三段  認識の限界

 身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、

 したしく会取すれども、

 かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。

 一方を証するときは、一方はくらし。

 前段では悟りが、私の方が万法から修証されるという主客の転として示されたが、そのたしかに存するさとりは、しかしながら、覚知されないと言い切られた。だが、それでは悟ったのか、迷ったままだか分からないではないか、という疑問も出てこよう。道元はその問題に入る前に、続くこの段で、どうして人間には諸仏のさとりが覚知されないのかを、人の知覚・認識の限界を示すことによって説いている。

 〈身心を挙して〉は、前段の〈自己を運びて〉と呼応し、また続く四段の〈身心をして脱落せしめ〉とは逆の対になっている。さらに〈色を見取し〉〈声を聴取す〉は、人間の六根(眼耳鼻舌身意)の働きで、しかも聴・見は聞・看よりいっそう意識的な知覚であり、二段の〈(さとりは)覚知することを用いず〉と対立するので、迷の在り方にほかならない。

 〈すれども〉は逆接の接続詞で、これに続く一文は、水に映った月の譬えである。この譬えは、八段で明瞭にさとりの譬えとして語られる。そこで詳しくふれるが、《都機》の冒頭も〈仏真法身、猶若虚空、応物現形、如水中月〉と『金光明経』が引用されて、水中の月が、法身が物に応じて形を現ずる、さとりの風光として説かれている。

 この段では、その譬えが逆接で受けられた後、〈・・・の如くにあらず〉と否定され、それについて〈一方を証するときは、一方はくらし〉と断じられているわけだから、ここからも最初の〈身心を挙して〉は、自己を運ぶ迷の在り方の説明にほかならない。また明らかに〈身心を挙〉が「迷」を形容する用法としては、〈愚人おもはくは、・・・人天の身心を挙して博学多聞ならむ〉《無情説法》がある。

(補論) もっとも『眼蔵』には、〈みずからが心を挙して修行せしむ、身を挙して修行せしむるに、四大五蘊にて・・・〉《諸悪莫作》という用法がある。ここでは身心を挙することが、六根(身)六識(心)を迷として働かせることではなく、修行としていわれているわけだが、注意すれば「修行する」ではなく〈修行せしむ〉と使役形になっている。重要なことはその後、〈四大五蘊にて修行するちから、驀地に見成するに、四大五蘊の自己を染汚せず〉と言われていることである。〈四大〉とは身体を構成する地水火風、〈五蘊〉とは、色受想行識で、両者で身体とその感覚・意識・運動などの働きであり、〈自己を染汚せず〉とは、それらが自分に知覚されないということで、さとりの聴取や見取の否定である。

  さて、身心を挙げて対象を見る、ということは、人間の感覚・認識のぎりぎりの能力を出すということであろう。そのように一生懸命努力して対象を知覚しようとすれば、〈したしく会取す〉といわれるように、はっきりと身近に知覚される。しかし色(形態的対象)にしろ、声(音声的対象)にしろ、一つのことを漏らさずにはっきり感受しようとすれば、他の対象は視野や聴野に入ってこない。一つの柄に集中するためには、地や他の柄は無視されるほかない。つまり声色などの感覚的知覚は、特定の対象を選択し、それに集中することで起こるので、とりもなおさず自己を運ぶあり方である。

 同様に、意識も必ず何かについての意識であって、対象を明瞭にするための限定化は、受動的な要素が大きい五つの感覚識よりも、意識の方がいっそう強くなる。そのような選択された知覚を統合して、各人のいわゆる世界が成り立つ.この人間の選り好みで成り立つ感覚・認識の延長線上に、悟りはあり得ない。 さとりは、「声色の外の威儀たるべし。・・修証自ら染汚せず」『普勧坐禅儀』といわれる通 りである。

 ところで仏道とはこの私と万法のかかわりであるが、「万法」とは、あらゆるあり方であるから、どこまでという限りのない無限の地平だともいえる。知覚認識において狭い限界をもった人間と、果 てしない万法とのかかわりは、感覚器官(六根)を使う限り、鏡に影が全部映るようにはいかない。あるいは一滴の水に月の全体が映ずるようには、ならない。とはいえ、それが人間にまったく不可能なのではなく、八段で説かれるように完全に全体としてかかわることもできるのだ。もっとも、それは人間の六根六識を能動的働きには使わないという仕方で、可能なのである。

 道元は分かりやすい目と耳による覚知を例にして、人間の知覚・認識の、万法に対する限界をあきらかにしている。ここから思い合わせれば、二段の〈自己を運びて万法を修証す〉ということが、いかに傲慢な企てであるかが分かる。

 〈一方を証すれば、一方はくらし〉というのは、前方の海を見れば、後方の山が見えないということに象徴されるような人間の身体の形・能力に根差した限界性である。しかしながら、この人間の限界が、近年は身体と脳の延長ともいえる道具の驚異的発達によって覆い隠され、核開発や脳生理学、遺伝子操作など、人間の限界を超えると思われる領域にまで人間の感覚や知が及んでしまって、人間の卑小さが忘れ去られている。実は、その身体的限界性は、器械を動員した認識の究極である素粒子の認識に至るまで、あてはまるのであるが、そのことが一般 には気付かれていない。このように神のようになった人間の傲慢を打ち砕くものが、仏法ではあるまいか。

 ところで、曹洞宗学の伝統的解釈も、見性禅的解釈も、哲学的解釈もほとんどすべて、私たちが意識し知覚するあり方として、ここを悟りの叙述であるとするのであるが、道元はまったく逆に、次のように私たちの五感・意識を通 して知られるようなものは悟りではない、といっているのだ。

〈各々の脱穀をうるに従来の知見解会に拘牽せられず、曠劫未明の事たちまちに現前す。恁麼時の而今は吾も不知なり、誰も不識なり。汝も不期なり、仏眼も覩不見なり。あに人慮測度せんや。〉《渓声山色》

 各人がその殻を脱してさとりをかる時は、だれも、仏でさえもそれを知らないのだから、人間の思いや感覚知覚で分かるはずが無い。また「昔の老先輩がいうのに、『学道は見聞覚知を用いない、もし見聞覚知を行ずるなら、それはすなわち見聞覚知である。学道ではないらず』と。それゆえに私・永平道元はいう、仏道は精神を集中して悟りを待ってはならない。」(『永平広録』五二五)

 それにしても、八段で明瞭に月と水がさとりの比喩だといわれているのに、この一段を迷の様子と解釈するものが、ごくわずかであるのは、なんとしたことであろうか。