四節、『辨道話』など初期著作の危うさ
道元はたえず自らの著作に手を加えており、現在見られる形は、必ずしもその奥書に記される年代の思想ではない。幸い、いくつかの草稿が残っており、若い時の道元の思想を知ることができる。いま初期資料を、『随聞記』が終わる頃、三十八歳までのものとすると、天福本『普勧坐禅儀』(二十八歳作、三十四歳浄書)、草案本《辨道話》(三十二歳)、『学道用心集』(三十五歳)、『随聞記』(三十六歳〜三十八歳頃)、真字『正法眼蔵』(序は三十六歳)、『永平広録』に含まれる頌古や法語の一部、『正法眼蔵』の二巻(三十四歳)等である。
『辨道話』(草案本)では、坐禅こそが仏法の正門であると宣言しても、なぜ正門なのか、ということについては、釈迦をはじめすべての如来と祖師が坐禅によって得道しているからだということしか言っていない。それでは門の奥にある悟りへの手段と間違われかねない。そして「悟りを開く」という表現が頻繁に現われる。だが、それは修行者への要請というよりは、むしろ坐禅への信を保証する他者の経験としていわれている。
「きちっと坐禅することを開悟の直接のあり方としたのである。西のインド、東の中国で悟を得た人は、このやり方に随ったのだ」、「深い迷いを掃い尽し、近い悟を獲得して、小さなことにこだわらず」、「坐禅によって道を得た」、「修行して、開悟するのである」、「坐禅以外のことで開悟したのも、皆以前の坐禅の力があるからだ」、「猟師や樵夫が、悟を開く」。
たしかに皆が坐禅によって覚りを開いたというのは、事実であろう。いまでも南方の上座部仏教でも、チベット仏教でも、行の基本は坐禅である。だが、道元は、坐禅とはそれ以上のもの、つまり戒定慧の三学の中の定でも、大乗の六度(布施・持戒・精進・忍辱・智恵・禅定)のなかの禅定でもなく、「仏法の全道」だという。だが、いかんせん、当時は道元自身にその理由を言語化する「道取」が熟していなかった。もちろん聴衆の未熟にもよる。だから、次のように信が押し付けられるのである。
「およそ諸仏の境界は不可思議である。思慮や意識の及ぶようなものではない。いわんや、信心のない智恵の劣る者が知ることができようか。ただ正しい信心を持つ優れた素質の者だけが、その境界に入ることができるのである。信心のない人は、たとえ教えても、受け入れることは難しい。」『辧道話』
ここに『辧道話』では、「承当」ではなく「信」を持ち出す理由が存する。これが、「道元の坐禅は信の坐禅である」という解釈の源である。そして、その信の内実が、坐禅の功績として次のように壮麗に叙述される。
「もし人が、ひとときではあっても、身と口と心において仏の印しを表わし、三昧において正しく坐禅するときには、宇宙全体がみな仏の印しとなり、限りない開けことごとくがさとりとなる。そのために、仏如来たちにおいては、もともとある法の楽しさを増し、覚りの道の荘厳を新たにする。そして全方位 に開かれている世界も、天上から地獄まであらゆる所にいる生類が、みなともに一時に身も心も浄く明らかになり、大きな解脱の心を明らかにして、本来の真実の姿が現われるとき、あらゆるものはみな正覚を悟り、万物がすべて仏の身体を使用して、すみやか悟りの境界を超えて、菩提樹の下に正しく坐禅して、同時にこの上ない説法の輪を廻し、究極的に人間の行為をやめる仏の知恵を宣言する。」
このように坐禅は仏法の全道と信じられるべきものであって、経典や公案などの言語表現への思惟は、要らないものとされる。
「この知的見解によって、ありもしない教えがまちまちに存在する。あるいは十二因縁の教えがあり、二十五の境界があると思い、声聞・縁覚・菩薩の三乗やそれに人・天を加えた五乗、有仏や無仏などの見解が尽きることがない。この知的見解を学ぶことが、仏法修行の正道と思ってはならない。それだから、今はまさに仏の印しである打坐によって万事を放下して、ひたむきに坐禅するとき、・・・大菩提を受用するのである。」
「ただまさに、最初に師に会ってからは、修行の仕方を問い質して、ひたむきに坐禅辨道して、少しの知解も心に留めてはならない。」
「また老いぼれた比丘が黙坐するのをみて、供養した信女がさとりを開いたのも、これは智恵によらず、文によらず、言葉を待たず、説法を待たず、ただ正信に助けられたのである。」
「経典を開いて見るのは、仏が頓と漸の修行の仕方を教えておかれたのをはっきりと知り、教えの通 りに修行すれば、かならず証を得ることができるようにということである。いたづらに思慮や分別 を使って、菩提を得る働きになぞらえるのではないのである。」
さらに天福本『普勧坐禅儀』では、自分自身のための修行と思われるような表現が用いられる。すなわち「今いう坐禅は大安楽の法門である。もしこの意味を体得すれば、自然に肉体が軽安に、精神が爽やかに、正念が明らかになり、法の味いによって心が養われ、思いがひっそり静かに清らかに楽しくなり、日常も本来の真のあり方になる」。この天福本『普勧坐禅儀』が、まだかなり宗さくの『坐禅儀』と似ていることは、指摘されている通 りである。
(註) 『普勧坐禅儀』は、『辨道話』に「すぎぬ る嘉禄の頃のころ撰集せし」とあって、帰朝後すぐ書かれたが、それは現存しない。序には、宗さくの坐禅儀は新条を加えており誤りもあると述べられている。その初稿から六年ほど後、天福元年に書かれたものが天福本であり、さらに『正法眼蔵』《坐禅儀》とよく一致する今の流布本が書かれた。流布本には先に引いたような宗朝禅を思わす表現はすべて改められている。
このように《辨道話》で要請されることは、道元の言葉を信じて坐禅することであり、自発的な疑問を抱くことや、覚りへの知的求道は無用とされている。 しかし、人々が禅宗に期待したのは、浄土教でももっぱら強調される「信」ではない。むしろ、師匠にも釈迦にも騙されることのない、自己自身による確証である。七十五巻本『正法眼蔵』には、もはや信は主題的には説かれない。信では、仏法は伝わらないからだ。
『辨道話』は、分かりやすいため一番人々に親しまれている道元の著作だが、それはあくまでも最初の法の宣揚であり、それをもって道元の教えを代表するわけにはいかない。
『辨道話』が書かれて五年後に興聖宝林寺が創立される。その年になる『学道用心集』は、一般 の人に対してではなく、そこに集まってきた修行僧に対して、修行の用心を説いたものであるが、そこでは、それまでの坐禅のみの姿勢が変化して、師に参じ法を聞くことが明確に要請されている。
「右、身心を選び定めるのに、自ずから二種のあり方がある。師に就いて法を聞くことと功夫坐禅である」(十)
なぜ、正しい坐禅の仕方を実践するだけではいけないのか。それはこの時期にあっては正師について悟りを開くという、一般 に禅に期待されているあり方が、「師の邪正に従って、悟に偽と真とがある。」(五)と、容認されているためだ。
そして意外なことに、体験的開悟がここでは要請されるのである。
「その後、身心を脱落して迷悟を放下する。・・・修行者よ、試しに意識の根を坐禅によって切断してみよ、十中八九は忽然として見道することができる」(九)
なんと「見道」という見性に似た言葉が使われるのである。この見道が迷悟の悟ではないことは明示されているが、「忽然として」とあり、その前には「身心を脱落して」とあるので、当時の修行者には、体験としての悟りと聞こえても無理からない。それに呼応するように、体験として悟りを得て仏になるという宋代禅宗の常識が、次のように説かれている。
「自らを制御する英雄釈尊は菩提樹の下に坐して、明星を見た時、忽然として頓に無上の道を悟った。その悟りの道は、声聞や縁覚の及ぶようなものではない。仏だけが自ら悟ることができ、仏が仏に伝えて今に至るまで断絶することがない。そのように悟りを得た者はどうして仏でないことがあろうか」(九)
では、いったい師の道元は、どのように弟子を指導して悟りを得させるのか。これまた驚くべきことに、この時期には、『普勧坐禅儀』『辨道話』では経典語録の詮索は無用だと言われたにもかかわらず、公案の参究も取り入れられ、それによって悟るよう指示されている。例えば、無字の公案は、理性では理解できないことを強いて問い詰め、意識を捨離する手段として使われる。
「趙州が僧に問う。犬に果たして仏性があるかどうか。趙州がいう無と。無の字の上において推し量 ることができるか、抱え込むことができるか、全く掴みどころがない。ひとつ、試しに手を放してみよ。ちょっと手放して看てみよ。身心はどうか、日常生活はどうか、生死はどうか、仏法はどうか、世法はどうか、山河大地・人畜家屋はつまるところ、どうかと。そのように看来り、看去れば、自然に明らかなまま、動と靜の二相は生じない。」(八)
初期の法語には「この一段の公案」(法語二、四)の参究要請があり、体験的開悟と受けとられかねない「新条特地」(同五)という表現も見られる。天福本『普勧坐禅儀』には「長い間の輪廻は疑いの一念による」ともいわれる。疑団の氷解が悟りとして狙い定められるとも読める。ここでは、坐禅は直ちにさとりではなく、むしろ悟るための手段である。したがって無所得・無所悟ではないことは、次の下りで確かめられる。
「そのやり方の決まりは、意識の根を坐禅によって切断し、知解の方向に向かわないようにさせる。これがつまり初心を誘引する方便である。その後、身心を脱落し、迷悟を放下する、これが第二の様子である。」(九)
「動静二相了然として生ぜず」は、宋代見性禅の主唱者大慧宗杲の普説(大慧録巻十七)の言葉である。坐禅で最初に期されるのは、意識を外に働かせず、考え事もさせないような意識の止であり、具体的に「念が起これば、すぐに気付く、そのことに気付けばすぐに無くなる。それを長い間続け、そのきっかけとなるようなものが無くなれば、自然に何も意識の働きがない一の状態になる」と説かれ、「その定力を護持し」「定力に任す」(天福本『普勧坐禅儀』)などと自力と思われる表現もある。
このような指示は、ほとんど宋朝禅と変わらない。つまり道元は、弟子の指導方法としては、しばらくは、中国で見聞した臨済禅のやり方を踏襲したのであり、それは又、当時の修行者が新しい禅に期待したこととも合致したのだろう。
宋代見性禅の主流であった臨済禅の見性は、『大乗起信論』などに説かれる、もともと誰の心にでも具わっている真如(本覚・仏性)を前提して、それを覆う妄念の起こるところを自覚する(始覚)というよりは、身体と精神を極限状態に追い詰め変性意識を起こすことをいう。
天福本『普勧坐禅儀』や『辨道話』では、その宗朝禅の影響というよりは、起信論的本覚を思わせる表現を用いている。本覚と見誤れる表現は『普勧坐禅儀』では「道はもともと円かに通 じている。どうして修行や証りが要るだろうか」とあり、『辨道話』では「私たちは、無上の菩提が欠けているのではない」や「仏法の中に心性の大総相と云は・・・」などがある。「心性大総相」というのは『起信論』に「心真如とは、つまり是は一法界であって、大総相であり、また法門の体である」とあるのに由る。『学道用心集』でも「仏道を信ずる者は、自己はもともと道の中にあって迷ったり惑ったりせず、妄想せず、逆さまな考えをせず、増減なく、誤謬もないことを信じなさい」(九)と本覚と間違われそうな内容への信が要請されている。
たしかに、この表現と体験的悟りの前提になっている本覚思想を区別 することは難しい。これに加えて、『三大尊行状記』には、道元が若い日に天台宗を学んでいる時、「この教えの大綱は、本来本法身、天然自性身であり、顕密の教えもこの理論を出ない。だが大いに疑いがある。本自ら法身法性ならば、諸仏はどうしてわざわざ発心し修行をしたのか」と、三井の僧正に質問して答えてもらえなかったと記されることから、この大疑団の解決が道元の大悟であり、したがって本覚思想が道元の立場だという見解が多い。だが、この伝記に信憑性はない。ここに詳述する余地はないが、本覚思想こそ道元が批判した当のものである。
ところで、いったい、自分が公案によって覚ったわけでもない道元が、本当にそのような指導を続けたのだろうか。その問題を次に見たい。