二段 迷いと悟り

一節、自己を運びて万法を修証するを迷とす。

   万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

二節、迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。

   さらに悟上に得悟する漢あり。迷中又迷の漢あり。

三節、諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。

   しかあれども証仏なり。仏を証しもてゆく。  

 この段は、仏道の根本である迷いと悟りの定義である。この私と万法がかかわるあり方に、まず迷悟がある。  さて、〈自己を運びて万法を修証する〉とは、自分が努力して坐禅し、仏法を悟るという、一般 にそれが禅だと思われているあり方であり、それがはっきりと〈迷〉だといわれる。つまり、「私が坐禅する」、「私が見性する」、「私が無我になる」、「私が仏になる」というふつうの修行の方向は、すべて迷なのだ。ゴータマ・ブッダが、ヨーガなどインドの苦行を批判した理由の一つは、私の力で修行すること、それによって神通 力を得ても、梵我一如という合一体験を得ても、それを得たという「私」と「私のもの」である悟りが残り、しかも「悟った我」という、病が膏もうに入った状態になるからであろう。

 この段は、仏道の根本である迷いと悟りの定義である。この私と万法がかかわるあり方に、まず迷悟がある。

(補論) ここでは、私達がふつう「迷」だと考えている五官の欲望、金や富への執着、名誉欲、色欲などは問題となっていない。もちろん、道元がこれらを問題にしなかったのではなく、『随聞記』には、くどいほど名利や貪りを離れることが求められている。そのような注意を十分にして、この世の欲を捨てさせ、その上で、ここでは、仏道を修行していく際の迷が説かれるのである。  この〈自己をはこびて〉という、自分の方から対象に向かう根本動向は、仏道修行にのみ当て嵌まるものではない。世間で善しとされるたいていの努力が、実はこの〈自己をはこびて〉という根本的あり方なのだ。人間が対象に向かうあらゆる分別 、例えば、あらゆるものの構造・働きを知ろうとする科学的知が、まさにそうである。さらには徳を積むという倫理的努力も、肉体を鍛えるというスポーツも、この根本動向を離れない。大局から見れば、物欲・色欲の追求なども、宗教的追求も、対象の差であるに過ぎない。この根本構造がひっくり返ることが、必要なのだ。これが〈迷〉である、という道元の定義を聞き損なってはなるまい。

 では〈万法すすみて自己を修証す〉とは、どういうことか。迷をただ止めれば悟りであるかのように考えて、私が坐禅することを止め、私が悟りを求めることを止めたからといって、そのことがただちに〈万法すすみて自己を修証す〉ることではないのは当然である。短絡的なこの間違いを、道元は次のように咎めている。

 「外に向って求めてはいけないと云って、行を捨て、学を放下すれば、この放下の行によって求めるところがあると、聞える。」(『随聞記』三)  修行を止め、参学をほうり出すことさえ、目的をもった行為であり、自己を運ぶあり方なのである。

 ところで、万法を主語とするような用法は、『正法眼蔵』の他の箇所には、さしあたっては見当たらない。とりあえず、この文は迷悟の説明ではなく、道元による迷悟の定義だと考えて、後の段での説明を待つことにしたい。ただ、迷悟とは、仏道において行じられていく方向の違いであることが、両者に使われる〈修証〉という言葉に反映されている。

 二節の前半〈迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり〉であるが、ふつうは「悟り」を一節の道元の定義のようには考えない。何か悟るべき内容、悟った体験的境地が存在すると思って、その思い描いた悟りを求めるのが、大体の人の理解であり、修行のありさまである。だが、〈悟に大迷〉とは、まさにそのような悟りに対する誤解である。それは五段の〈人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり〉とまっすぐ響きあう。また単純に〈迷〉ではなく〈大迷〉と重いのも、一般 に「迷」が、たんに煩悩に苦しむ状態とすれば、その「迷」に加えて、迷から悟へ向かおうとする努力が〈迷〉なのだから、二重に迷だということになる。もっとも、それは迷いが深いという意味ではなかろう。そもそも人間が仏道を歩もうとするとき免れぬ 姿が大迷なのだ、ということが次の道元の言葉からも察せられる。

〈悟りより先に、兎角おもひけるは、悟りの用にあらぬ と。さきのさまざまにおもふ、おもひのやうにあらざりけるは、おもひのまことあしくて、其のちからのなきにてはなし。〉《唯仏与仏》

 さとる前に思い描いたことは、すべて役に立たないが、それは思い方が悪く、力量 不足なのではない、一種の必然なのだ。では〈迷を大悟する〉とはどういうことか。これも頭で安易に、大悟とは、迷とは実は悟りに向かう努力だったと気付くことだ、と理解してすますことはできない。これでは、たかだか人間の気付き、知解の事柄になってしまう。

 (補論) あるいは悟りの状態を思い描いて求めるのが迷で、もともと悟りなどないのだ、という了解もありえようが、これは道元のいうことからもっとも隔たり、仏道ではなく虚無主義になる。このような誤解は、初段Bの〈まどひなく、さとりなく〉を証の言葉とするところからも出てくる。この段は、悟りとはなにか、迷いとはなにかという根本問題を説いているのであり、この箇所で悟りなどもともとない、というのは道元の発言意図を無にするものである。

 〈大悟するは諸仏なり〉は、初段の《全機》引用で見た仏道の究尽と、ぴたりと重なる。なによりも大悟する主体は諸仏であることを銘記したい。悟りはあるのだ。大悟の主体が諸仏であるということは、そのすべての行為・思考が迷であるほかない人間の実存の転としてのみ大悟があり、けっして人間の知解や経験ではあり得ないことを意味する。

   だから、それは特別な何かを得ることではなく、〈迷を大悟する〉つまり「迷」を根本的に明らかにすることである。このことはゴータマ・ブッダの悟りが無明(根本的迷)の存立機制を洞察し、その機制を反転することであったことと照応する。

 さて、すでになにほどか触れたように、この段は、ある種のアポリアを免れない。つまり、悟りを求めようと努力することが迷だと気付いた場合、それを中止するか、なんらかの方向転換を意図的に行わざるを得ない。しかし意図的に行うことは、いづれにしても自己を運ぶことを免れない。意図的ではない実存の転、それがどう可能か、すぐ後で、また四段以下で明らかにされる。

 二節後半は、〈さらに〉と畳みかけられて、〈悟上に得悟する漢〉・〈迷中又迷の漢〉と続く。両方とも〈漢〉で、人間のあり方である。〈迷中又迷〉とは、具体的にどういうことをいうのか。〈迷〉が、仏道を修する者がはじめに免れないあり方だったのだから、仏道とは無縁の人は、〈迷〉ということさえ自覚しないので、〈迷中又迷〉ともいえる。あるいは、悟りを自分が求めるという、それ自体が迷である修行において、自分は悟ったなどと有頂天になるのは、迷に迷を重ねることだろう。あるいは悟りを自力で求める迷的仏道においてさえ、そこで悟りではなく、名利を求めるとすれば、深く迷中又迷といわざるをえない。道元自身は、一般 の人というよりは、仏道に関わる人のあり方を「迷中又迷」と名ざしている。

〈いまの人は実を求むることまれなるによりて、身に行なく、こころにさとりなくとも、他人のほむることありて、行解相応せりといはん人を求むるがごとし。迷中又迷、すなわちこれなり。〉《渓声山色》  

 いつの時代も、内実がないのに、見かけや評判だけの「立派な宗教者」がもてはやされ、ぞっとする。では悟上得悟とはどういうことか。さとりの主体は、人間ではなかったが、得悟する漢だから人間だ。  その人間と仏の間の消息を《大悟》巻に窺ってみたい。

〈衆生の大悟は、諸仏の大悟を大悟す〉《大悟》という言表は、大悟が諸仏だけではく、衆生にも可能であることを、やや複雑な言い回しで示している。道元が〈諸仏の大悟を〉というのは、もともと衆生は覚っており、そのすでにある覚り(衆生の本覚)に目覚める(始覚)のだ、という思想を、根底から否定しているためであろう。だが、どのようにして衆生が諸仏の悟りを悟ることができるのだろうか。それについて、《大悟》で次のようにていねいに論じられている。

 〈今時人のさとりはいかにしてさとれるぞ、と道取せんがごとし。たとへば、さとりをう、といはば、ひごろはなかりつるかとおぼゆ。さとりきたれり、といはば、ひごろはそのさとり、いづれのところにありけるぞとおぼゆ。さとりになれり、といはば、さとり、はじめありとおぼゆ。かくのごとくいはず、かくのごとくならずといへども、さとりのありやうをいふときに、さとりをかるや、とはいふなり。〉《大悟》

 さとりを「得る」といえば、日頃は無かったのか、「来た」といえばどこにそれがあったのか、「成った」といえば、さとりの始めがあるのか。どれもまずい言い方で、「かる」というのだ、と道元はいう。〈かる〉は「仮る」であろうが、おもしろい表現である。道元の時代にテレビやラジオはなかったが、沢木老師はよく「悟りとは受信機である坐禅人が、宇宙と波長を合わすのである」と言われた。スイッチを入れれば像が現じるが、それは今はじめて出てきたのではない。スイッチを切ったからといって、なくなるわけでもない。スイッチを入れる時だけ現じるのである。しかし、それはもともとテレビの中に可能性として存在していたわけではない。電波とテレビはまったく別 物である。つまり衆生と諸仏とは異なる。衆生の中に諸仏になる可能性があるわけではない。またテレビは映じたからといって影像を所有するわけではない。衆生はさとりを所有できない。

 〈諸仏の大悟を大悟す〉は、それを人間が仮り続けるという仕方で、悟り続けることをいう。ひとがさとりを仮れば仏であるから、その修証を続ければ〈仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり〉《仏向上事》といわれ、それこそ、〈悟上得悟〉といいえる事態であろう。

 さて、ひとたび迷悟が定義され、それにさまざまの相があるということが語られると、つい悟り体験や、その浅深があるように思われる。三節はそれを否定する重要な指示である。  〈諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず〉とは、本当に仏である時には、自分が仏であるというような自覚・自己認識はないというのだ。さとりは衆生の所有物にはならないから、得たという手ごたえはなく、体験ではないから身に覚えはない。さとりは不覚不知である。自覚がないということは、事実がないということとは違う。さとりとは、およそ人間の覚知をこえた事態なのだ。  だが、いったい覚知されないことを、どのようにして大悟として確保していけるのか。それは知のことがらではなく、行だということを言うために説かれたのが《行仏威儀》巻であり、巻頭にこういわれる。

 〈諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり。行仏それ報仏にあらず、化仏にあらず、自性身仏にあらず、他性身仏にあらず。本覚・始覚にあらず、性覚・無覚にあらず如是等仏、たえて行仏に斉肩することうべからず。しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。〉

 仏とは過去に「悟った者」ではない。それを誤って、過去に誓願を立てて成仏し、いま他方仏土にいる報身仏〈報仏〉があると思い、また本来悟っている本性としての仏〈自性身仏〉、それが現にこの世に姿を現わした応化身仏〈化仏〉など、さまざまな仏概念が仏教教理として形成されてきた。あるいは『大乗起信論』では、本来すでに衆生心と心真如は一如であり、凡夫が悪心を覚知して止めるのを不覚、不覚に対して、心の初起を観察して心原を覚するのが〈始覚〉、その心原を〈本覚〉と説いた。中国禅宗に影響を与えたこれらの仏や覚りの分析的概念を、道元は、行仏と比べることができないと、すべて切って捨てる。それらは観念であり知解であるが、行仏は生身の私たちのあり方だからだ。

 おわりの(しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり〉の一言で、道元は様々な覚りを思い描かず、実際に行仏することへと促している。けっして「行仏は覚をまたない」ということを認識するためではない。だから〈行仏にあらざれば、仏縛法縛いまだ解脱せず、仏魔法魔に党類せらるるなり〉と、知解で終わらせることが即座に戒められる。道元が正法眼藏を説くのは、正しい知解を得させるためではない。行のない正しい理解などというものは害になるばかりである。今のこの分析や吟味も、それで終るなら意味はない。そのことが〈仏縛といふは、菩提を菩提と知見解会する、即知見、即解会に即縛せらぬ るなり。〉《行仏威儀》と加えられる。

 みずから覚すことがないことを、人は行ずることができる。その行、先取りしていえば只管打坐は、もはや修行ではなく、修証である。曹溪六祖と南嶽懷讓の問答で、「修証はなきにあらず、染汚することを得ず」と弟子の南嶽がいい、それに六祖が「ただこの不染汚、是れ諸仏之所護念、汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是」と答えたことを引用して、道元は〈汝亦如是のゆへに諸仏なり、吾亦如是のゆえに諸仏なり。まことにわれにあらず、なんじにあらず〉《行仏威儀》といっている。今、私が、あなたが、行じている只管打坐のところが、不覚不知のまま諸仏なのである。諸仏というのは、もはやそこに私もあなたも、特定の誰もないから「諸仏」なのだ。

 さとりが覚知でないことは、《辨道話》でも一人一時の坐禅の功徳のところに言及され、その結びは「そうではあるが、これらのことが当人の知覚に混じらせることがないのは、靜かな坐禅における造りごとのない直接の証だからである。もし普通 の人が考えるように修と証を別々にすれば、それぞれが覚知するはずである。もし覚知に混じるならば、証則ではない。証則には迷情が及ばないから」とある。人間の知覚や体験はどこまでいっても迷情を出ない。たしかに人間の狭い感覚閾・知覚閾を訓練して広げる方法はあり、ヨーガや気巧はそのひとつであろうし、変性意識とか超常体験といわれるような特別 な覚知もありえようが、さとりはそのようなことではない。このことを中国の祖師たちは、例えば恵可が「心がもし無覚無知ならば、この人は法を知るのである。・・心がもし不識不見ならば、名付けて法を見るとする」というように否定辞で示したが、道元はそのまま直接説いたのである。

 二段の最後に〈しかあれども証仏なり〉とあるのは、覚知されないさとりで、おぼつかなくはあるけれども、という意味であろう。〈仏を証しもていく〉は、「本来仏である」というような本覚思想を含めて、悟りが存在論的事実だとか、一時の体験だという見解を否定し、証は、どこまでも行じられていくさとりであることを示している。私たちにできることは、ただ仏を行ずることであり、「行を迷中に立て、証を覚前に得る」『学道用心集』(三)坐禅だけである。