一章  法を伝える   

一節 出会いの奇蹟  

 道元は、日本が生んだ世界でもっとも優れた僧のひとりである。

 鎌倉時代、二四歳の道元は、真実の仏法を求めて、師の明全と共に宋への留学を決行する。生命より大事なものがあるからだ。東シナ海の波涛を渡り終え、明州慶元府に着く。停泊中の船の中で阿育王山の禅寺の食事係りに出会い、学問より、いまここの自分のなすべき勤めを果 たす方が大事だと諭される貴重な体験をする。それ以後、天童山や阿育王山など禅の大道場を巡り、さらに径山や大梅山などにも足を延ばすが、心から師匠と仰げる人には出会えなかった。足かけ三年目の春、再び登った天童山で、その前年から住職となっていた老僧・如浄に出会う。その出会いから帰国までのいきさつが、手短かにこう記されている。

 〈わたし道元は、大宋の宝慶元年五月一日に、はじめて亡き師天童という真の仏を礼拝して面 授される。しばらく、師の居室での個人指導を許される。いささか身心を脱落したが、その面 授を保ち続けることがあり、そのままに日本国に帰った。〉《面授》

 このことの内実を以下に詳しく見てみたい。  宝慶元年(二六歳)四月十五日から始まる夏期集中修行までに、道元は天童山の僧堂に入った。修行僧は何百人もいる。かれらに混じって道元は遠くから指導者の如浄を見つめ、教えを聞いていたのだろう。五月一日に、初めて師の居室で焼香礼拝し、正式に挨拶 した時、如浄は次のような破格の言葉を道元にかけている。

〈真の仏・亡き師は、はじめて道元を見る。そのとき、道元に直接示して面 授して言う、仏である祖師たちの面授の教えが、今現実となった。これがすなわち霊山の拈華であり、嵩山の得髄であり、黄梅の伝衣であり、洞山の面 授である。これは仏である祖師の眼目全体の面授だ。わしの家風だけにあり、他の者には夢にも見聞されることではない。〉《面 授》  

 面授とは〈釈迦牟尼仏のみ顔を礼拝し申し上げ、釈迦牟尼仏の御眼を私のまなこに映し申し上げ、私のまなこを仏の御眼に映し申し上げ〉《面 授》と説かれるように、出会いにおいて目と目を見つめ合う時、法を伝えようとする気迫と、法を求める気迫が電光のように閃いて起こる、人格と人格との全面 的感化である。

 禅宗では、釈迦が霊山で華をつまみあげた時、摩訶迦葉だけが微笑してその真意を理解したので法が伝わり、禅宗初祖の達摩が嵩山で弟子たちに見解を尋ねた時、恵可だけが黙って立ったのを見て、「お前は私の髄を得た」と言って法を伝え、五祖の弘忍が黄梅山で慧能の呈した詩句を見て、袈裟衣を伝えて跡嗣ぎにさせたという。いづれも、直接的な人から人への伝法の機縁である。

 道元を一目見て、如浄は仏法を伝えるに足る逸材だと確信したのだ。人が人に出会うということの、これほど劇的なものがあるだろうか。その樣子がさらにこう描写 される。

〈一言もまだ交わし合わず、半句もまだ分からぬわけではない、という前に、師はすでに上から頭ごしに弟子を見、弟子はすでに顔を上げて師を拝むことになったのは、正伝の面 授である。〉《面授》

 まだ弟子が一言も教わらないのに、師・如浄は弟子の器量を見抜く。弟子・道元も如浄を正師と見定め、深々と頭を下げる。感応道交の火花が散る。人と人の出会いこそは、宗教でもっとも大事なことなのだ。干涸びた書物ではなく、生きている人にこそ宗教の生命は脈動する。そして元来、中国の禅宗というのは、こういう最初の出会いの機微をこそ大切にした。如浄もまたこういう出会いに賭けていたのだ。

 しかし、いったいどうして如浄は、初対面の出来事を伝法の成就する機縁に等しい、とまでいったのだろうか。伝法とは、師について学んで修行して、ついに悟って、それを師から証明されて嗣書や衣を与えられた時に成立するのではなかろうか。

 それについて『宝慶記』*の後半に次のような問答がある。

   (註)『宝慶記』は道元が、如浄に参じて問答した子細を、編年体で記したもので四十四問答から成る。問答は筆談であった可能性もあり、如浄に差し出されたと思われる書面 も収められている。道元遷化の年に、懷弉が遺品の中から見つけて浄書したもので、宝慶は当時の宋の年号である。

「香を焚いて拝問する。世尊が金襴の袈裟を摩訶迦葉に授伝なさいましたのは、いったい何時のことですか。

 堂頭和尚が慈しんで教えていう、お前が、この事を問うのは実に良い。弟子たちはこの事を問わない。だから、この事を知らないが、教える者が苦慮するところなのだ。わしはかつて亡き師雪竇のところで、この事を問うたところ、亡き師は大いにお悦びになった。世尊は最初に迦葉がやって来て帰依するのを御覧になり、すぐに、仏法と共に金襴の袈裟を摩訶迦葉に委託して、第一祖となされた。摩訶迦葉は、衣と法とを頂いて、昼も夜も坐禅を努め、未だかつて怠けることなく、未だかつて横になって休まず、常に仏衣を戴いて、仏を想い、塔を想って坐禅したのである。世尊はつねに摩訶迦葉がやって来るのを御覧になっては、自分の座を半分分けてお座らせになったのだ。迦葉尊者は仏の三十二相の中で三十相を備えて、ただ、眉間の白い毛と肉髻とが無いだけ。だから仏とならんで一つの座に座っていると、人や天人が喜んで見るのである。迦葉にはおよそ神通 も知恵も、一切の仏法が、仏の委託を受けて欠けるところがない。そうであるから、つまり、迦葉は仏に出会った最初に、仏衣と仏法とを得たのである。」(二七)

 道元が迦葉の伝法はいつか、と質問した理由は、ひとつには、初相見の時の如浄の桁外れの挨拶が、十分には理解できない言葉として道元の内にわだかまっていたからだろう。さらに理由がある。道元はかつて、伝法を証明すると見なされている嗣書に対して異常なほどの興味を示し、天童山での無際了派の嗣書の拝見に始まり、宗月長老、伝蔵主、元しの嗣書を感激をもって見ている。それゆえ、如浄から何時、嗣書なり袈裟衣なりを受けられるか期待して聞いたのではあるまいか。

 ところが、如浄が示すのは、「迦葉は仏に出会った最初に、仏衣と仏法とを得たのである」とあるように、初相見の時、伝法が成立し、迦葉はそれ以後ずっと坐禅に励んだということである。これは常識では考えられないことだ。ここには、いつ迦葉が悟ったということもなければ、釈迦から何を教えられたということもなく、しかも伝法が成立したと明示されているのだ。

 そのことは「わしの家風だけにあり」といわれるように、如浄だけが雪竇智鑑に確かめたことではあるが、実は彼らだけの特殊な見解ではないのである。『雑阿含経』如来誦には、迦葉と世尊の出会いがこう叙述される。

 「もしも世間に阿羅漢だといえる人があれば、聞いて出家して従おうと、私は出家しおわって王舎城と那羅部落との中間にある多子塔の所で世尊に遇値した。正身端坐し、相好奇特、諸根寂静、第一息滅、まるで金山のようだ。私はその時、見おわってこのように思った。これこそは私の師である、これこそは世尊である。これこそは等正覚であると。私はその時、一心に合掌して敬礼し、仏に申し上げるには『あなたこそは私の師です。私こそは弟子です』と。仏は私にお告げになってこういう、『その通 りです。私こそはあなたの師です。あなたこそは私の弟子です』と。・・・仏は迦葉にお告げになって『あなたはまさに私の糞掃衣を受けるべきです。私はまさにあなたの僧伽梨衣を受けるべきです』」(雑阿含1144=パーリ本・相応部16:11)

 この原始仏典では、如浄の言葉通りに、迦葉は釈迦と初対面で袈裟と法とを伝えられたと記されているのだ。その契機は、まさに迦葉が釈迦の坐禅姿を見たことにあり、さらに弟子と師との相互の認め合いが確認される。ここでも、どのような法を聞いたから、あるいはどのように覚ったから法を受け継いだ、ということではない。つまり、伝法といっても、伝えられるべき「法」が何かあるわけではない。坐禅し続けるということがあるばかりだ。

 したがって「面授」という伝法のあり方は、特定の教えに限定されない全人格の継承といえるから、道元もしばしば正師に会うことをもっとも大事なこととして示す。しかし同時に、他方では〈仏の印証を得るとき、師無くして独り悟るのだ。自分無くして独り悟るのだ〉《嗣書》とも言う。本当にさとりが成る時、教える師も要らないし、私が悟るということもなくなる。

 そして嗣法とはこのような人格と人格との呼応、いや、その呼応において人格を超えて働いている事態の継承である。今、少し先取りしていえば、仏法は人間が悟った法ではなく、人間が会得できるものでもない。だから人間から人間へと伝えていくものではない、仏から仏へなのだ。そのことが、道元が若い日にこだわった嗣書に関連して、こういわれる。

 〈もし、もっぱら釈迦仏より始まったというなら、わづかに二千余年である。古くはない。代々継承してきたのも、わづかに四十余代であって、新しいというべきだ。仏の嗣法は、このように学ぶのではない。釈迦仏は迦葉仏に嗣法すると学び、迦葉仏は釈迦仏に嗣法すると学ぶのだ。このように学ぶとき、まさに仏である祖師たちの嗣法があるのだ。〉《嗣書》

 ここには先の『雑阿含』と同様に、嗣法というものが弟子と師との相互的なものであること、いや、仏が仏を認め合うものであることが、明瞭に説かれている。この下りは〈この時、わたし道元は、はじめて仏である祖師の嗣法があることを了解しただけではなく、従来の旧い巣穴をも脱落したのだ〉と締めくくられている。あれほど嗣書にこだわった道元が、その従来の認識を脱した。もはや、誰からいつ嗣法したか、どのように嗣書を書くかということは、根本的には問題ではない。ちなみに如浄は誰から嗣法したかを、大衆には臨終まで明らかにしなかった。このような見解を持っていた如浄だからこそ、道元に最初に出会った時〈仏である祖師たちの面 授の教えが今現実となった〉ということが、あり得たのである。

(補論) 《仏祖》巻に〈道元、大宋国宝慶元年乙酉、夏安居の時、先師天童古仏大和尚に参侍して、この仏祖を礼拝頂戴することを究尽せり、唯仏与仏なり〉とあるように、実際に道元が如浄の嗣書を見たのは、この最初の夏安居の期間であり、その巻には〈まさに仏祖の面 目を保任せるを拈じて、礼拝し相見す。仏祖の功徳を現挙せしめて、住持しきたり、体証しきたれり〉とある。弟子は師が仏の面 目を保任し体証していることを見抜いて、礼拝し相見する。だから初相見の時、嗣法が相互に成り立ち、仏である祖師はその優れた働きを現実に示し、弟子もその面 授を保任していくことが要される。

 ところで、道元は『学道用心集』で「参禅学道は正師を求めるべきこと」と題して「悲しむがよい、辺鄙な小国日本には、仏法はまだ弘まらず、正師はまだ世に出ない。・・・正師が見つからないならば、学ばないに限る」とまでいう。たしかに邪師に就けば間違うことは決まっている。まして、その時代を去ること遥か、まともな禅僧が払底しているといわれる現代に、どう正師を求めたらいいのか、私たちは途方に暮れる。しかし、問題は必ずしも師の側にあるのではない。むしろ自分自身がどれほど真剣か、本物であるか、力量 があるかが問われているのだ。

  (補論) 《遍参》には、正師を尋ねることが、自分自身の問題であることが、玄沙の問答にこう表現される。〈玄沙山宗一大師、因みに雪峰、師を召して云く、備頭陀、何ぞ遍参し去ざる。師云く、達磨、東土に来たらず、二祖西天に往かず。雪峰、深く之を然りとす。〉《遍参》(玄沙大師の事、遍参に出かけて、途中で石に躓き、全身痛みに襲われて、帰ってきた、その時に雪峰が玄沙(備頭陀はあだ名)を呼び寄せていった、「どうして諸方に師を求めて出かけないのか」。玄沙がいう、「達摩が中国に来たこともないし、二祖がインドに行ったこともありません。一切の苦しみもそこからの解放も、ただ自己にあるので、どこからか伝えに来るということも、どこかへ求めに行くということも不要です」。雪峰はその答をつくづくその通 りだと思った。)

 自分が正師を見抜くのだ。正師を求めるということは、真実の自己を求めることにほかならない。したがって、真実の師に出会った時、道は八、九分成るのである。  あるいはたとえ正師がいなくても、他者から仏であることを証明されるということがある。

 沢木興道師は、まだ正式の僧侶にもならない男仕の頃、忙しい労働の中で、わづかにできた暇に、座敷で坐禅をしていた。そのとき、いつも師を追い使っているお婆さんが、それをひょいと見て、仏像にするよりも丁寧に合掌低頭したという。老師は「これは、坐禅はなんぞある」と思ったそうだ。おそらくそれが老師の印可証明だったのではあるまいか。お婆さんは人間である沢木興道師を拝したのではない。そこに現前している何かを拝したのだ。もちろんお婆さんはそう考えて拝したのではない。お婆さんの思いを超えて、そのように拝させるものがお婆さんの側にもあった。このお互いの何かが、普通 は師と弟子の間で感応道交するのだ。無師独悟というのは、けっして一人よがりの悟りではない。無自独悟であり、必ず他から証明を得るべきことである。

 ところで、もちろん、道元は初相見の時に仏法が何であるか分かったわけではなく、これで参学が終わったというわけにはいかなかった。むしろ、ここから命がけの聞法が始まる。如浄との出会いの奇蹟以後、道元がどのように師に参じ仏法を得たのか、次に見ていこう。