九段 打坐の思惟
一節 身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。
法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり。
二節 たとへば、船にのりて山なき海中にいでて、四方をみるに、ただまろにのみみゆ、
さらにことなる相みゆることなし。
しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、
のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。
ただわがまなこのをよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
三節 かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、
参学眼力の をよぶばかりを見取会取するなり。
万法の家風をきかむには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、
よもの世界あることをしるべし。
かたわらのみかくのごとくあるにはあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。
この段は、前段でさとりを得る風光が月と水によって静的に喩えられたのを受けて、さらに法を行じていくという、時の長さを持った修証の道ゆきとして述べられている。さとりにおいては、自己と法は互いに妨げたり干渉したりせず、〈不得不知〉《仏向上事》であるが、ここでは言語化し得(道取)、知り得る(会取)事柄について説かれる。
一節の〈身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ〉は、〈法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり〉と、表裏になっている。
打坐においては、飽きるほど坐禅する、つまり法が身心に充足するということがある。だがその時、法は不覚不知だから、手ごたえはなく一方ではもの足らなく思う。逆に十分に坐禅しない場合、かえってもう法は足りている、自分は了悟したと思ってしまう。これは通 常の知にもあてはまる逆説で、物事は知れば知るほど、どれだけ知らないことが多いかを実感するものである。「私は悟っている」という人ほど、悟りとは縁遠い。まして、見性して有頂天になるようなことは、やはり根本的に方向の間違い(五段)である。
しかしながら、ここには通常の知には、当て嵌まらないことがある。普通 の知には、充足するといっても、完全に充足することはありえない。何かを知るほど知り尽くせない領域は広がり、いつも未完である。ところが、仏道には、法が完全に充足して、一生参学の大事が畢る、ということがある。なぜなら、さとりは、不覚不知ではあっても、承当することができるからだ。ここが、哲学や思想と仏法が決定的に違う点だ。仏法には了生達死、もう死んでも何も悔いがないということがある。
しかし、それはまた普通の人が思うように、大事畢了すれば、仏になったのであり、真理を悟ったのだから、足らないものは何もないし、もはや変わらないということではない。この段で言われるように、充足した人ほど、不十分だと思うのである。何が不十分かといえば、それを言語化することが不十分なので、〈ひとかたは足らず〉と思うのだ。そこに仏向上事ということ、すでに充足した人(仏)がさらに法を明めていくという一見矛盾した事態がある。
だから、その〈足らず〉は、いつか完全に充足される途上の〈足らず〉ではない。もし、さとりに唯一の究極があれば、そこから見てさとりの浅い深いの評価があり得るだろう。あるいは法に限りがあれば、それを完全にあきらめ、道得するということもあり得るし、そこから見て不完全だとか序の口だとかいうことがあるだろう。しかし、万法にかぎりはなく、その会得・言語化にも限りがない。〈功夫の頂寧さらに功夫すべし。しかあればすなわち修証辨道も一般 両般なるべからず。究竟の境界も千種万般あるべきなり。〉《山水経》といわれる。
それゆえ、はしご禅といわれる、究極の悟りを目指す途上の見解を呈していく見性禅でもなければ、覚りはすでにあらゆる存在にあり、あらたな証は不必要だという無悟禅でもない。
仏法に対するどんな素晴らしい言語表現でも、人の見取ったもの理解したものである限り、その人の身心の業、換言すれば社会的歴史的制約の下にある言語を媒介にせざるを得ず、それは人の身体的限界として一方しか見ることができないような、〈一方を証するときは、一方はくらし〉という一面 性が付きまとう。
(補論)そのことについて、《山水経》はまことに適切にこう述べている。 〈たとひ諸仏不思議の功徳と見現成の頂寧を得とも、如実これのみにあらず。各々の見成は各々の依正なり。これらを仏祖の道業とするにあらず。一隅の管見なり。〉 ちなみに「依正」の「依」とは環境世界のことであり、「正」とは我々の身心のことである。たとえ諸仏の妙なる働きを最高に見取ることができても、それが諸仏の働きの全てではない。人の見うることは、その環境的限界性を反映している、ということだ。見成と現成の違いは後でのべたい。 人間の見方が、環境世界と我々の身心に限界づけられていることは、今日物理学の分野でようやく認知されてきたことだ。すなわち、アインシュタインは「(一般 )相対性理論」で、時間を観測者の特殊な座標系によって相対化した。ハイゼンベルクは光を考察していって、いかに観測するかということが、観測対象に影響を与え、量 子力学の記述は観測と密接に結びついていること、予想は確率的で不確定さが避けられないという「不確定性原理」を唱えた。またゲーデルの「不完全定理」は、完全な理論体系は常にその外部のものを予想しなければ構築できず、それだけで自己完結する体系はありえないことをあきらかにした。このことは身心の依正すなわち主体と観測環境から完全に自由になることは、純粋理論においてさえ不可能だということではなかろうか。
二節、三節は、前段の〈大水・小水〉が大海と一滴に、〈檢点・・辨取〉が見取と会取に対応するが、そこにさまざまな水に映る天月を見比べる目がいる。〈わがまなこ〉〈参学眼力〉である。坐禅の修がただちに証だと了解するところには、この思量 がまったく入る余地がない。ただこの坐禅における思量は思慮分別ではないから、それは論理的な言葉ではなく、やはり譬えで語らざるを得ない。
そこで〈たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし〉、と続けられる。この譬えは、修行のさまを述べた六段の舟の譬えが、自己に対する万法を、岸が見える川、つまり一本の直線で表象していたのに対し、山や大地が全く見えない三百六十度広がっている大海で表象され、それは中心がどこにでもありうる無限大の円であり、際のない尽十方界の法を巧みに示している。もっとも、ここは修行ではなく、見取りや理解(見取・会取)が問題になっている。
ところで、当時、この譬えのような大海を実感として知っていたのは、おそらく道元のように大海原を渡って中国にでも行った、ごく少数の人だけであろう。そのような人にとって、海がまるいなどということは、とてつもない大発見、まさにコペルニクス的転換であったにちがいない。だが、道元はこの従来の見識がひっくりかえされたような体験を述べながら、けっして悟りはそのような従来の知見の転倒だ、とはいわない。大海に出れば、海は円くみえる。だからといって「海は円い」という新たな知見が真理であるわけではない。ここが非常に大切なところである。
人はたしかにこの目でみたことを事実だといい、あるいはたしかに論証しうることを真理だという。そういうあらゆる人間の感覚、知力による判断を、道元は完全に相対化する。というよりは、只管打坐の非思量 においては、人間の判断のかかわらない世界が成り立っているのであり、その世界から言語を使う判断の世界に出たものは、いずれもその都度、その状況下での一面 的なものに過ぎない。
そのことが、さらに続けて〈しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし〉といわれる。丸くないといって四角(方)であるわけでもない。海の見え方は無限である。そのひとつの例が、《山水経》にも引かれる一水四見で、もし魚であればこの海は〈宮殿〉に見えるだろうし、もし天人であるなら〈瓔珞〉と見えるだろう、といわれる。この、人の見方、魚の見方、天人の見方の相違は、浅深でも妄見・真見でもなく、いわば身心に拘束された見方として業観といえるようなものである。
〈ただわがまなこのをよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり〉とは、実際に今、目に見える海が丸いということは、私の目においては、いましばらく、そうであるだけなのだ。「暫く」というのは、本物に対するかりそめということではなく、しばらくの間、である。だからといって、しばらくの間で又変わるのだから、本当の見方は存在しないという遠近法的相対化、虚無主義ではない。〈しばらく〉は、七段で、〈生も一時のくらひなり〉といわれた「ひととき」と響き合うもので、今はそれしかない、という意味では、絶対ともいえるものである。
三節で〈かれがごとく、万法もまたしかあり〉と説き出されるように、法を見る場合にも、〈参学眼力のをよぶばかりを見取会取するなり〉と、その力の及ぶ範囲で見取会取するだけである。だが、多くの場合、そのひとときの見取が、執着になり、我見にこびりついてしまう。いずれにしろ、ひとときの見方であるからこそ、さらなる修証において透脱していく余地があり、限りない仏向上があるのだ。
道元は、人間のあらゆる見えること、分かることに、この見取の透脱を押し広げて『正法眼蔵』のさまざまな箇所で展開している。山や地が何であるか、ということから、経典語録の言句まで、ああも見える、こうも見える、実際のところ何なのか、と突き付ける。そうすることによって、自らに対しても他に対しても、こわばった我見を打ち砕き、旧窩すなわち古い巣穴から脱け出させるのである。
〈塵中格外、おほく様子を帯せりといへども〉の〈塵中〉とは、「声色塵中」という仏教用語の略で有為転変のこの世をいい、〈格外〉とは出世間のことをいう。道元が、見取・会取のおよぶ万法の範囲を、〈塵中格外〉と言うのは、先にみたように、日常にものを見る場合も、祖師等の言句を見る場合も、ということだろう。ここで思い出すのは、三段でいわれた声色の見取会取である。〈身心を挙して〉声色を見るのは〈塵中〉のことである。世間の日常生活は、言語の世界、分別 の世界、あるいは声色の感覚的世界で営まれるほかはない。その判断には、いつもこの自分の眼力、鼻力、舌力などの限界がつきまとう。
各人の仏法の理解や言語表現は、先には広狭、浅深といわれたが、ここではむしろ多様性である。着眼されるべきは、人も魚も天人も、一つの同じ海に接していることである。八段の譬えでいえば、どの水にも完全な月が映っているのである。だが自己に親しく接しているこの海(法)を、見取会取するに際しては多様性が生じる。それは無限の多様性だ。
〈万法の家風をきかむには、方円とみゆるよりほかに〉とは、先ほど述べたように、大海中では、たしかに丸く見え、陸から見ればたしかに四角に見える。それは一定の条件のもとでは正しい。しかし、正しい言表、道得に納まりかえらないのが、万法に証される仏道である。〈向上、更に言え〉《仏向上事》が、ついて纏う。
(補論) たとえば、達摩の法を継いだ二祖の見解でさえも、まだ究め尽くしたのではない。〈もし二祖の後に、百千人の門人があっても、百千道の説著があるべきである。窮め尽くすということはあるはずがない。門人がただ四員であるから、とりあえず皮肉骨髄という四つの言語表現があっても、残っていまだ言語化されないが、言語化すべき道取は多い。〉《葛藤》
〈のこりの海徳山徳おほくきはまりなく〉とは、この〈残って未だ言語化されていない仏法だ。その見取られたもの、言語化されたものをさとりと取り違え、唯一の究竟と思う時、たちまち迷になるのだ。仏法はいつでも言語化され尽くしてはいない。経典がたえまなく書き続けられる所以であり、道元が不断に〈参究すべし〉と要請する所以である。
そして、結論として指示されているのは、〈よもの世界あることをしるべし〉である。〈よも〉とは四方、東西南北ということである。ここでは、見取会取の内容(大小広狭)が、大事な問題なのではなく、そのように限定された見取会取が成りたつ地である無限の場(法)にこそ、思いを致せということである。自分が知っている以外のたくさんの世界、四方、八方、尽十方の世界が〈あることをしる〉からこそ、〈ひとかたは足らず〉と思うのだ。柄としての見取会取を成り立たせる地が無限の法であり、その無限の世界に自己が開かれてあることこそ、行と一枚の証、道元のいう「さとり」である。
とはいえ、その無限に開かれた世界は、わたしたちが日常生活を営んでいるこの世界と別 なものではない。ただ人間は、そして鳥も動物も樹もあらゆるものが、ありのままの世界をありのままには捉えられない。自らの五官や判断能力、言語(鳴き声)によって、人間、鳥、樹などのそれぞれのあるがままの世界として立ち上げるほかない。〈しばらく・・・見ゆるのみなり〉である。そのようにして、私たちが「この世界」といっているものは、私たちの目に映じた柄としての世界なのである。「この世界」とありのままの世界の関係は、大証国師によって「億劫相別 れて、須臾も離れず、尽日相対して刹那も対せず」と示されてもいる。
三節の最後で〈かたわらのみかくのごとくあるにはあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし〉といわれるのは、〈大海・塵中格外・万法の家風〉というように、話が対象につられて拡散してしまったのに対して、〈直下〉と、いまここでの自己の問題であることに、注意を向ける。〈一滴〉は、万法をあらわす大海に比べた、私一人の道取弁取であろう。
さて、ここで、さとりと理解や言語化の違いを別の角度から考えてみたい。只管打坐における非思量 は、あらゆるもののありのままを、そのまま人に映す「さとり」であり、「打坐としての思惟」、あるいは「打坐の思惟」である。そこでは従来の見方が打ち砕かれ、まっさらなありようが開かれる。そして、その王三昧から立ちいでて、そのありようを言語をもって表現(道得)すれば、「打坐からの思惟」である。そこでは、道元の思惟(言表)も、〈しばらく・・・見ゆるのみ〉という限界のうちにあることを免れない。たとえば『正法眼蔵』七十五巻と新草十二巻では、その道取の変化は目を見張るほどである。
ところで、「打坐の思惟」である不思量底の思量、すなわち非思量 は、実際は容易なことでは、「打坐からの思惟」という言語表現には移し得ない。言語は理解させるために使われるが、この場合は理解できないことを説くのであって、理解されてしまったら失敗なのである。実際、『正法眼蔵』には各巻毎の根本語はあっても、理解を助けるような概念や全体を統べる体系は見当たらない。しかも、各巻の根本語も縦横に互換され、転倒され、否定され、周到に人が言語に依存して観念として何かを抱え込むことを回避している。このような複雑な言語使用は、打坐の思惟(非思量 )を言語化する際に必然的に伴うのであろう。
したがって、打坐の思惟は、そこからどんな仏法の言説が他者に向かって説かれても、無限の不言説を背後にもっていて、ただ聴者をしてその地である不思量 底に自らを投げ入れ、打坐に同参することへと開いていくためになされるのである。〈この道得を道得するとき、不道得を不道得するなり〉《道得》とはそのことだ。したがってそれは「打坐からの思惟」であると同時に、つねに「打坐への思惟」なのだ。この《現成公案》巻もほかならぬ 真の只管打坐に導くための「打坐への思惟」である。
この段は見取・会取・道取を参究しているので、その譬えは、なお対象性にまとわれている。対象的にはなりえない打坐の修証を説くには、それにふさわしい新たな譬えがいり、それが次段でなされる。