佐伯屋
海外コンプレックス
遂に来た「本物」
 浦和レッズの横山監督はこう言ったという。「本物がやってきた」と。興奮する気持ちは大いにわかる。それだけの期待を抱かせるのに十分な実績を持つ選手だ。横山監督の言った「本物」とは言うまでもなく90、94年ワールドカップ出場、90年には決勝でディエゴ・マラドーナを抑えたストッパー、ドイツ代表の壁ギド・ブッフバルトである。そして、忘れてはならないのがブッフバルトともにやってきた元ドイツ代表MFにして「死のパス」の代名詞を持つスルーパスの使い手ウーベ・バイン。
 
彼らの加入の効果は早速現れた。手始めはナビスコ・カップ1回戦の鹿島戦。バインはコンディション不良でまだ片鱗を見せるに止まったが、ブッフバルトは守備的MFとして登場し鹿島の94W杯ブラジル優勝メンバーのレオナルドが霞んでしまう活躍を見せた。アルシンドが、黒崎が、長谷川が、浦和に苦戦を強いてきた選手達がギドの壁に跳ね返されるのを見て私は興奮した。ただ今思えば選手が一人替わっただけでチーム状況が劇的に変化してしまう程度のリーグレベルであったことの証左でもあった。
 
しかしブッフバルトを守備的MFに置く3−5−2はナビスコ・カップ2回戦のG大阪戦とニコス・シリーズ開幕戦の横浜M戦では機能せず両試合とも3失点。当時の『週刊サッカーダイジェスト』の速報で確かナビスコ・カップの鹿島戦とG大阪戦の両方の記事が書いてあったと記憶しているが、ガンバ戦では鹿島戦とはうってかわってブッフバルトは「何もしていなかった」と書かれてしまう酷評ぶりだった。
 そして横山監督はこの2敗の結果を受けて第2節の清水戦からブッフバルトをリベロにコンバート。すると守備は安定し始めた。ブッフバルトの闘志を前面に押し出すプレーに引っ張られて清水戦では周囲も好プレーを見せ始めた。左ウイングバックの杉山は対面の元日本代表右サイドバック堀池を何度か抜き去り、岡野と佐藤慶の2トップもそれぞれスピードと高さという特徴を発揮し清水DFを攪乱。そしてルムメニゲが同国のライバル、バインの登場で危機感を持ちこの試合ではアクロバティックなボレーを決めた。この試合を見た限りでは浦和の将来は明るいものに見えた。

「サッカーで飯が食えるか!!」
 中学2年となり、私もクラス内では随一のサッカー趣味者として認知されるに至っていた。友達も何人かはサッカー趣味に引きずり込んだ。『サッカーダイジェスト』はついに毎号買うようになり、更に創刊当初は『サッカーダイジェスト』の増刊と銘打っていたが実質は月刊の『ワールドサッカーダイジェスト』も創刊し、カズがセリエAのジェノアに移籍したこともあって、イタリアサッカー中心の内容であったが、当時から各国代表改造論とか、元イタリア代表で現在解説者のアルド・セレーナ氏によるインタビュー「スーパースター・クラブ」(日本のスポーツマスコミのインタビューアーは質問内容やコメントの引き出し方を本当に参考にして欲しい)、マーティン・ヘーゲレ氏(ドイツスポーツ・ジャーナリズム界の重鎮。アジアのサッカー事情にも詳しく、現在でもドイツ代表やブンデスリーガの選手のインタビューを一手に引き受けている)の社会派ネタなどマニア受けする内容で他誌とは一線を画していた。この雑誌が受け入れられるかどうか半信半疑だったから当初は「増刊」だったのだろう。
 だが、月の小遣い千円の身では週刊と増刊の両『ダイジェスト』を買うには苦しかった。そこで当時の両『ダイジェスト』に付録ポスターを友達に300円から400円ぐらいで売って何とか代金を稼いでいた。オランダ帰りですぐ日本代表になった小倉隆史、ベンフィカ・リスボンのクラウディオ・カニーヒア、ユベントスのロベルト・バッジョなどが高く売れた。今思えば本当に阿漕な商売である。付録ポスターは毎号ついてくるものだから売ってもすぐたまるし、私は部屋の壁と天井一面にびっしりと隙間無く張っていた。おかげで6畳の部屋は少し狭く感じられ、来る友達皆が口をあんぐり開けて帰っていったものだ。しかし今年4月に家を改装したためバッジョだ、デル・ピエロだ、バティストゥータだといった私の「ポスター部屋」は全て剥がされ純白の壁紙によって綺麗に張り替えられた。
 しかし、私のサッカー趣味は非難もあった。雑誌は溜まる一方で置き場所に困る有様で、部屋の掃除の度に母親を困らせた。この悩みは今も変わらない。今の方が小金を持てるようになり本の購入量が増えたから余計にタチが悪い。また特に怒られたのが勉強そっちのけで各チームのフォーメーションをいらなくなったプリントの裏に書いてしまうことだった。最強の日本代表はこうだとか、来年のミランは4−4−2だとかいったふうに。これをやると本当に時間が潰れていく。だが定期試験期間中に見つかるともうどうしようもない。ついには「サッカーで飯が食えるか!!」とまで母親には言われた。勿論私が悪いに決まっている。それ以上でもそれ以下でもない。同ページの時評『意味なし芳一』第1回でも書いたが、人の「個性」など現実生活の前に尊重されなくて当然なのだ。やりたいことをやれるのが人生ではない、やるべきことをやるのが人生なのだ。勿論この純粋まっすぐな多感な中学時代にそんなことを理解できるはずもなかったが。

名将の采配、ファンタジスタの復活
 
話は浦和へ。「本物」達の加入も強烈なインパクトこそ残したが浦和を浮上させるには至らず12チーム中11位で終わった。志が低かったのだろうか。セルジオ越後氏が『ダイジェスト』の名物コラム「天国と地獄」でニコス開幕の前、浦和の首脳陣が優勝宣言せず下位からの脱出を目標としていたことに「W杯選手に失礼だ」と批判していて、その通りだったのかもしれない。
 翌年、ドイツからホルガー・オジェック(現カナダ代表監督)が監督として招聘された。オジェックはドイツが優勝した90年ワールドカップの時に「皇帝」フランツ・ベッケンバウアー監督の下でアシスタント・コーチを務め、トルコ・リーグの強豪フェネルバフチェ・イスタンブールを経て浦和にやって来た。
 補強は特に行われなかった。浦和の中盤を支えた浅野はレンタル期限が切れて名古屋グランパスに戻った。ブッフバルトがいるとはいえ戦力的には前年よりマイナスと評論家には評価されていた。オジェックは与えられた戦力を吟味した上で、マンツーマン・ディフェンスで守備を安定させFWのスピードを生かしたカウンターを狙うという明確なコンセプトを打ち出した。95サントリー・シリーズ、浦和は6節のベルマーレ平塚戦までオジェック戦術がフィットせず試行錯誤を繰り返していた。5節には「お荷物」仲間の名古屋戦でまたもや伝説をつくった。お互い全部で14回も蹴ったPK戦。両チーム10人蹴っても決まらずGK田北(後に田北は福田不在時には正PKキッカーを務めた)と伊藤までがキックし、止めて止められ外し外されの大攻防。ついには1巡してなおも決まらず、やっと最後にブッフバルトが外し激戦に終止符が打たれた。私はこの伝説の試合をテレビでだが目撃できたことを非常に嬉しく思っている。しかし、それにしても「お荷物」と蔑視されていた両チームがこの先躍進するとは予想だにしなかった。
 名古屋は日本サッカー協会が次期代表監督として今も恋い焦がれるアルセーヌ・ベンゲル(現アーセナル監督)、浦和はオジェックと、それぞれ名将に率いられ徐々にであるが片やモダンサッカー、片やカウンターと高度な戦術に適応していった。そして、この両チームの躍進には二人のファンタジスタの復活なくしてあり得なかった。一人は説明するまでもなく名古屋の「ピクシー」ドラガン・ストイコビッチ、そして浦和はバインだ。コンディション不良に苦しんでいたバインが7節のセレッソ大阪戦から息を吹き返したことでカウンターがやっと機能するようになった。岡野は「目が合えばスルーパスが出てくる」とバインの凄さを絶賛していた。軸が固まれば若手が伸び伸びできる。浦和は当初、懸念されていた浅野の穴を新卒の土橋が埋め、右サイドではユース代表の山田が定着して以降現在までレギュラーを明け渡していない。ベテランも負けてはいられない。元々スピードがあり得点力のあるMFだった福田が純粋なストライカーにプレースタイルを変え、特にペナルティエリア内でPKを誘うドリブルは威力を発揮し、自らPKを決めることによってゴールを量産した。ニコス終了後にはメディナベージョ(横浜M)、スキラッチ(磐田)、エバイール(横浜F)など外国人ストライカー達を差し置いて得点王に輝いた。かくして浦和はサントリー・シリーズ3位と前年の順位からは考えられない躍進を果たしたのである。

オジェックが現在の浦和の基礎をつくった

 95サントリーでの躍進がまぐれではないことは確かだった。最早、浦和は「お荷物」の印象を払拭し、J最高の観客動員(アウェーでも地元浦和から観光バスで駆けつけ相手チームの観客を上回った)と熱心なサポーター(時として事件を起こすこともあるが)を持つ強豪の一角として認知されるに至った。ただ強豪になった分、他チームから警戒されるのは当然である。そこで相手がカウンターサッカー対策でDFラインを深くされるのを見越してか、95ニコスからミランのマッサーロ加入によって弾き出される形となった清水の長身ストライカー、トニーニョを加入させた。しかしトニーニョは浦和のスピーディーなカウンターに適応できず岡野にFWの定位置を譲り、以降ストッパーとしてプレーした。
 ここで浦和ファンでも覚えているかわからない外国人選手の例をあえて出したのは、それだけこの時のオジェック戦術が、一人選手が変わっただけではびくともしないほど強固なものになっていて、すでに浦和のアイデンティティーとして確立されていたことの証明のためである。オジェックは浦和にとって功罪のうちの「功」の多い監督であるが、時代が進むにつれ仇になる場面も出てきた。例えばオジェック政権、次のホルスト・ケッペル政権でも、浦和の負け試合のパターンはカウンターが封じられ、苛立ったブッフバルトがリベロの位置から攻撃参加を始め、それによってバランスの崩れた守備を突かれて失点というパターンである。かといって遅攻に向くポストプレーヤーを起用するにしてもトニーニョのようにスピード不足を露呈して適応できない。スピード、フィジカル、高さ、そしてポストプレーもできる完璧なタイプのFWは世界でもなかなかいない。浦和でそれに近いFWは97年ファーストステージ開幕戦、しかもJリーグデビュー戦だった横浜M戦で井原、小村の当時代表レギュラー・センターバックコンビを翻弄した永井雄一郎であるが、彼とてスペースを必要とするタイプのドリブラーである。それでも永井が登場したとき私は浦和の将来も日本代表の将来も安泰だと思ったものだ。

熱さの消えた浦和
 ホルスト・ケッペル時代97年の浦和は当時新卒19歳の永井が台頭してきたこと以外あまり記憶に残っていないシーズンである。オジェック時代とはほとんど変わらないカウンターサッカーで、シーズン当初に引退を囁かれたブッフバルトも現役続行して闘志溢れるプレーを見せていた。前線のスペースを目掛けてダッシュするだけで観客を熱狂させる岡野は日本代表に定着した。福田、田北、堀、広瀬らベテランも健在。山田、土橋、福永、大柴ら若手も確実に力を付けている。なのに、どんなヘボゲームでも勝ちそうになっただけで喜んでいた「お荷物」時代、虐げられてきたチームが虐げてきたチームを倒すのを見て興奮していた「躍進」時代とは違い、何か熱いものが感じられなくなっていた。監督がケッペルだからか、司令塔が芸術性のあるバインから堅実なMFタイプのオーストリア人のミハエル・バウアーに変わったからか。決してそうではないと思う。浦和は強くなった。「お荷物」時代とは隔世の感だ。しかし、かといって優勝できるレベルでもない。普通にやっていれば中位に落ち着く。そうした安心感が私からスリルを奪ったのか。だが、そういう時代が良かったと後悔させられる日が来ようとは・・・。

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第2回・平成13年11月29日
浦和レッズと私・後編