十一段 現成と見成

一節 しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、

   得一法、通一法なり、遇一行、修一行なり。

二節 これにところあり、みち通 達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、

   このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆへにしかあるなり。

三節 得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられむずるとならふことなかれ。

   証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも見成にあらず、見成これ何必なり。  

 〈しかあるがごとく〉は、前段の魚行の喩えを受けるのであろうが、〈頭々に辺際をつくさずといふ事なく、処々に踏飜 せずといふことなし〉と、この段の〈得一法、通一法〉は、どうしても何か違う。両段とも打坐である修証を扱っているのだが、十段はさとりからの思惟に焦点を当てているのに対して、この十一段は非思量 の言語化(道得)についていっているのだ。

 すなわち「一法を得る」とは、月を映す「さとり」ではなく、一つの水月を言い得ることだ。さとりの時は、八段で述べたように、いっさいが挙げてさとりになるので、万法といわれ、それに対して人間が法を承当し、言葉で把握する時は、私の限界内の事として、わずかな法を了解するにすぎないから、「一法」である。「一法に通 ずる」とは、その思惟へともたらされ承当した一法を、問答、示衆、法語として示すことができるということだろう。それは「一法」としての限界を持っているからこそ、その都度あらたな言語化が要請されるのである。

 (補論)承当と道得の関係は、見得と道得という言葉で次のようにいわれている。〈しかあればすなはち證究のときの見得、それまことなるべし、かのときの見得をまこととするがゆゑに、いまの道得なることは、不疑なり、ゆゑにいまの道得、かのときの見得をそなへたるなり、かのときの見得、いまの道得をそなへたり、このゆゑにいま道得あり、いま見得あり、いまの道得と、かのときの見得と一條なり、萬里なり、いまの功夫、すなはち道得と見得とに功夫せられゆくなり。〉《道得》

 〈遇一行、修一行〉とは、打坐を行ずる機会に遇えばそれを修行する、とも読めるが、行李が現成公案するといわれたことから、一行とは日常生活の一つの行為とも見れる。たとえばご飯を食べることが一行であり、その一行に遇ったら、それを法に叶ったように踏み行う、ともいえる。例えば『赴粥飯法』通 りの食事は、まさに一行を修するといえる荘厳なあり方である。生活の一々が修一行となるように、道元は坐禅生活の規則である清規を細かく定めたのだろう。

 〈これにところあり〉の〈ところ〉とは、前段で解釈したように打坐の場である。 〈みち通達せる〉とは、打坐からの思惟としての言語表現は、一法に通じているだけだが、打坐の思惟は、不思量 底の思惟であって、尽十方界・尽法に通じているからだ。

 〈通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは〉の、〈しるからざる〉は、古語「しるし(著し)」が、はっきりしているという意味だから、はっきりしないという意味である。〈しらるる〉、〈しること〉とは、次の〈自己の知見〉、〈慮知〉に対応し、先に言及された〈見取・会取〉と同じであり、意識内での言語化とも言えよう。

 したがって、〈しらるるきはのしるからざる〉とは、打坐の思惟が無限界であるから、どこまで知り得るか、言語化されうるのかという限界がはっきりしない。参究はどこまでも続くということだ。

 だから〈このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆへにしかあるなり〉といわれるのは、打坐からの思惟である言語化(道得)は、いつも仏法の究尽である打坐の思惟においてなされるのである。つまり、完全な月が映じているところで、大小広狭の水月の点検がなされる。

 〈得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられむずるとならふことなかれ〉の〈得処〉とは、私の打坐において言語化しえないものとして現成している事態である。この非思量 の坐禅すなわち「打坐の思惟」は、不可知論ではないが、それが分別的な言語を用いる知には、はっきり知られ得ないがゆえに、言語を媒介にする分別 知、慮知によって明らかにし尽すことは、不可能である。それどころか、わずかな言語化も至難のことなのだ。

  (補論) それは、《別 本仏向上事》の次の下りとの対応でもあきらかである。  〈学道には、必ずその行として、坐禅を務むべし。これ昔より、仏仏、相伝えて絶えず。今にも及ぶなり。仏となるに、これを離れてなるにあらず。仏の伝うるところにあれば、人の量 るべきにあらず。量らむと営むは学道の式にはあらず。我に行わるるに、明らかなることありといえども、我に量 らるる際の暗きなし。かくの如く量りつくす際の無きには、力を尽くして量れりと思わんも、量 るにあらず。・・・・・いわんや砂を数うる人の、夢にも見るべきにはあらず。ただ非思量 の坐禅を兀々としてありし人のみ、これを辨得せりき。〉

 自分が坐禅を行っており、そこで明々に現じていることはあるのだが、それを自分で推し量 ろうとすると限界がない。〈暗きなし〉とは、暗くてそこで終わりというがないことで、「際がない」と同じである。だから推し量 り得ない。また、砂を数える人とは、文字を調べる教学の学者のことで、問題外である。

 〈証究すみやかに現成す〉とは、月が水に完全に映る譬えで示されたように、完全なさとりが、そのときそのときの打坐に常にすでに現成していることである。

 〈密有〉は、ここにのみ用いられる表現であるが、「密」という言葉は、特に《密語》でよく使われる。その巻で道元自身が〈密は親密の道理なり、無間断なり〉《密語》と解説しているように、「密」とは、秘密とか内密とかいう意味よりも、親密で片時も離れることがない様子である。したがって〈密有〉とは、自己にもっとも親しいゆえに、自己にそれと知られない、魚行で譬えられた水、すなわち親しく現じた法であろう。道元の「坐禅箴」の〈不思量 にして現ず、その現自ら親しし〉といわれる、その親しい現が密有だ。

 では〈密有かならずしも見成にあらず〉とはどういうことであろうか。〈証究すみやかに現成す〉るのなら、むしろ「かならず現成なり」という方が、理が通 る。だがここは、「現成」ではなく「見成」である。

 「見成」と「現成」は同じ意味だという説が一般 的であり、テキストによってはこの箇所も「現成」と書かれている。だが。古い竜門寺本(一五四七書写 )や、解釈テキストとしては一番古い『正法眼蔵抄』や『却退一字参』および江戸時代末の本山版『正法眼蔵』では「見成」となっている。また最後の「見成これ何必」は、ほとんどのテキストが「見成」である。

 『正法眼蔵』の他の巻の用例を見ると、多くは現成と見成は明らかに区別 されている。

 例一、見という語との関連でいわれていて、「見成」でなければ意味が通 じないもの。  真蹟である《山水経》に、〈見現成の頂寧を得とも如実これのみにあらず、各々の見成は各々の依正なり〉とあり、これはあきらかに〈見現成〉が略された「見成」であり、文意もいまの場合とほぼ同じである。 〈平にいたらざれば平の見成なし、平をうるに平をみるなり。〉《夢中説夢》  ここでは「見成」が「見る」と換言されている。〈いはゆる所見は見於三界なり、見於三界は見成三界なり。見成公案なり。〉《三界唯心》 ここも「所見」「見於」と対応する「見成」である。

 例二、主題からいっても、見成でなければならないもの。

 〈見仏は被仏見成なり。〉《見仏》  〈向前の堂々成見なりといへども公案見成なり、親曾見なり。〉《三十七品菩提分法》

 後者は正見道支を述べたものであり、見成でなければならない。 「見成」とはこれらの用例から、法がいま見えるものとして現れる、ありのままの世界が思量 において見えて成り立つことである。それゆえ、ここはやはり「見成」であったといえる。すると〈密有かならずしも見成にあらず〉は、打坐のところに現成している自己に親しい全宇宙を含んだ法は、かならずしも自己の見るところにはならないということになる。これと同様の表現が《授記》に見いだせる。

 〈みづからに具足する法は、みづからかならずしるべしと、恁麼にあらざるなり。自己の知る法かならずしも自己の有にあらず、自己の有、かならずしも自己のみるところならず、自己のしるところならず。しかあればいまの知見思量 分にあたはざれば自己にあるべからずと疑著することなかれ。〉

 この〈自己の知る法〉、〈自己のみるところ〉、〈知見思量 分〉が「見成」にあたる。

 〈見成これ何必なり〉の〈何必〉とは「何ぞ必ずしも・・・ならん」という部分否定である。自己が見て取った世界はどんなに奥をきわめようと、どこまでいっても、必ずしもそうではない、というものでしかない。九段の一水四見の譬えで示された通 りであり、諸禅師の万別千差の問答がそれを証している。

 以上、十、十一段では「現成公案」が多重な意味合いを帯びて響いている。ひとつは打坐から立ち上がったところの日常生活の浄化の行としての働き。ふたつは、みづからには知られないが、無限なものが無限なままに、打坐のこの身体に完全に成就し、打坐の思惟として成就している非思量 のさとり。第三は、非思量のさとりを言説化したもので、どこまでいっても完全ではありえない見取り・理解・言語化であり、むしろ見成公案というべきもので、打坐からの思惟である。このいづれもが、ただひとつのありのままの世界(法)の人への現れである。

 「打坐の思惟」のあるところにのみ、「打坐からの思惟」が成り立つ。その思惟の言葉は、他の人々をまことのさとりへ、すなわち只管打坐へ向かわせるための、「打坐への思惟」となっていく。しかしなお、言葉ではどうしても届かないことがある。それが最後の段で示される。