五節、懷弉の承当

 初期著作の中でも、最も開悟を迫る言葉が多いのが『随聞記』である。すでに俗弟子の楊光秀に《現成公案》を書き与えて、さとりが開悟体験ではないことを示した道元が、いったいどうして、そのようなことを言ったのか。それは懷弉に法を伝えることに賭けた道元の一種の策略ではあるまいか。

 (註)懷弉は道元より二つ年長で、天台・法相の学を修めた後、証空上人について浄土教を学び、また多武峯に登って日本達磨宗を継いだ覚晏に師事して修行し、印可を得ている。彼は、帰朝して間もなく建仁寺に仮寓していた道元を訪ねてきたといわれる。再び文暦元年、正式に興聖寺に入門した。

 懷弉が弟子になってからは、かつて一度なされた公けの説法は止まった。その五年間途絶えていた示衆が再開されるのは、『随聞記』が擱筆された暦仁元年である。その間の道元の教えは『随聞記』に細かく記録されているが、それは懷弉との問答が核になっている。懷弉一人のためにその期間が費やされたといってもいいのではなかろうか。なぜなら、師のつとめは「承当」する一箇半箇を打ち出すことであり、それによってはじめて自分の得法の意義も成り立つからである。その懐弉の承当を、編年体と見なされる『随聞記』長円寺本に辿ってみたい。

 『随聞記』巻一から巻三までは、次のようにまるで開悟の体験があるかのように教示される。

「仏道を学ぶ人はたとえ悟りを得ても、今が最高だと思って、道を行ずることをやめてはいけない。」(巻一)

「人々は皆法を悟るべきである。ただ精進するか怠けるかによって道を得るのに速い遅いがある。」(巻一)

「この語を聞いて、仏道を学ぶ人も頓に悟りに入るがよい。」(巻二)

「これほどの心を、一度も発さないで、仏法を悟る事ができるはずがない。」(巻二)

「今、各々もひたすらに思い切って坐禅してみなさい。十人が十人とも道を得るはずである。」(巻二)

「自分の心がけも、又前から学んできた教えの考え方を捨てて、ただ今見ている祖師の言葉や行いに、だんだん気持ちを移していくのである。このようにすれば、智恵もすすみ、悟りも開けるのである。」(巻三)

 これらでは、熱心に坐禅修行すれば、だれでも必ず悟りを得る、と説かれているようだ。だが「悟りを開く」とはどのようなことか。これは実はあとで撤回される言葉なのだ。では、なぜこの時期にかりそめにも開悟が要請されたのか。先に見たように、法を継承していくためには自覚としての「承当」が必要である。承当するためには、如浄や道元のような命がけの坐禅が要る。しかし、開悟という具体的目標がないところでは、人はなかなか真剣に坐禅できない。しかも懷弉は達磨宗で印可を得た者として、より深い開悟を期して道元に参じた筈である。そこで方便として、初めは開悟の要請がなされたのではあるまいか。

 三巻以降は、先に勧められた語録を見ることさえも禁じられる。

「(わたし道元は)その後、語録等を見ることをやめて、ひたすらに打坐して大事を明めることができた。」(巻三) 「たとえ、以前は教学において才能があったとしても、皆わすれてしまうのはよい事である。いわんや、いま学ぶ事は、けっしてあってはならない。禅宗の語録等も、とりわけ真実に仏道を学ぶ者は見てはならない。」(巻三)

 経典や語録などを見ないで、なすべきことは、ひたすらな坐禅だけだ。

「一念で生死の輪廻を断ちきるような重大なことが、どうしたらできるであろうか。もし、このような気持がある人は、賢くないとか劣っているとかは関係なく、愚鈍とか悪人とかも関係なく、かならず悟道するはずである。」(巻三) 「そうであれば、明日死ぬかもしれない、今夜死ぬかもしれないと思い、死ぬような目に会ったと思って、熱心に努力し、志を励ますならば、悟りを得ないということはないのである。」(巻三)

「只、この今だけ、私の命はあるのだ、死んでしまわない先に悟りを得ようと、熱心に思って仏法を学ぶならば、一人も悟りを得ないということはあるはずがないのだ。」(巻三)

ここでは、熱烈に命がけの坐禅をせよ、と何度も迫っている。命がけの坐禅とは、質も大事だが、長さもまた大切だ。道元は如浄のところで「晩は十一時まで坐禅し、明け方は午前二時半、三時くらいから起きて坐禅した」(巻三)と話す。壮年の道元と懷弉や門弟たちの間に立ち篭めていた気迫が察せられる。懷弉はその著作『光明蔵三昧』に多くの経典禅録が引用されていることからも推し量 られるように、仏教知識が豊富なため、道元はあえて策略として一時は語録を見ることも禁じて、「意識の根を坐禅によって切断し、知解の方向に向かわないようにさせる」坐禅を強く要請したのではないだろうか。  しかし、ここで道元が「悟」といっているものは、懷弉をはじめ大方が期待するようなものではなかった。第三巻の終り近くには、開悟は、実のところないのだという、次のような重大な教えが開示される。

「坐禅はそのまま仏行である。坐はすなわち一切何もしないことである。これこそが自己の正体である。この外に、別 に仏法として求めるべきものはないのである。」  

 これ以上に雄弁に只管打坐の内実を言い当てた言葉はないと思われるが、かつて道元も如浄の最初の示しに、すぐには得心がいかなかったように、懷弉もその当時はこの真意を掴めず、なお体験的悟りを求めたようである。  第四巻になると、悟道・得道と並べて、身を仏法に入れ、行を続けることのみが大事で、むしろ修行の果 を求めないことが説かれ始める。

「仏道を学ぶ人は、身心を放下してひたすらに仏法に入るがいい。」(巻四) 「今、仏である祖師の行を修しようと思うならば、目的として予期することもなく、得るところもなく、得になることもなく、昔の聖者の道を行じて、祖師たちの踏み行なったままを行ずるべきである。何かを求める心をやめ、仏になることも望んではならない。・・・一生をこのように行じてゆくならば、これを昔の人も打破漆桶底というのである。」(巻四)

 明らかに説示の調子が変化している。漆桶の底をぶち抜くという、聞くからにがらっと実存転換をする開悟を思わせる言葉が、一生涯坐禅することだと強弁される。  そのような強弁が通るのは、「師がもし、仏というのは蝦蟇やミミズだといえば、蝦蟇ミミズを仏と信じて、日頃の知恵を捨てるのである」(巻二)と、師たる道元に対する絶対的信を担保にとっているからである。この頃には再び聖なる経典をも大切にすることが教えられる。

 「仏である祖師の遺された行いであり、聖なる経典の道理でありさえすれば、それに依って行ずるがよい。」(巻四)  

 そして嘉禎二年、懷弉が首座になる直前の示衆にはこうある。

「昔、倶胝和尚に仕えた童子などは、いつ学んだとか、いつ修行したとかはっきりせず、覚えていなくても、長年修行した長老の側にいたので、悟道した。坐禅も、自然に長いことすれば、忽然として重大事を明らかにして、坐禅が仏道の正門である事を、知る時もあるだろう。」(巻五)  

 実は「倶胝一指」のこのような解釈は、いかなる語録にもない。自ら撰した真字『正法眼蔵』にも、指を切られた倶胝の童子が首を廻らせた時、「師、却って一指を竪起す。童子、忽然として了悟す」と記述しているのだ。けっして坐禅を久しくして、師に随侍したから、自然に悟ったのではない。むしろ師がいつも誰にでもやっている一指を立てるということを、つい真似をして指を切られてしまった後、再び師の指を見た時、悟ったのだ。ところが道元はそれをこうひっくり返して見せた。懷弉はこの指示の結びで、大事を畢了するというのは、悟り体験をするのではなく、坐禅をすることそれ自体であり、開悟を期すという教えが方便であったことを、いやでも自覚させられたはずである。

 その年の十二月、懷弉は首座になり、道元に代わって修行者に説法した。(巻五)  『随聞記』のその後の説示は、自分の開悟のためにではなく、仏道のために生涯に亘って坐禅し続けることが強調される。

「仏道を学ぶ人は、自分自身のために仏法を学んではいけない。ただ仏法のために仏法を学ぶべきである。」(巻六) 「よく聞きなさい。仏道修行の功績として、代わりに善い果報を得ようと思ってはならない。・・このように、心に願い求めることがないならば、それがとりもなおさず大安楽なのである。」(巻六)

「エゴを離れるというのは、自分の身心を捨てて自分の為に仏法を学ぶことがないことである。ただ仏道のために学ぶべきである。」(巻六)

「又、諸仏菩薩に、喜んでもらえるだろう思い、仏になり菩提を得ようと思うから、名誉や損得の心がまだ捨てられないのである。ここまではまだ百尺の竿の先を離れないで取り付いているようなものだ。ただ、身心を仏法に投げ捨てて、さらに悟道とか得法ということさえも、望むことなく修行していく、これを汚されることのない修行者というのである。」(巻六)  

  仏道に求めるところがあってはならないというのは、達摩が説いた四行の一つ、無所求行として、禅の根本的な主張であり、道元も『学道用心集』で力説している。しかし、これは実際にはとても難しいことだ。

 だが、人間のためには全くならないことを、人間がすることができるというのは、見方によっては最高のあり方ではあるまいか。それにひきかえ、自分が修行してどんなに素晴らしいと思える境地(魔境)に達したとしても、その努力や動機が、自分の悟りの為であれば、さもしい人間根性を少しも出たものではない。それは近年の最終解脱を目指すと自称する宗教集団によってもはっきりさせられているのではないか。人間が求めることは、「悟り」でさえもエゴを一歩も出ない。

 だから、ここで開悟、得悟ではなく「承当」が説かれる。承当は、盲目的坐禅を超える身心の頷きである。

「選り好みの心を捨て去れば、ただちに承当するのである。・・・自分自身が、仏道を完成する為に、仏法を学ぶことがあってはいけない。ただ、仏法の為に仏法を行じていくのである。たとえ千万の経典や論書を学ぶことができ、坐禅によって床が抜けてしまっても、この心がなければ、仏である祖師の道を学ぶことができない。ただ、かならず身心を放下して、仏法の中にあって師に随って従来の考えがなくなれば、すぐに直ちに承当するのである。」(巻六)

 ここで、道元は方便の教えをやめて、菩提や悟りをも求めるべきでないという本音を明らかにする。それにしても坐禅を床が抜けるほどしても、その志の方向が間違っていたら、ダメだといわれていることはよくよく注意すべきである。ただ坐禅をしさえすればいいのではない。そこが一番問題なのだ。

 これほど道元が口を酸っぱくして悟りを求めてはいけないと言っても、まだ懷弉は、承当しなかったので、次のような質問が出て来る。

「ある日、懷弉が問うて言う、禅道場での勤めるべき修行の有り様というのは、どのようなものですか。道元が教えて言う、只管打坐である。ニ階の上であろうと、高い建物の下であろうと常に坐禅する。人と交わらず談話をせず、聾者のように、唖者のようにして、常に独坐を好むのである。」(巻六)

 これは再び念を押されてこう教示される。

 「教えて言う、道を学ぶ際の最重要なことは、坐禅こそが第一である。宋の多くの人が得道するのは、皆、坐禅の力である。一字も知らず、才能がない愚かな人も、坐禅ばかりをするならば、長い間修行している人や、聡明な人よりも勝れることができる。そうであるから、仏道を学ぶ人は、只管打坐して他の事にかかずり合ってはならない。仏である祖師の道はただ坐禅である。他の事に従ってはならない。」(巻六)

 これは二巻の初めの「真実の行というのは、ほかでもない、今の禅道場の根本とする只管打坐である」以来、幾度も云われてきたことである。しかし、なお懷弉は、語録公案を見て、心理的な悟りを開くことにこだわっていた。そこでこの言葉を聞いても、まだこういう質問をする。

 「懷弉が問うて言う、打坐と公案を看ることと並べて学んでおりますと、語録公案等を見る時には、百千に一つは、少しは心得られはしないかと思うことも出て来ます。坐禅は、それほどのこともありません。こうであっても、まだ坐禅を好むべきでしょうか。」

 この感慨から見れば、懷弉の坐禅には特別な体験、ハッとするような覚醒はなかったと思われる。道元もそうである。それではいかにも不確かなことに思われる。しかし、だからこそ本物なのである。仏の境界が不可思議であるというのは、人間には手ごたえがないからだ。だが、香厳が竹音を聞き、霊雲が桃花を見たような体験が、人間には欲しいのだ。ああ、そうかと身をもって体験して得心したいのである。これだけ道元から只管打坐のみと教えられ続けても、懷弉はまだ公案による悟りを得たかったのである。この質問に道元はこう示す。

「語録や公案を見て、すこしばかり分かったと思うことがあっても、それは仏である祖師の道に、遠ざかる原因である。得るところもなく、悟るところもなく、きちっと坐禅して時を過ごすならば、とりもなおさず、それが祖師の道であろう。昔の祖師も公案を看ることと祇管坐禅を両方とも勧めたけれども、やはり坐禅を専ら勧めたのである。又、公案によって悟りを開いた人があるといっても、それも坐禅の功績によって、悟りが開ける原因となったのだ。本当の功績は、坐禅にあるにちがいない。」(巻六)

 ここで『随聞記』は終わっている。この念を押した教示で、懷弉はついに最終的な「承当」を得たと思われる。体験的開悟を期すという教えが、坐禅に親しむための方便であったことが頷かれ、終に法は伝わった。もっとも『光明蔵三昧』には本覚思想に後退した表現が多いが、それでも「若しわずかでも得るものがあるならば、修行と証果 と二つになるだろう」と無所得の坐禅が明らかにされている。ああ、分かったというようなことがない、ということが分かったのである。不知を肯ったのである。こういう承当、証の理解はあるし、必要なのだ。そのことを弟子たちがだれも理解しなかったので、『三大尊行状記』には、「道元が一毫衆穴を穿つという公案を示した時、懐弉は言下に大悟し、礼拝した」と書かれる始末である。これは、どれほど無所得無所悟が理解されないかを、実によく物語る。

 道元の弟子たちには、これを実際に身につけることが、殊に難しい。どうしてか。それは「初心の辨道は、とりもなおさず十分の本証を無為の地に得るのだ」(草案本『辧道話』)とか、「修証これ一等」『辨道話』の教えを聞いてしまうと、初心の辨道や一時の坐禅に納まりかえってしまって、身命を賭けるほどの切実な坐禅が、かえってできなくなる。やみくもにでも、必死で坐禅する五年十年が必要なのだ。命懸けの気力と体力を傾け、悟りを開くという仮の目標を設定してでも努めなければ、悟りを得たいという人間根性は払拭できない。

 その上で、その只管打坐において現じていることこそ、「さとり」であると身心でうなづくこと、承当が必要であるが、「大宋国の叢林にも、一人の師の集団の数百千人の中で本当に得道・得法する人は僅か一人か二人である」(『随聞記』巻三)とあるように、それができる人はごく少ない。道元門下で懐弉の他にいるだろうか。

 このように見てくると、あるいは、「何だ、得法・悟道とはそんなものだったのか」と、がっかり思われるかもしれない。しかし、自分のためにも、他人のためにも、およそ人間のために役に立たない坐禅を、一日に何時間もすることは、ほとんど気狂いのようなものであり、普通 にはなかなかできないのである。それが本当に身について分かるのは、ごく稀なことなのだ。

 沢木興道師は、壮年の時、空き寺を借りて門を閉じ、如浄の許で坐禅した道元のように、朝は二時から晩は十時までたった一人で坐禅ばかりをして、あしかけ三年過ごしたという。その間訪ねてきた人はたった二人。その生活は気狂いか仏か、というようなものである。だが、その打坐があるからこそ、弟子の内山興正師は、一日十四時間の坐禅を一月に五日して十年を過ごし、いまやその弟子たちがヨーロッパや北米で、その打坐を継承している。同じく沢木興道師の弟子である弟子丸泰仙師は、言葉もままならないフランスを中心に坐禅をして回り、いまや夏にはヨーロッパ中から五千人もの人が、フランスの本部に坐禅をするために集まる。人の為には何もならないことが、やがて巨大な力となって世界を動かすのだ。

 以上によって、初期の道元における開悟、得道の要請は、一種の方便であることが明らかにされたと思うが、かつての懷弉と同様に、それでも、香厳聞声や霊雲桃花は、体験としての開悟ではないのかという疑念が、今でも根強くある。

 たしかに道元は、それを「聞くに豁然として大悟す」《谿聲山色》、「忽然として悟道す」《行持下》、「桃花をみて悟道し」《仏経》と引用している。しかし、あくまでそれは引用であって、真字『正法眼藏』には、香厳については「忽然大悟」、霊雲については「見桃花悟道」と書かれており、道元はこれに依拠して教示しているに過ぎない。

 『辨道話』では、香厳・霊雲について、「昔から今まで桃花の色を見て仏心を明らかにし、石が竹に当たる声を聞いて道を悟った当人たちは、少しも疑いを差し挟まずに坐禅辨道したのであり、ただちに辨道する自分以外に誰もいないという事を知るがよい」と答えられている。「聞声悟道」の一時より、「疑いを差し挟まずに坐禅辨道した」ことに重点がおかれ、それは三十年もの状態であり継続である。それが心理体験ではないことは「見色明心や聞声悟道のようなことも、やはり身を得るのである。そうであるから思慮や知的見解をひたすら捨てて只管打坐すれば・・」(『随聞記』巻三)に明らかである。とりわけ開悟にこだわった懷弉の最初の説法の後の小参には、「見ないか、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明めた。だが竹に利鈍があり、迷悟があるだろうか。・・・ただ長い間、師に従った甲斐があり、弁道に勤めた縁があって、悟道明心したのである」(『随聞記』巻五)とあって、長年の坐禅弁道が要請されているのである。

 「悟は只管打坐だけであることを」(『永平広録』319)は動かすことはできない。  

 以上のように道元も懷弉も、師の懇切な教えによって承当することができた。そうではあるが、それは教えを教えとして理解したのでは全くない。坐禅が身について、そこから頷かれたのだ。仏法は分別 や言語を超える。

 それにもかかわらず、道元は、「語れば口に満ちあふれ、縦横無尽で果 てがない」(『辧道話』)といわずにはおれなかった。その湧き出てくる「さとり」の言葉は、真字『正法眼蔵』という周到な用意と、懷弉という聴き手を得て、『正法眼蔵』示衆として迸り出る。  だが、それは懷弉を説き導いた言説とはおよそ異質なものであり、ほとんど取りつくしまがない。それは言語を使いながら言語使用の法則を脱構築し、イメージや比喩を駆使しながら、理性で分からせる事を回避して、その事態を指事するという実に難しいことをしようとするからだ。その『正法眼蔵』示衆に、次章で私たちも参じてみたい。