二節 身心脱落とはなにか

   如浄との相見の後、道元は個人的に如浄から法を聴く許可願いを出している。この間、五月二七日に、同行の師・明全は一週間ほどの病気の末に亡くなっている。いつ自分も病に倒れるかもしれず、老年の如浄もいつまで住持であるか分からないという不安が、道元の胸に広がっていたのだろう。

 次の『宝慶記』の文面 は、生死の問いを未解決のまま抱えた道元の切羽詰まった思いが、ひしひしと伝わってくる。  

「外国遠方から来た拙い私が、願うところは、時候に拘わらず、正装をせず、頻繁に居室に伺い、愚問を聞いていただきたいのです。無常は迅速であり生死は重大事です。時は人を待ちません、聖人を見過ごしたらかならず後悔するでしょう・・・本師である堂上大和尚・大禅師さま、大慈悲をもって哀れんで、道元が道を問い、法を問うことを聴して下さい。」(一)

 言葉は丁寧だが、いつでも疑問を抱いた時に、すぐに答えてほしいという、びっくりするほど率直な特別 扱いの願いである。

 そして〈好きなように奥の居室に出入して、尊いお姿を礼拝し法をきく〉《梅花》道が開け、初めて居室に参じたのが、七月二日。私たちに残された問答の記録は、謎かけのような「禅問答」でも、叱咤や棒喝の応酬でもなく、普通 の分かりやすい言葉であり、道元がどのような問いを、どう頷いていったかがよく追認できる。今は他は一切省いて、核心である身心脱落をめぐる問答を見てみたい。第十五問である。

「堂頭和尚、示していう。参禅は身心脱落だ。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経はいらない。ひたすらに打坐するだけだ。 拝問する。いったい身心脱落とは何ですか。 堂頭和尚、示していう。身心脱落とは坐禅だ。ひたすらに坐禅する時、五欲を離れ、五蓋を除くのだ。 拝問する。もし五欲を離れ、五蓋を除くというのなら、それは教学者の話すことと同じです。つまり大小乗の修行者であるのですか。・・・」(一五)

 参禅は身心脱落であるという如浄の教えに対して、道元は意外にも「身心脱落とは何か」と重ねて尋ねている。その疑問は、「参禅」というものが、何か公案をめぐって師と問答する「入室参禅」だという先入見や、「身心脱落」という言葉が、その語感からして身心がガラッと転換するような特別 な体験を想わせるところから出たのではなかろうか。

 それに対して、「身心脱落は坐禅だ」と、如浄は又、ほとんど同じ答えを繰り返し、道元の質問に神秘的体験への期待を嗅ぎ取るかのように「ひたすらに坐禅する時、五欲を離れ、五蓋を除くのだ」と、説明を加えた。

 五欲とは色声香味触の感覚的欲望、あるいは財・色・飲食・名誉・睡眠の欲であり、五蓋とは貪り・瞋り・メランコリー(昏沈)・ハイ(掉挙)・猜疑心である。道元は思わず、それでは大小乗の教えと同じではないか、と難じた。五欲、五蓋を離れることは小乗の修道論の基本であり、大乗でも教学中心の天台止観で説かれることである。天台宗の比叡山で修行し、天台智ぎに対して「独り智者禅師だけが最も勝れている。まさに空前絶後というべきだ」(『宝慶記』二八)と評した道元が、その著作の箇所を知らないはずはない。

 (補論) 小乗経典でも最初期の『雑阿含』偈誦では、ゴータマ・ブッダが正覚を得た尼連禅河のほとりでの描写 として、五欲や蓋を離れることが解脱であると、こう説かれる。 「愛・恚・睡眠覆これらは皆已に離る。是の如きを多く修習せば、五欲を度ることを得。亦た第六海に於て悉く彼岸に度ることを得」雑阿含1093=SN4・3=別 訳31) ここで別訳は「よく五駛流を度り、並びに第六者を度る。是の如く坐禅を作し、よく大欲結を度す」と、それが坐禅のさまであることを銘記する。これはまだ止觀も四禅も四無色定も説かれない『雑阿含』偈誦に、もっとも古い解脱の描写 としてしばしば説かれる。「世間に五欲有り、心法は第六と説く。彼の欲に於て欲無くば、一切苦より解脱す。是の如きは苦より出づ、是の如きは苦解脱なり。汝の問う所の解脱は彼れに於て滅盡するなり、と」雑阿602(=SN1・3・10=別 訳177)、「能く五蓋を断じ、五欲を棄捨して五根を増上して修せば、五分法を成就し能く駛流水を渡り、比丘たるの名を得」。(別 訳雑阿含140=雑阿1002=SN1・1・5) 大乗では、例えば、『天台小止観』二章で五欲、三章では五蓋を除くことが説かれる。 「いうところの欲を呵すとは、すなわちこれ五欲を呵責するなり。それ坐禅して止観を修習せんと欲せば、必ずすべからく呵責すべし」(二章) 「いうところの蓋を棄てよとは、いわく五蓋を棄つるなり。一に貪欲の蓋、二に瞋恚の蓋、三に睡眠の蓋、四に掉挙の蓋、五に疑の蓋なり。」(三章)

 大乗教学でも「三界唯心」とか「悉有仏性」といった禅宗に影響を与えた教えではなく、古い修道論で説かれることが身心脱落だ、と如浄は言うのである。違うとすれば、天台止観では、例えば「禅を出るときも、そこで心から焼香し、礼拝し、懺悔し、戒を誦え、また大乗経典を誦しなさい」(『天台小止観』第一)などと、坐禅以外にも様々な行があるのに対して、坐禅のみという点だけである。五欲、五蓋を離れよという答えから推察すれば、『如浄語録』にあるように、如浄は「心塵脱落」といったに違いない。でも、それでは、神秀の北宗禅と同じになってしまう。 道元にとって、如浄がそういう筈はない。そこで道元は「身心脱落」と聞いたのである。

(註) 中国の禅宗は六祖の時に慧能の南宗と神秀の北宗に二分された。南宗の立場からいえば、北宗禅は「身は是菩提樹、心は明鏡台の如し、時々に努めて払拭して、塵埃を惹かしむる勿れ」(『六祖壇経』)という偈に表わされるような習定主義で漸悟であり、それに対し主流となった南宗禅は、大小乗を越えた上乗一心の禅で、頓悟であるとされた。

 だが、それにしても教学と同じ内容が禅宗の教えであるはずはない、という不満が顔に表われたのではなかろうか。それに如浄はこう答える。「堂頭和尚、示していう。祖師の子孫は、一方的に大小乗の所説を嫌ってはならない。仏道を学ぶ者として、もし、如来の聖なる経典に背けば、どうしてわざわざ仏である祖師の子孫であるのだろうか。」

 如浄は道元の予想とは裏腹に、大小乗の教説と同じく五欲・五蓋を除くことが身心脱落だという。道元は驚き、動揺したに違いない。それはある蟠りとして、深く道元の心に根を下ろす。そして、本当の確信に至るまで、さらに問答を重ねなければならなかった。なぜなら、この問答の終わりには道元の礼拝はなく、その時、即座に「身心脱落」を首肯したのではないからだ。

 それどころか道元はさらに、「近頃の疑問に思う人々は、貪瞋痴の三毒や五欲もすべて仏法であり、それを取捨するのは小乗だというが・・・」、と食い下がる。それを如浄は外道だと一蹴している。現代でも、あらゆる人間の自然の営みは仏法であり、寝るのも仏法、怒るのも仏法という類いの禅者や、ニューエイジ宗教のラジニーシ(インド人でバグワンとも和尚とも称し、さまざまな冥想を取り入れた宗教を作り、北米にも進出するが、国外退去を命じられ、一九九〇年インドで没)のような人が多いのだから、当時の日本達磨宗の人々などがこう言ったとしても不思議ではない。

 さて、この問題は、再び第二十九問で取り上げられる。

「堂頭和尚、慈しんで教えていう、仏である祖師の子孫は、先ず五蓋を除き、後に六蓋を除くのである。五蓋に無明蓋を加えて六蓋とする。ただ無明蓋だけを除くのも、つまり五蓋を除くのである。五蓋を離れるといっても、無明蓋を離れなければ、未だ仏である祖師の修証に到らないのである。」

 この説示を聞くに及んで、道元の疑念に一筋の光がさした。無明こそ煩悩の源であり、十二縁起の最初に位 置付けられる生死の始源である。無明を滅して初めて生老病死を超える悟りとなる。ただたんに欲望を除き、平静な精神状態になるだけではなく、無明を除いて真実の知恵を獲得することが悟りだ、と道元は思ったに違いない。『天台小止観』にも智恵が、方便行ではなく正止観として、「もし正定を得れば、すぐに真実の智慧が生まれて、永く一切の生死を離れる。」(六章)と、説かれる。そこで道元は、感極まって熱烈に問う。

 「私道元は、すぐに礼拝し、感謝して拝し、手を胸の前に組んでいう、今まで、今日和尚が指示して下さいましたようなことをお聞きしたことがありません。こちらの各々の老師・長老・雲水・兄弟、どなたも知らないし、また説かれたこともありませんでした。今日、幸いにも、特に和尚の大慈悲を蒙り、突然に未だかつて聞かなかったことを聞けますのは、過去から備えられた幸いです。ところで、五蓋・六蓋を除くのに、いったいその秘術があるのでしょうか。」  

 ここではじめて、身心脱落にかかわる「礼拝・拝謝」が出てくる。この礼拝感謝は、前の身心脱落話にしこりがあったからこそ、沸き出たのであろう。道元はこの如浄の説示に、やっと誰からも聞いたことのない教えを聞いた。無明を除くという一事こそ大悟に違いない。だが、どうしてそれを除くことができるのか。換言すれば、どうして身心を脱落するのか。そこに達摩がもたらした秘術があるに違いない。それを聞かねばならない。道元は勢い込んで「その秘術があるのでしょうか」と問う。如浄の答えはこうである。

「和尚、微笑していう。お前がこれまで、やってきた功夫は、いったい何をしているのか。これが、つまり六蓋を離れるあり方なのだ。仏である祖師たちは階級を設けない。直ちに根本を示され、まっすぐ伝わったことは、五蓋六蓋を離れ、五欲等をお叱りになることである。お前がひたすらに坐禅の功夫をして、身心脱落して来たのは、それが他ならぬ 五蓋五欲を離れる術なのである。この外に、すべて別の事はない、まったく一つの事もない。どうして二があり、三があるものか。」  

 如浄の微笑! ここに法が伝わった。釈迦牟尼仏の拈華の時は、摩訶迦葉が微笑したが、このたびは如浄が微笑する。喝でも打でもなく、柔軟な微笑の中に法が伝わる。思えば小乗・大乗の修行はいづれも四禅定、九次第定、五停心観など長い階梯があり、それ毎に、さまざまな止觀が配されて多くの三昧が目指されて最終的な涅槃はこの世ではほとんど不可能なものになっていた。ところが初祖達摩は、壁観がただちに究極の安心の法だと説いた。壁観とは身心を壁のようにする坐禅である。その同じところをまっすぐ如浄は示した。考えれば、財・色・飲食・名誉・睡眠等の欲望が、ころりと無くなることなどありはしない。けれどもそういう欲望に振り回されないで生きることはできる。只管打坐の只管とは、「ただひたすら」という副詞で、勇猛な坐禅をし続けることを意味する。だがこれは人格の陶冶とか、完璧な人間に近付くための修練ではない。人間がだんだん仏になるのではなく、人間をやめたところが仏である。「仏である祖師たちは階級を設けない」は、段階的修行において、だんだん悟りが深まるというあり方をきっぱり否定する。欲望に引き回されなければ、その時、無端にさとりであり、その功夫が坐禅である。  

 (補論) 『維摩経』で「不断煩悩入涅槃」と示され、『涅槃経』に「煩悩を断つは、涅槃と名づけず。煩悩の生ぜざるを、乃ち涅槃と名づく」と言われ、『辨道話』で「生死と涅槃をわくことあらんや」といわれることこそ、打坐における無端の悟りである。

 しかしながら、坐禅をし続けることがどうして無明を除くことになるのか、という疑問もあろう。それは無明をなにか根本的な業とか原罪のように考えるからではないだろうか。無明とは何か実体があるのではなく、私たちの感覚や思いによって発動する無意識の悪しき衝動であるに過ぎない。その感覚や思いが坐禅によって離れる。最初期の仏典には、さまざまな欲と蓋が無明にほかならないこと、とその解脱がこう説かれる。

「『・・・無明を破ること、正しい理解による解脱、を説いてください。』 師(ブッダ)は答えた、『ウダヤよ、愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、平静な心がまえと念いの清らかさ、ーそれらは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、ーこれが、無明を破ること、正しい理解による解脱であると、わたくしは説く。』」(スッタニパータ一一〇六、七)

  だから五蓋を除くことと六蓋を除くことに大きな差はない。

 如浄は道元の常日ごろの坐禅功夫そのものを、「身心脱落し来る」と直に指し示したのだ。命懸けで坐禅していた自分が、そのまま認められたのである。道元がひたすらに坐禅に打ち込んだのは、如浄の坐禅の気迫に触れて、それを見習ったのだ。 

(補論) 《行持・下》の最後に、如浄の坐禅について〈亡き師、よのつねに普説す、われ十九載よりこのかた、あまねく諸方の叢林をふるに為人の師なし。十九歳よりこのかた、一日一夜も不礙蒲団の日夜あらず。某甲、未住院よりこのかた、郷人とものがたりせず、光陰をしきによりてなり。掛錫の処在にあり、庵裏・寮舎、すべていりてみることなし。いはんや遊山翫水に功夫をつひやさんや。雲堂公界の坐禅のほか、あるいは閣上、あるいは屏処をもとめて、独子ゆきて、穏便のところに坐禅す。つねに袖裏に蒲団をたづさへて、あるいは巌下にも坐禅す。つねにおもひき、金剛座を坐破せんと。これ求むる所期なり。臀肉の爛壊するときどきもありき。このとき、いよいよ坐禅をこのむ。某甲、今年六十五載、老骨頭懶、不会坐禅なれども、十方兄弟をあはれむによりて、住持山門、暁輸方来、為衆伝道なり〉と記される。『如浄語録』には次のような上堂がある。 「昼夜脊梁を竪起して、勇猛にして切に放倒することなかれ。」 「上堂、今朝九月初一。板を打し普請して坐禅す。切に忌むかつ睡することを。直下猛烈を先とす。」  あるいは『随聞記』にはこう叙される。 「我、大宋天童禅院に居せし時、浄老住持の時は、宵は二更の三点まで坐禅し、暁は四更の二点三点より、おきて坐禅す。長老ともに僧堂裏に坐す。一夜も闕怠なし。其間、衆僧多く眠る。長老巡行、睡眠する僧をば或いは拳を以て打、或いはくつをぬ ひで打ち、恥しめ勧めて、睡を覚す。」(巻三)

 『宝慶記』には、如浄自身の言葉として「わしは三十余年、ずっと功夫弁道して、未だかつて止めようとしたことがない。今年六十五歳だが、老に至ってますます堅持している。お前もまた、このように弁道功夫せよ」(三八)と伝える。鬼気迫るほどの坐禅への傾倒、坐禅への殉死といってもいい。実際、翌年宝慶三年、六十六歳で如浄は示寂するのである。この如浄に応えて、道元も死に物狂いで坐禅した。その道元の様子を如浄はしっかり見届けている。

「堂頭和尚、慈しんで教えていう、わしはお前が僧堂の定位 置にいるのを見ているが、昼夜、眠らないで坐禅している。非常に結構なことである。」(『宝慶記』三七)

 なぜ、それほどの坐禅が要請されるのか。それは坐禅を離れ、自分の勝手をすれば、また無端に迷いとなってしまうからだ。そうならないためには、たえず坐禅するほかない。「兀地に礙えらる」『普勧坐禅儀』とは、自分勝手をしたくても坐禅がそれを妨げるということであり、普通 にしていて自分勝手にならない人間などいない。だからゴータマ・ブッダも坐禅をし続けたのである。

 それだから、僧堂で坐禅を熱心に勤める道元の生きざま全体が「身心脱落し来る」なのである。したがって冒頭に引いた《面 授》において「いささか身心を脱落したが」と、「脱落」が動詞として「身心」が目的語として使われるのは、この如浄の言葉を受けているのであって、悟り体験のことではない。ましていわんや、イメージ・コントロールや苦行による脳内物質(エンドルフィン、セロトニン、ドーパミンなど)の分泌で齎される変性意識、脱自体験とか絶対者と自己の合一体験とかではない。

 それが、仏である祖師であること、面 授の内実なのだから、「脱落したが、その面授を保ち続けることがあり、そのままに日本国に帰った」《面 授》という表現が用いられる。面授は、死ぬまで保任すべきものなのだ。

 鈴木格禅師は、癌が全身に転移し、人工肛門を装着しつつ坐禅をやり続け、亡くなる十日前でさえ、地方寺院に摂心指導に行くための切符を買って、只管打坐を勤めるつもりでいた。まさに面 授を保ち続ける勝れた見本である。

 ところで、第二十九問では、道元が拝謝し「和尚の大慈悲を蒙」ると述べたわりには、如浄が答えおわった時点での道元の応答や謝拝はない。まだどこか、十分には肯えないものが残ったのだろう。

 その後、如浄は仏である祖師の坐禅と小乗の坐禅の違いを説明して、衆生済度の為に「仏である祖師は常に欲界にいて坐禅弁道する。欲界の中においてもただ瞻部州だけを一番の因縁として、世々に様々な功徳を修行して、心が柔軟になることができるからである」(三一)と説いた。三界の最下位 が欲界、瞻部州(=南閻浮提)は、四州の内で釈迦が生まれた所であり、そこでこそ坐禅するという。道元は拝して「いったい、心の柔軟を得るとはどういうことでしょうか」(三一)と尋ねる。『天台小止観』では「柔軟心」は正止観のポイントのひとつだ。ところが如浄はこう答える。

「仏である祖師たちの身心脱落を弁肯するのが、つまり柔軟心である。」(三一)

 これを道元は六拝もして承っている。この拝はまぎれもなく道元が身心脱落という事態を了解したことを示す。「弁肯」とは分かって頷くことであり、道元も〈脱落を弁肯す〉《道得》などと使っている。しかしながら、事態をよりぴったり言い当てている用語は「承当」であろう。

 たとえば、《辨道話》に「知るがよい、わたしたちはもともと無上菩提が欠けているのではなく、永遠に受用しているのであるが、それを承当することができないために、やたらに知的見解を抱く習慣がつき」とあり、修行者においては、無上菩提は、すでに只管打坐において受用されているのであり、欠けているのは、それが根本的に自覚されること、承当だけである。次の承当の用法も同じところを示している。

 〈すでに恁麼保任する〔このように保つ、つまり坐禅をし続ける〕とは、諸法、諸身、諸行、諸仏がぴったり身についているのだ。この行法身仏は、おのおの承当という点で障げや引っ掛かりがあるだけである。承当に障げや引っ掛かりがあるために、承当という点で脱落する必要があるだけである〉《行仏威儀》

 また「いうまでもなく、人にはみな仏の知恵(般 若)の正しい種が豊かにある。ただ承当することがまれであり、受用するに至っていないということだろう」『辨道話』とあり、一般 の人と道元の違いは、悟っているかどうかではなく、「承当」しているかどうか、ということと、「受用」すなわち行じているかどうかである。

 承当とは、したがって、一生参学の大事が畢ること、何のために生きているかに最終決着がつくことである。如浄の許での生死の決着は、心理的覚り体験ではなく、如浄の身心脱落話に対する承当である。そのことを、道元は一度も「さとり」、あるいは「開悟」という言葉を使って表現してはいない。

 この承当によって何かが変わったわけではない。宋から帰国した道元が「空の手で故郷に還る」(『永平広録』四八)という由縁である。承当が特殊な体験ではないということは、次のような『学道用心集』の用法からもあきらかである。

「この身心をもって直ちに仏を証する、これが承当である。従来の身を転換しないで、ただ、師の説に随っていくのを、直下と名ずけ、また承当と名ずけるのである。」(一〇)

 (補論) 《仏性》でも、身心脱落が 只管打坐そのことであって、只管打坐して得る体験ではないことが、竜樹円月相としてこう示される。 〈(竜樹)尊者、また坐上に自在身を現ずること、満月輪の如し。一切衆会、唯、法音のみを聞いて、師相を観ず。・・・・愚者おもはく、尊者かりに化身を現ぜるを円月相といふとおもふは、仏道を相承せざる党類の邪念なり。いづれのところのいづれのときか、非身の他現ならん。まさにしるべし、このとき尊者は高座せるのみなり。身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、これ円月相現なり。〉  坐禅している姿が、人間を透脱し、身心脱落して円月相となっているのである。円相は、姿が消えた様ではなく、坐禅の姿そのものである。これこそが唯一道元が「さとり」ということである。

 すでに、大方が指摘しているように、この身心脱落の問答以外に、道元の生死の答えの決定的契機になったものはない。そのことは『正法眼蔵』にも『永平広録』にも『辨道話』にも偈頌にも明言されている。

 「上堂。仏である祖師の家風は坐禅弁道だけである。亡き師・天童がいう、『結跏趺坐はつまり真の仏のあり方である。参禅は身心脱落である。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経はいらない、ひたすらに坐禅して始めてできるだろう。』」(『永平広録』432)  

 考えれば、樹下に坐禅し、三衣一鉢で遊行したゴータマ・ブッダの仏道には焼香・礼拝・念仏・修懺・看経はあろうはずはない。そのゴータマ・ブッダが行じた純粋な仏道にまっすぐ帰る道が只管打坐なのだ。

「上堂。古徳がいう『皮膚脱落し尽くす』と。亡き師がいう、『身心脱落である』と」(四二四)

 ここには皮膚が脱落して人間と万物の境目が無くなり、障壁草木と同じになった有り様が説かれている。人間が臭い皮袋であるに過ぎない欲望的存在を罷め、原初の姿にリセットされることが只管打坐なのだ。

(補論) 以下の著述に、如浄の身心脱落話こそが、道元が蒙った根源的指南であることが示されている。〈先師古仏云、参禅者身心脱落也。祇管打坐始得。不要焼香・礼拝・念仏・修懺・看経。〉《三昧王三昧》 〈又いはく、参禅者身心脱落也。不用焼香・礼拝・念仏・修懺・看経、祇管打坐始得。〉《行持・下》 「天童和尚云く、『我が箇裏には、焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず、祗管打坐して始て得べし。』」(『永平頌古』八五) 「上堂。先師、衆に示して云く、『参禅は身心脱落なり』と。大衆、還た恁麼の道理を委悉せんと要すや。良久して云く、端坐、身心脱落なり、祖師の鼻孔、空華なり。壁観三昧を正伝するも、後代の児孫、邪を説く。」(『永平広録』三一八) 「天童和尚云く、『参禅は身心脱落なり』。木杓を弄し来って風波起る、恩大きく徳深うして報いもまた深し、縦い海枯れて寒底に徹するを見るとも、莫教、身死して心を留めざれ。」(『永平頌古』八六)  「先師故大宋国慶元府天童寺第三十代堂頭大和尚之諱辰に当たって、焚修する能わず、只門子に参禅は脱落身心之法語を講じせしめて、法乳の恩に報いるのみ。」(『如浄禅師諱辰偈』の序)

 以上のように身心脱落は、先ずは、如浄の身心脱落話なのであり、けっして道元の一時の体験のことではない。

 しかも、道元はその最初の第十五問答での如浄の言葉の前半のみを伝える。五欲五蓋を除くという重要な後半部分は、一度も言及していない。それでは小乗や天台と同じく自力・自利だという誤解を招くと思ったのだろうか。先に見たように五欲は肉体的欲望(性・飲食・睡眠)と財欲・名誉欲などで、五蓋は主に精神的に不安定な状態をいう。前者は『随聞記』でしばしば捨てるよう注意されるが、それは必ずしも坐禅をしなくても自覚と努力で達成しうるものだろう。後者は確かに坐禅でよくなる場合もあるが、それだけではたんなる精神の健康法になりかねないから、せいぜい《坐禅儀》で少し触れられるだけだ。五欲五蓋を除くことをいわないのは、坐禅が人間の為に役立つものと受け取られることを、道元が非常に警戒したためと思われる。あるいは五欲を除くことは、出家には敢えて示すにも足らない当たり前のことだったのだろう。

 しかしながら、現代では五欲の追求のみが人々の関心事となり、それが様々なビジネスと結びついて、資本主義社会ではそれに対する歯止めが全くない。現代では、見るもの聞くもの悉くが五欲を刺激して止まない。そのような今日においてこそ、坐禅が五欲を除く最良の方法であり、欲望に振り回されないあり方こそ、人間として最高、最上の生き方だということを、強調すべきではなかろうか。

 道元はまた、如浄においては只管打坐の「只管」が、「勇猛に、ひたすらに」という意味で言われたのであろうが、それを、さらに無所得無所悟という意味に深めて、「なんのためでもなく、ただ」と受け取り直したのだろう。  また第二十九問答の無明蓋についても、三十一問答の柔軟心についてもまったく触れられていない。とはいえ、それらを無視したのではないだろう。無明蓋を除くという重大な一事は、実は仏の智恵、あるいは正思惟として『正法眼蔵』全体の内実として言語化されるのだ。そのような展開が可能になったのは、如浄の言葉を「心塵」ではなく「身心」と聞いたからではなかろうか。殊に「身」の脱落については、道元ほど説き尽くした人は中国にも日本にもいないだろう。そのような意味で「身心脱落」は、如浄の手を離れた、道元自身の根源的な仏法の言い表わし、すなわち「道得」なのである。

 身心脱落がこのようなことであれば、道元が法を得た「何時」というのは、言うことができない。それを巡っての対話が、『宝慶記』最後の話である。  

 「道元、拜問する・・・・初心に分かったと思うことがある時は、まさに仏道に生きているような気がするが、さて人々を集めて法を開陳しようと思うと、仏法がまるでないようなことがあります。また初発心の時は、悟るところがないようだといっても、いざ法を陳べ、仏道を説く時には、昔の方を超えるような志気を非常に感ずることがあります。そうだとすれば、初心で道を得るとするのでしょうか、後心で道を得るとするのでしょうか。 堂頭和尚、慈しんで教えていう、・・・仏である祖師の正しい伝えにいう、『ただ初心のみではない、初心を離れるのでもない』と。どうしてそうなるのか。もしただ初心のみで得道するということならば、菩薩は初発心の時にただちに仏であることになる。これはもちろんだめである。だが、もし初心がなければ、どのようにして第二・第三の心、第二・第三の法がありえようか。・・・仏である祖師は一行三昧において相応の智慧を習い修行して、無明の煩悩を焼き滅ぼすのに、初めでもなく、後でもなく、初めと後とを離れるのでもない。これがつまり仏である祖師が正しく伝えた根本的教えである。」(四四)

 如浄の答は、ある時に悟った、というような特定の時ではなく、AでもなくBでもなくABでないのでもないという、空の論理にかなった説である。と同時に、いつでも、いつまでも、果 てしない修行を要請する実践的教えでもある。

 道を得るのに、特定のいつということはない。それを道元はもう一歩踏み込んで、いつでも、きちっと坐禅するとき、一生参学の大事がおわる、生死の問が決着すると説く。

「きちっと坐禅し修練すると、仏をさらに超えていく事態(仏向上の事)がたちまちに現れて、一生を賭けて修行し学ぶべき重大事が、すみやかに窮め尽くされるのである。」(『辧道話』)

 只管打坐は、身と心の脱落として、人間の時と処を切断するのだ。