未得度先度佗」は、禅仏教を含む大乗仏教の核心であり、宗さくの「坐禅儀」では、冒頭にこういわれている。 「尽く学般若の菩薩は先ず当に大悲心を起こし、弘誓願を発して、三昧を精修し、誓って衆生を度して一身の為に独り解脱を求めず。」『禅苑清規』 これは、実は師の如浄も説いたことである。 「仏祖の坐禅と謂うは、初発心より、一切諸仏の法を集めんことを願うが故に、坐禅の中に於いて、衆生を忘れず、衆生乃至昆虫をも捨てず、常に慈念を給いて、誓って済度せんことを願い、有らゆる功徳を一切に回向す。」『宝慶記』(三一)
他者のための坐禅は、しかし、他者救済の志を高く持っていたとはいえ、当時の道元の取るところではなかった。坐禅は自他がなくなる地平であり、それは自他を区別 する人間の為には、役に立たない。ただ、仏法のために坐禅はなされるべきだと、道元は説いたのである。