・掛け軸の勧め | ||||||||||||||||
思い出の品を掛け軸にしてみませんか? 自分で書いた習字や絵画。思い出の着物の帯。色紙や短冊など |
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【掛け軸の勧め】 | ||||||||||||||||
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掛け軸を作ってみませんか?
何かの記念に素敵な掛け軸を作ってみませんか? 自分で書いた習字や絵など、いい思い出に。 掛け軸は通常50年から100年もつといわれてますの で、長くお楽しみいただけます。
掛け軸で部屋の感じを変えてみませんか? 掛け軸を掛けることによって、部屋の雰囲気は大きく 変わり、心に落ち着きを与えます。 新しい趣味のきっかけに! 掛けられた掛け軸を毎日眺めることにより、だんだん と書や絵がわかるようになってきます。是非新しい趣 味のきっかけとして掛け軸を作ってみませんか? |
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【掛け軸の歴史】 | ||||||||||||||||
日本では中世以来、掛幅装の書画を鑑賞する専用の場として城郭付属の殿舎から庶民の小さな住宅に至るまで、床の間という特殊な空間を用意してきた。そこでは、一年十二ヶ月の慣習的な行事と臨時の会合とに合わせ、あるいは季節や人生の推移を逸することなく深く感じ味わうために、多様な主題や様式の書画が折々に掛け替えられたものである。※1
そうした日常頻繁な掛け替えは、勝川春章筆「美人間娯楽図」や山田敬之筆「二美人図」などのモチーフとしても描かれており、変化を楽しむ日本人の欲深い心根から強く促されたものであったのだろう。また掛幅は軸に巻いた状態で箱にしまって保管するため、埃や紫外線にさらされず、顔料の褪色を防ぎ、弱い紙や絹の地を用いた東洋の絵画を保護する上でも大事な手当であった。 他の特徴として掛幅は額や屏風と異なり軽くコンパクトな為、持ち運びや収納に便利で、狭い庶民の家にも置くことが出来、貸借も容易に行われた。つまり掛幅は、日本建築、日本の風土に適した機能的な特徴を持っていると言える。 ここで掛幅画の歴史をたどってみる。掛幅は飛鳥時代に仏教受容と共に中国より朝鮮半島経由で日本に伝わったとされており、当初は大寺院などに見られる仏画が中心であり、鑑賞用の絵画ではなかった。しかし、鎌倉時代末になると禅宗と共に水墨画が大量にもたらされ、日本でも達磨のような禅宗特有のモチーフが多く描かれるようになり、山水・花鳥をはじめとする宗教画ではない鑑賞用絵画も描かれるようになっていく。 |
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掛幅に描かれた画題も神仏・人物・動物・花鳥・山水と様々であり、障屏画と比肩する大画面のものから、絵巻のような小画面のものまで見られるようになった。特に応永年間(1394−1427)を中心に五山の禅僧の間で詩画軸が流行したこともあり、この時代日本において掛幅の需要は大幅に増えたと考えられる。その後室町時代に入ると唐物が重宝され、掛幅の輸入量はピークに達するが、中国絵画の国内需要に供給が追いつかなくなった。そこで足利将軍に仕え芸術に秀でた同朋衆と呼ばれる者のなかでも、能阿弥・芸阿弥・相阿弥らは、中国絵画を手本にして水墨画を描き、当時の絵画需要に対応していた。 さらに京の都を壊滅させた応仁の乱の頃より、掛幅はこれまで主流であった絵巻に代わり盛んになりはじめた。これは貴族の力が衰退し、下克上の世へと社会の急激な変化が起こった結果、公家や貴族といった上層階級から武家や町衆へと芸術を鑑賞する対象が広がり、日本文化≠京都文化(貴族的な国風文化)となったためと考えられる。 今日の掛幅には、真・行・草という形があるが、この形式が完成したのも東山時代である。その理由は、書院造の完成により掛幅を掛ける空間(押板)が誕生したことと、同朋衆たちによって宋元画や掛幅の研究がなされたことによると思われる。この時代の掛幅は以前と異なり、着物など本来掛幅以外の用途に用いていた裂を使用するなど、日本独自の掛幅が顕著になり始める。 町衆文化の一つである茶の湯の発展もまた掛幅の世界に新たな風を吹き込んだと言える。茶会で用いられる掛幅も初めは宋元の水墨画や花鳥画などの小品が中心であったが、十五世紀半ばから十六世紀初頭にかけ、茶室に床の間が作られるようになるとともに、茶人の村田珠光や武野紹鴎が書や古筆を用い、これまで禅とは疎遠であったものも茶掛けとして床の間に掛けられるようになる。 江戸時代に入り社会が平和で安定すると道釈人物画や吉祥画などを主題とする三幅対が多く描かれるようになった。また元禄頃から町人の力の増大に伴い、文人画家や写生派、浮世絵師といった狩野派以外の画家が人気を博し、酒井抱一のように描き表装を試みる者や日本三景をはじめ三美人図など三幅対の形式に合わせた新しい画題を描く者が出てきた。また、茶の湯を楽しむ文化人たちは、自ら文人画家として筆を握り、社交の一つとして絵を描き表装などにして楽しんだ。庶民の間でも浮世絵をはじめ、大津絵のような民画が広まり、それに伴う廉価な掛幅も作られるようになった。このころまでに、掛幅は屏風と並ぶ日本を代表する絵画形式になった。 明治に入り、新しい風が吹くと日本の絵画界も大きく変化した。日露戦争に勝利すると日本の西洋化は急速に進み、一部の画家は西洋画に憧れ日本画を離れていった。たいていの日本美術史の解説書を見開くと明治時代の絵画として高橋由一、黒田清輝等の油絵作品が大きく紹介され、まるで日本絵画界すべてが西洋化した印象を受けるが、実際は西洋画を描いたのはごく一部の画家であり、庶民の生活の中で絵画を言えば、まだまだ日本画を指し、多くの画家は今まで通り日本画を描いていた。庶民の住居にも床の間がつくられ、掛幅はどこの家庭でも目にすることが出来る身近なものとなった。 しかし、掛幅は第二次大戦後の住宅様式の変化によって、扱われる頻度が低くなった。今日一幅ものの掛幅はまだ身の回りで見られるものの、三幅対以上の掛幅は屏風などと共に、日常目にする身近なものではなく、寺院や博物館などで見る特別な物へと変わりつつある。 駐1) 小林忠 『江戸の画家たち』 ぺりかん社、2002.7 参照 ※以上は私、林野雅人の論文 一考察「三幅対の成立と発展について」 の一部です。
だが一方で、最近掛幅をはじめ日本の伝統品を見直す動きも見られる。床の間に掛ける掛幅は勿論のこと、洋間の壁に似合うモダンインテリアとして若い人たちや外国の方々から関心が寄せられている。特に洋間の壁に一幅の掛幅を添えることにより、オシャレな部屋に和のなごみが加わり、斬新な感覚を与えてくれる。掛幅の内容も墨跡から抽象画まで様々であるが、不思議と掛幅はどこでも似合うようである。 |
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