佐伯屋
海外コンプレックス
平成13年12月2日浦和レッズと私・ひとまず完結編

浦和新時代
 すでに確立された浦和サッカーの枠組みを一度破壊して新浦和サッカーを構築しようとしたのがかつての「アジアの核弾頭」原博実だった。ブッフバルトの引退により一時代が過ぎ、将来の日本代表10番と嘱望される新時代のヒーロー小野伸二を獲得できたことから、原監督はブッフバルトの存在によってできなかったDFラインを押し上げて前線からプレスをかけ、ボールを支配して主導権を握る攻撃サッカーを意図した。システムは4−4−2。小野をトップ下に配置しいきなり主軸選手としての役割を与えた。
 しかしチームは機能しなかった。左サイドバックにボランチの土橋、ワンボランチにアタッカーの福永(オジェック政権時に経験があった)起用は意味がついに見出せなかった。折角の小野も両サイドのペトロビッチとベギリスタインが積極的に上がるためバランスを重視して後方に下がらざるを得ない。元スペイン代表でヨハン・クライフ時代のFCバルセロナに所属していたベギリスタインは小野を「日本のデ・ラ・ペーニャ」とかつてのチームメイトであるゲームメーカーと同様に評価し、左サイドのコンビネーションは抜群だったが、右サイドのペトロビッチとは両者とも認め合ってはいるのだろうが意思疎通がなく、右サイドではペトロビッチの運動量と積極性に対し小野の活動量の少なさ、消極性が目立つ結果となってしまった。またFWの岡野と大柴の「野人」コンビは二人ともディフェンスラインの裏のスペースを必要とするタイプで前線でボールキープできず、カウンターは行きっぱなしで2次攻撃が出来ない、よって後方からラインを上げられないという悪循環に陥った。原監督は攻撃サッカーをあきらめ以前のようなカウンターに戻し、ボランチに石井を抜擢し、FWも岡野から福永にスイッチした。石井が堅実な守備とリズミカルな繋ぎで名を上げ、福永はキープ力を発揮して前線でタメをつくる。それにより2次攻撃が機能し、後方からのパッサーの役割のみを強いられていた(それでも解説者は盛んに視野が広いだの何だの絶賛していたが)小野が前線へ走り込むチャンスが増えファンタジーを発揮できるようになり活躍。小野は当時18歳ながら98フランス・ワールドカップ・メンバーに選ばれジャマイカ戦でワールドカップデビューを果たした。

バスケ部所属、サッカー趣味
 私と小野伸二は一歳しか違わないから親近感がある。とはいえ私と小野では住んでる世界があまりにも違う。小野がワールドカップで戦っている頃、私は高校3年でバスケ部にいた。私がバスケ部所属でサッカー趣味というのは自己紹介の度に疑問がられ、訊かれる度に面倒臭い説明をさせられるから、ここで一度その理由を表明しておく。私がバスケットと出会ったのは小学4年の頃で、友達に誘われて校内のクラブに入った。練習は誰よりも真面目に出ていたから、そのおかげで校内の同年代の選手よりは抜きん出た力を持てたので6年時には頼りないながらキャプテンになった。ただ後悔していることは、その頃に右手だけでなく左手のドリブルやシュートも練習していれば、中学、高校の頃に苦労することなく、大阪選抜入りもありえたかな?(笑)と思うのである。私が右手のプレーしかないのは高校の部内では常識である。「黄金の右手」と言えば聞こえは良いが、左手が使えないことの裏返しである。中学時代も小学校時代の延長でキャプテンをやらせてもらい生徒会副会長も兼ねて中学では知らない人はいない有名人だった。一方サッカーもプレー自体は好きだった。昼休みのクラス大半によるサッカーは楽しみだったし、体育ではクラス対抗戦があって私はDFで強烈な当たりと素早い読みでサッカー部連中を苦しめたものだ。でも、それ以外の素人には嫌がられ時折荒れたゲームにもなった。バスケットではそれなりの地位は築いたが、サッカーではただ荒っぽいプレーしかできなかったからバスケットを選んだのは必然である。

断末魔が待っていようとは
 夏休みまでバスケ部に残っていたから、大学受験の本格的な勉強はそれからとなり、予備校や塾にも通えず周囲とは比べて大いに出遅れた。高校の卒業式の頃、クラスのほとんど全員が進学先が決まっている状態でみんなといっしょに喜んでいられる状態ではなかった。クラスメートの「頑張れ」との励ましも内心では「ざまあみろ」という意味も含んでいるものだ。自分だって合格していて他にそうでないヤツがいればそう思うだろう。誰も助けてくれるわけではない。受験は試験場にいるヤツ全員がライバルの孤独な戦いである。私は予備校通いなしで現在在学中の京都の某大学に入学できて得していると思う人もいるだろうが、公募推薦や一次試験で結構な金を使ったから、ご褒美に買ってもらえるはずだったパソコンは買ってもらえなくなった。
 さて99年の浦和だが前年セカンド・ステージ3位なら翌年は優勝候補に挙げられるのは当然である。このシーズン大学得点王に輝いたこともある大学サッカー界の雄、盛田が満を持してJ1に参戦した。盛田は188センチの長身に原監督の現役時代のプレースタイルそのままの強力なヘッドを武器とし、足技と敏捷性にも侮れないものを持っていた。原監督は自身のかつての姿をダブらせたのかもしれない。そして小野が五輪とフル代表の掛け持ちとなることを予測し小野不在時を想定した、盛田にロングボールを一度当ててから攻撃を展開する戦術を構想した。しかしこの「盛田システム」は小野存在時も小野の頭上を越えてロングボールが行き交い中盤は作れない。この頃小野は「自分はこのチームには必要ないんじゃないか」とまで悩んでいた。また選手には適当に最終ラインでパスを回してからロングボールというぐらいにしか理解されず攻撃オプションの増加には繋がらない。ターゲットになるべき盛田も新人ながら浦和のセンターFWを務めなければならないという重圧に潰された。成績は下降線を辿り、第2ステージがあるさと思っているうちに、どんどん負け続け、外野からの非難の声が大きくなったところで原監督はセカンド・ステージで志し半ばにして辞任した。浦和フロント陣にとっては昨年の実績があったし三菱時代からの生え抜きだったから長い目で見ようとしていたのかもしれないが、更迭すべき次期はとうに過ぎていたと言わざるを得ない。

J2に落ちるということ
 以前まで普通にやっていれば中位にはいれたはずの浦和は、いつの間にか2部降格争いのレースに参加しなければならなくなるまで落ちていた。
 原監督の後はオランダ人のア・デ・モスが継いだが、短期で、しかも日本と浦和のサッカー事情を知らない監督ではギャンブルであった。ア・デ・モスに責任の全てを押し付けるのは無理があるが、11節ヴィッセル神戸戦の敗戦で自ら首を絞め、その後2勝して安全圏到達と見られたが、14節川崎戦で痛い引き分けを喫し、再び崖っぷちの土俵に立たなければならなかった。
 忘れもしない11月27日の広島戦。浦和はこの試合を90分で勝てばJ1残留であった。しかしホーム駒場という重圧のためか点が取れない。ア・デ・モス采配にも疑問点があった。彼は浦和の象徴でもある福田を81分まで温存したのだ。サポーターも福田自身も苛立ちを隠せなかった。得点が入ったのは延長に入ってから。106分「ゲット・ゴール」福田。普通なら歓喜のVゴールだが、もう哀しみにしかならなかった。赤い悪魔は断末魔と遭遇してしまった。この時、新人の池田学がうつむく福田に笑顔で飛びついたことには何も言うまい。自分でも十分恥じているだろうし、セルジオ越後、金子達仁氏の対談本『予感』(2000年、ザ・マサダ刊)でも責められている。紹介ついでにJ2に落ちるとはどういうことか、この本で鋭く指摘しているので引用したい。

越後  ボクが驚いたのは、試合が終わってすぐに「来年こそは頑張ります」って言っている選手がたくさんいたこと。チームが2部に落ちたら、普通はリストラされるかもしれないって考えるもの。それなのに自分で、勝手にチームと契約を結んでるんだから。

 今年J2に降格したアビスパ福岡の三浦泰年選手がテレビニュースで「1年で上がろう」とコメントして悔しさを訴えていたが、私は同情よりむしろこの越後氏の言葉を思い出さずにはいられなかった。

浦和についてまわるオジェック時代の思い出 
 J2落ちした2000年の浦和の監督にはJリーグ初年度の森孝慈監督の前任である斎藤和夫が再び就任した。斎藤監督はJ2で川崎フロンターレの指揮を執ったこともありその経験を買われたのだろう。システムは原監督時のような4−4−2のゾーンディフェンスを採用。J2ではどのチーム相手でも浦和より選手の能力が劣るのだからカウンターよりもボールを支配して主導権を握る攻撃サッカーが求められた。
 シーズン開幕。浦和は期待に違わず開幕8連勝と貫禄を見せたが組織としては機能していなかった。それでも昨年の大半のメンバーが残留し、補強でも鹿島から長身ストッパーの室井と、名波タイプの左利きのパッサー阿部を獲得し戦力では他チームを大きく引き離していたから、最初のうちは大丈夫だった。だが、シーズン半ばに入ってくると、快足FWエメルソン(現浦和)を擁し手堅い組織的な守備を浸透させた岡田監督率いるコンサドーレ札幌の後塵を拝し、それ以外の格下にも守りを固められて個人技では打開できない試合が続く。そして浦和の後ろからはウィル(現札幌)、加賀見(現FC東京)、吉田、アンドラジーニャの強力カルテットを持つ大分トリニータが迫っていた。そこで斎藤監督は解任というわけではないが現場に横山謙三ゼネラル・マネージャーが乗り込んできて総監督として采配を執ることとなり、3−5−2のマンツーマンディフェンスというオジェック時代そのものに戻して以降、浦和の何人かの選手が「役割がはっきりしてよかった」と発言していたように持ち直し、最終節サガン鳥栖戦の土橋の劇的なVゴールにより1年でのJ1昇格が決まった。
 斎藤監督には私は同情する。横山総監督+フラビオ・フィジカルコーチの前に実権を奪われ、解任されるでもなくベンチに座らされ続けた。選手にコーチングするにも、苦戦の原因という負い目があるから言いたいことも言えないだろうし、選手にしても不信感のある監督の言うことなどまともには聞けない。この不可解な人事は斎藤監督の経歴に「辞任」「解任」という傷をつけないようにした配慮としか思えない。浦和フロント陣の派閥がどうのこうのと首を突っ込む気は毛頭ないが。

選手のタイプに偏りのある浦和
 それ以上に私が同情することがある。98、99年の原監督にしろ、斎藤監督にしろ浦和サッカーを前向きに改革しようとしたが失敗したことだ。二人とも産みの苦しみを味わい結果を出せずに辞任に至った。浦和サッカーとは3−5−2、マンツーマンディフェンス、スピーディーなカウンターという3点セットつまり95、96年にオジェック監督が築き上げたスタイルなのだ。しかし、このサッカーは浦和を「お荷物」時代から脱却させ上位には入れても、V川崎や鹿島、横浜M、磐田などとがっぷりよっつに組んで優勝を争えるサッカーではなかった。だから原、斎藤の両監督そして今季ブラジルから来たチッタ監督も、浦和を次の段階へステップアップさせようとした。優勝するために。しかし監督以外の選手やフロントが浦和新時代のサッカーに対応できなかった。
 浦和の選手名鑑を見ていると選手のタイプに偏りがあるのが見受けられる。特にセンターバックとFWだ。ここ数年の浦和センターバックを振り返ってみると西野、田畑、小島、渡辺、三本菅、室井、池田学、川島、岩本など皆180センチ以上でヘディングが強くマンマークに優れたストッパータイプなのだ。彼らと違うタイプを求められるとすぐ海外(ネイハイス、ザッペッラ、ピクン)や他チーム(中村忠、路木、井原)の選手を頼り、自前で育てることはしない。FWでも福田、岡野、福永、大柴、永井、田中、トゥット、エメルソンとスピードが重視される。つまり新時代のサッカーをやろうにもカウンター向きのメンバーがすでに揃っていて齟齬をきたすのである。浦和スカウト陣および最終的な選手獲得の決定を下すフロント陣には、やはりオジェック時代の甘い思い出が残っていて、だから選手のタイプが偏ってしまうのだ。浦和のフロント陣は「オジェック時代」という後ろではなく「未来」という前を向く必要があるのではないか。現場の監督が要求する選手には耳を傾けてほしいのである。

参考文献
『週刊サッカーダイジェスト・Jリーグ選手名鑑』95〜2001
『浦和レッドダイアモンズ公式サイト』http://www.urawa-reds.co.jp/

TOPBACK