佐伯屋
スペクタクルより勝利が好き
第2回・平成13年12月15日
テリム解任事件の深層
幻の第1回テーマ
   この一週間、ゼミの発表に掛きりであったため、久々の更新となってどうも申し訳ない。このテーマである「テリム解任」はもっと11月初旬のことだったのでもっと早く書きたかったのだが、12月と大きくずれ込んでしまった。また実は当サイトは11月中頃に開設されるはずであり、当コラムの記念すべき第1回がこのテーマで、タイムリーな内容になるはずだったが、諸問題が発生しページを1から構築し直さなければならなくなった。だから幻の第1回テーマとなっていたのだ。その間『ワールドサッカーダイジェスト』でこの件に関しての論評が先に掲載されるのではないかと冷や冷やしていたものだが、これといった特集はなかったので内心ほっとしているところである。
   さて今シーズンのミランは緒戦のブレッシア戦で目玉であるルイ・コスタがいきなり負傷欠場し、開幕から煮え切らない戦いを続けていたが、インテルとのミラノダービーでの大勝でこれから上昇して行くかというムードが高まり今後に期待を抱かせた。ところが、次節のボローニャ戦のドローで仕切り直しの出鼻を挫かれ、更に次のトリノ戦で敗北。この結果を受けてトルコ人監督ファティフ・テリムは更迭されてしまった。後任にはパルマからいわば強奪した形のカルロ・アンチェロッティが就任したのは周知の通りである。

セリエAの外国人監督はなぜ成功しないか
   テリム・ミランの最終成績は4勝2分2敗であった。トップのキエーボ・ベローナとは勝点5の差だが、キエーボは元々A残留を争うプロビンチアである。いくらエージェニオ・コリーニやクリスティアン・マンフレディーニそしてエリベルトらが好選手だといっても、選手層は葉月里緒菜の胸板や武田鉄矢の人情の如く薄く、中盤戦での息切れは必至である。ミラン本来のライバルとなるべきビッグクラブも、当時2位につけていたインテルは守備こそ安定しているが、ロナウド、アルバロ・レコバ、クリスティアン・ビエリの「ビッグ3」が不在で、得点力に不安があり、前年王者ローマは開幕戦で出遅れ、ユベントスは逆に序盤戦は好調だったが、ここにきて失速し、ラツィオとパルマに至っては開幕からの不調のトンネルを未だ抜け出せないでいた。だから、まだまだ挽回は可能であり、国際標準から言えばこの成績で解任されるはずはないのである。しかし、それでも解任されてしまうのがセリエAの驚くべきところで、セリエAというリーグの特徴は前回も書いたが、3敗多くて4敗までがセリエAの優勝ラインだから、スクデットを狙うビッグクラブにとっては序盤戦の2敗は後々命取りとなってしまうのである。
  外国人監督はこの点がなかなか理解できないようだ。過去にセリエAではロイ・ホジソン(インテル)、カルロス・ビアンチ(ローマ)、オスカール・タバレス(ミラン)など実績では申し分のない外国人監督が指揮を取ったことがあるがいずれも失敗している。外国人監督の数少ない成功例であるズベン・エリクソンは、かつて1度ローマを放り出され後にセリエAに帰ってきてラツィオでスクデットを獲得したが、おそらく彼はそうしたセリエAの特殊性を勉強したのだと思う。逆に、長年のイタリア生活でそれを理解しつつも、あえて結果主義よりスペクタクルを好む特殊な監督もいる。それは言うまでもなくズデネク・ゼーマンだ。3トップをアイデンティティーとするゼーマンの超攻撃的サッカーはラツィオやローマで支持され、セリエAの極端な結果主義サッカーに猛然と反旗を翻した。だが、ナポリのようなセリエA残留を目指すチームでは、このスタイルは仇となってしまった。

理想の監督だったテリム
   それにしても、テリムはミランのフロント陣(シルビオ・ベルルスコーニ会長、アドリアーノ・ガリアーニ副会長以下)が待望していた監督のはずだった。前年、ミランのフロント陣はアルベルト・ザッケローニ(現ラツィオ)監督の3バックに3トップというスタイルを毛嫌いし、常々4バックへの変更もしくはトップ下の起用を要求していた。しかしザッケローニは自らの戦術に固執し、結局98−99年スクデットの実績も意味無く、成績不振でシーズン途中に解任された。そしてチェーザレ・マルディーニとマウロ・タソッティの二頭体制による暫定政権を経て、翌シーズンにやってきたのがフィオレンティーナでルイ・コスタを中心とする組織的な攻撃サッカーを実現していたテリムだった。テリムは4バックにトップ下を起用というミランのフロント陣が求めてやまなかったものを実現する監督であり、ミランが長らく失っていたスペクタクルを復活させる存在として期待されていた。だからこそザッケローニ時代には冷淡だった戦力補強も、テリム政権となってルイ・コスタ、フィリッポ・インザーギ、コスミン・コントラ、ハビ・モレーノ獲得というようにフロント陣は情熱を注いだのではないか。
  しかし、それでもテリムは解任された。 注目すべきは後任がアンチェロッティだということである。アンチェロッティはかつて率いていたパルマやユベントスを見ていればわかるように、カペッロ監督のような結果重視で勝ち点を確実に拾っていく手堅いサッカーを信奉する監督で、テリムのスペクタクル志向とは対局にある。つまり、この交代劇で急激な路線変更が行われたということを示すのである。政治家で言えば社会党から自民党に勝手に鞍替えするくらい無責任に映るのだが、実はこうした急激な路線変更は今に始まったことではないのである。 迂遠なことであるがミランの90年代を振り返ってみよう。

サッカーの改革者アリーゴ・サッキ
  90ー91年の監督はかのアリーゴ・サッキである。ゾーンプレスにオフサイドトラップといった世界最先端の戦術を駆使し、フランコ・バレージ、パオロ・マルディーニらイタリア人選手のテクニックとマルコ・ファン・バステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトらオランダ人選手のパワーを融合させ、スペクタクルと結果の両立したサッカーを実現した。また戦術面だけでなくアウェーでも攻撃サッカーを貫き、連日のハードなフィジカルトレーニングを導入するなどイタリアだけでなく全世界の監督のサッカー観に影響を与えた改革者である。
  だが87−88年スクデット、88−89、89ー90年チャンピオンズカップ優勝、89、90年トヨタカップ優勝という華々しい実績を持つ名将もここにきて翳りが見え始めていた。というのも90年ワールドカップの疲労、またタイトルを取り尽くしたことによるモチベーションの低下、選手の高齢化などで、サッキ流のハードトレーニング(何しろ一つのフォーメーションが完璧に機能するまで延々と反復練習するという)は辟易された。サッキはチーム改革が必要と考え、選手の入れ替えをベルルスコーニ会長に提案した。その中にはミランのこの黄金期を作り上げたファン・バステンとフリットの名前があった。一方、ファン・バステンとフリットもサッキの動きを察知し、ベルルスコーニに「俺達を取るか?サッキを取るか?」と迫った。ベルルスコーニは迷った。当時はまだサッキ・ミランの戦術に追随できるチームは無かった。それぐらい先進性があったのだ。しかしファン・バステンもフリットも世界最高クラスの選手であり彼らの代わりを見つけるのもまた至難の技だった。ベルルスコーニは結局選手の方を選んだ。とはいえ、かつて自ら抜擢したサッキとは良好な関係を続けていたかった。そこでイタリア・サッカー連盟会長アントニオ・マタレーゼとの人脈を生かし、アゼリオ・ビチーニ監督の後任としてイタリア代表監督にすべり込ませ、イタリア代表栄転という傷つかない形で解任したのである。

現実主義者ファビオ・カペッロ
  後任に抜擢されたのはミランのユース部門のスタッフだったファビオ・カペッロである。しかも監督は初経験。当初はその点が心配されていたが、サッキの場合選手経験が無かったため理論が先行し、理想主義に走ったが、カペッロは元イタリア代表選手であり、その経験から選手の意向を汲み取り、サッキ時代よりプレスとオフサイドトラップの使用頻度を減らし(それでも、まだ他チームと比べてミランの戦術は高度だったが)、選手の能力を生かすことを第一に考えた。これによりチームは蘇生し、この91ー92年は何と無敗でスクデットを獲得したのだった。
  翌92−93年はターンオーバー制(各ポジションに実力派の控え選手を置き、2チーム分の戦力を保持すること)を初めて導入した年として注目される。特に3つの外国人枠を巡る争いは熾烈を極めた。実質は稀代のストライカー、ファン・バステンとゾーンプレスには欠かせない守備的MFのライカールトの二人は不動のレギュラーであったため、残りの一枠をフリット、ジャン・ピエール・パパン、デヤン・サビチェビッチ、ズボニミール・ボーバンの4人で争わなければならなかった。しかし後半戦でファン・バステンが負傷による長期欠場(以降、プレーすることはなかった)を強いられ、得点力不足を懸念されたがパパンがその穴を埋め、他チームの追走を振り切ってスクデットを獲得した。
  93ー94年はフリット、ライカールトの移籍でオランダ・トライアングル解体の年となり、ファン・バステン不在の影響もあって深刻な得点力不足に陥ったが、熟成された守備陣の健闘により3連覇をなしとげた。しかもカペッロ念願のチャンピオンズカップ獲得のおまけもついた。カペッロはこれにより「サッキの遺産で戦っているだけ」という風評を払拭し、名将としての地位を確実にしたのである。
  94−95年はリーグ前半戦の不調によりミラン限界説が囁かれたがこれはワールドカップ疲労による小休止と考えるべきだ。それでも新エース、サビチェビッチの活躍とマルコ・シモーネの成長によりチャンピオンズカップは決勝まで進んだ。95ー96年はユベントスを追われたイタリアの英雄ロベルト・バッジョやリベリアの怪人ジョージ・ウェアを獲得しスクデット奪回を目指した。バッジョ獲得はフロント主導の人事であり、カペッロは同じファンタジスタであるサビチェビッチとの兼ね合いから使い辛そうにしていたが、ウェアの方はこの年バロンドールを獲得するなど大活躍で、黒人特有の高い身体能力を生かし、フリットの移籍、ファン・バステン欠場以降ミランが失っていた前線の力強さを復活させた。

タバレスの不運
  カペッロが採ってきたディフェンス・ラインを深くする(あくまでサッキ時代よりはだが)消極的な守備は、バレージ、タソッティ、ロベルト・ドナドーニら主軸の高齢化やオランダ・トライアングル解体というミランの現状に際して非常に妥当なものであり、5年間に4度のスクデットを招き寄せた。だがサッキ時代のスペクタクルが甘い思い出として脳裏をよぎるミラン・フロント陣にとって、カペッロのサッカーは退屈なものに映った。ベルルスコーニ会長の政治活動の間、運営を任されているガリアーニ副会長はカペッロに来季の契約は結ばないことを一方的に告げ、この非礼な扱いに怒ったカペッロはスペインのレアル・マドリーに転じた。
  後任として招聘されたのはカリアリでの攻撃的サッカーで評価を高めていたウルグアイ人オスカール・タバレス。また補強も万全であった。ここ数年ヨーロッパでのライバルだったアヤックス・アムステルダムからミハエル・レイツィハーとエドガー・ダービッツ、そしてフランスのボルドーからクリストフ・デュガリーを獲得した。彼らの存在が前年の優勝チームの選手層をより厚くしたのは言うまでもない。そして目玉はカペッロが躊躇し続けたバッジョのトップ下、サビチェビッチ、ウェアの2トップで、スペクタクルは間違いなしと評価された。しかし、いざ蓋を開けてみると、この魅惑のトライアングルは守備陣への負担が大きいと不満が続出し、やがて堅守を誇ってきたミラン守備陣は崩壊した。これによりタバレスはトライアングルを否定し以前のような2トップに戻すが、思うように勝ち星が上がらずシーズン途中で解任されてしまった。タバレスが前任者達に比べ紳士的すぎたからアクの強いスター選手達をまとめきれなかったという声はあったが、優勝するだけでも難しいのにスペクタクルまで求めてしまったフロント陣の傲慢が諸悪の根源である。

復帰してはみたものの
  後任にはあの男が帰ってきた。アリーゴ・サッキ。94ワールドカップではイタリア代表監督としてアズーリを決勝まで導いたが、96年ヨーロッパ選手権では自身の采配ミス(2戦目チェコ相手にレギュラーを温存した)で本戦予選敗退を喫し、解任は時間の問題とされていたが監督の座にしがみ続けていた。人々はサッキのこの行為を次の就職先を探すための時間稼ぎだったと囁きあった。フロント陣にしてみれば待望の監督復帰だったが、現場にとっては重病の患者に劇薬を与えるに等しかった。いきなりチャンピオンズカップのローゼンボリ(ノルウェー)戦しかもホーム、サンシーロで思いもよらぬ敗戦を喫し、クリスティアン・パヌッチはサッキを嫌がってレアルのカペッロの後を追い、バッジョは代表時代の因縁により案の定干された。このシーズン、ミランは中位に沈んだ。
  前年の結果を受け流石に考え直したのか、ガリアーニはレアルのカペッロに頭を下げ復帰を請うた。カペッロはスペインリーグ優勝監督という実績を引っさげ堂々とミランに凱旋したのだった。補強もカペッロのリクエストに基づいて行われた。予想通りバッジョは放出され、代わりにクリスティアン・ツィーゲ、ビンストン・ボガード、イブラヒム・バー、レオナルド、パトリック・クライファートらがミラン再建の期待を担ってやって来た。ただし、この時のミランは問題が山積みだった。パヌッチやレイツィハーの後釜となる右サイドバックが開幕以降も補強できず、やむを得ず世界最高の左サイドバック、マルディーニを右に回したが、不慣れな右サイドで酷評された。引退したバレージの穴も埋まらず、新戦力もレオナルド以外は皆、期待を大きく裏切った。各ポジションに世界最高クラスの選手が予め揃っていたかつての交代時とはあまりにも状況が違っていたのだ。終わってみればミランは2年連続で中位に止まることとなった。

3バックブームの立役者ザッケローニ
  98−99年、ミランはカペッロを解任し、ウディネーゼで3−4−3という攻撃的システムを成功させ、セリエAの3バックブームの立役者として脚光を浴びていたアルベルト・ザッケローニを招聘した。ただしフロント陣は2年続けて優勝争いに参加できなかっただけに、この年を準備の年と捉えていた。ザッケローニは得意の3−4−3をミランにも持ち込んだが、長年4−4−2に慣れ親しんできたミランの選手は戸惑った。例えばウェアはザッケローニがウディネーゼから連れてきた長身FWオリバー・ビアーホフによって左ウイングに回され、左利きのレオナルドは逆に右サイドに回された。選手起用も実績のあるなし関係なくボーバンですら戦術に合わないという理由でベンチ行きを命じられた。妥協を許さないザッケローニであったが、サッカーとしてはイマイチ機能していなかった。ところがアクシデントが起こる。右サイドのレオナルドの負傷によりシステムを3トップから2トップ+トップ下ボーバンに変更したのだ。これによりミランは試合内容も格段に良くなり勝ち星を上げ続け、クリスティアン・ビエリなど豪華な戦力を揃えた最強ラツィオの終盤戦での失速もあり逆転でスクデットを獲得したのだった。
  99ー2000年は新加入のアンドリー・シェフチェンコがいきなり得点王を取ったという以外、ミランにとってこれと言って見所の無いシーズンだった。前年のスクデットはやはりまぐれだったと言わざるを得ない。ザッケローニの戦術への固執ぶりも相変わらずで、シェフチェンコでも当初はザッケローニに3トップ不適格と判断されてサブに回されたこともあった。3−4−3への固執、不可解な選手起用など、フロント陣はザッケローニへの不信を高めていき、解任の一歩手前まで来たこともあったが、選手に擁護されたり、肝心の試合で勝つなど、更迭という事態に至るには次のシーズンを待たなければならなかった。

消費される監督たち
  ここまで見てきたようにミランの監督に求められるサッカーは、スペクタクル(サッキ)→堅実(カペッロ)→スペクタクル(タバレス、サッキ)→堅実(カペッロ)→スペクタクル(ザッケローニ)→堅実(C・マルディーニ)→スペクタクル(テリム)→堅実(アンチェロッティ)と見事なまでに順繰りになっているのである。驚くべきテリム解任事件もミランのこのサイクルの1ページにすぎないのだ。
  しかし、どんな内容のサッカーをやっていたとしても結局ほしいのは勝利だけなのである。勝利を積み重ねスクデットを取ればチャンピオンズリーグに出場できる。そして莫大な収入が入る。だからこそ勝たなければならない。その点、やはりスペクタクルなサッカーを求められて招聘された監督は不利だ。というのもDFラインを積極的に上げ、前線へのフォローやサポートを分厚くし、ボールを支配して、テクニックのある選手を生かすというサッカーは熟成には時間がかかるし、後方にスペースを開けてしまうから、どうしても失点が多くなってしまう。私の予感ではテリムの後任であるアンチェロッティは成功するだろう。彼は魅せることは考えず、ひたすら勝ち点を拾うことだけを考えていればいいのだから。そしてまた成功したらしたでアンチェロッティは貪欲なフロント陣に解任され、別の監督にスペクタクルを求めるのである。監督達はそうして消費されていくのである。
 大変、遅ればせながらテリム解任事件に関して結論をここで一つ。
 スペクタクルより勝利が好き。これがテリム解任事件の深層である。

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