第1回・平成13年11月25日
浦和レッズと私・前編

Jリーグブームに乗り遅れる
 現在でこそバスケ部出身のサッカー趣味者として、自己紹介の度に不思議がられる存在である私だが、いつからこうなったかと言えば、それほど遠い昔のことではない。
 1993年4月にJリーグが開幕した。その当時、私は中学1年だった。クラスの友達のほとんどがヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)やら横浜マリノス(現・横浜Fマリノス)、ガンバ大阪などのグッズを持ち、カズがどうした永島がどうだったと、水曜日と土曜日に行われるゲームの話題で持ちきりだった(嗚呼、学校からの帰り道に万博競技場からチェアホーンの音が聞こえてきた時代が懐かしい)。昼休みの遊びも、荒っぽい上級生に運動場の隅の狭い陣地に追いやられながらも、ハンドボール用の小さいゴールでクラスの男子大半はサッカーボールを追いかけていた。サッカーをすること自体は別によかったのだが、私はむしろ1985年に阪神が優勝して以来の野球ファンだった。しかも当時のマスコミ特にテレビはJリーグブームによる野球人気の低迷を煽り、サッカー派と野球派を対立させるような報道ばかりしていたから、その影響もあってJリーグは避けていた。よって私は流行に乗り遅れたのである。

奇妙なマスコミ報道
 今思えば、現在のマスコミのスポーツ報道も相当に変だが、当時のプロ野球とJリーグを対立させる報道の仕方はかなり変だった。私は今でも阪神ファンであることは変わらないしサッカー趣味者である。多くのスポーツファンは私と同様、それぞれのスポーツにひいきのチームや選手を持っているはずであり、決して択一をしなければならないものではない。周知の通りJリーグブームも2年後には去っていき、巨人のカリスマ長島監督によってプロ野球人気は復活した。Jリーグとプロ野球、プロスポーツ同士、集客という点では競争相手だが、互いに学び向上すべきところがあり、日本のスポーツの強化、スポーツ文化の発展という目的を持って共存していくべきなのだ。なのに、なぜこんな報道をしていたのか。日本とイラクが引き分けた、あの94ワールドカップ最終予選の時に、日本のワールドカップ初出場が断たれて大喜びした某スポーツ新聞の野球担当記者がいたという。マスメディア業界で現在でも主導権を握っているのは少年時代に長島茂雄の全盛期をリアルタイムで見てきた所謂「巨人、大鵬、卵焼き」世代つまり今の50代である。彼らには古き良きプロ野球文化つまり巨人文化が刷り込まれており、プロ野球=巨人で食べてきたマスコミ業界人にとってJリーグブームは仕事を奪われるかもしれないという危機感を与えてしまったのだろう。

野球ファンのプライド
 しかし、それでも私は流行に否応なく流行の渦に巻き込まれていく。私の身の回りにはJリーグの情報で溢れかえっていた。「ニュースステーション」のようなニュース番組だけでなく、昼間の主婦向けのワイドショーでもサッカー特集が組まれていた。まだ当時、購読していた小学館の「コロコロコミック」でもJリーグ特集が組まれ(コロコロで私は初めてロベルト・バッジョの名前を知った)、サッカーマンガの連載も始まった。コロコロにはサッカーチップスのカードカタログやミニ選手名鑑もついていたことがあったから、クラスの友達世間で話題に上がっている選手の名前を確認することが出来た。徐々に私の頭の中にサッカー知識が蓄積されていき、そして図書館でだが『週刊サッカーダイジェスト』を手に取るようになってしまうまでに至った。しかし、クラスの友達世間の話題にハイスピードでついていけるようになった私であるが今更Jリーグのどこどこのサポーターですと言ってしまうのは、阪神ファンとしてJリーグを認めて来なかったプライドが許さなかった。とはいえ、そこで場の話題が止まってしまっては皆が興ざめするから、一つぐらい応援するチームが欲しかった。そこで絶好のチームを見つけた。その名はACミラン。世界最高峰イタリア・セリエAのトップチームであり当時の世界最強チームの一つであった。間違いなくJリーグのどのチームよりも遙かに強く、馬鹿にされることはないし、当時は「ダイジェスト」を読んでなければ情報の入ってこないチームであった。以降、私は「どこのサポーター?」と訊かれれば「ミラン」と答えた。相手に反論の余地はない。ここではじめて告白するが私がミラニスタになったのは権威主義からである。

浦和レッズとの出会い
 このようにJリーグでは応援チームを持たなかった私であるが、1つだけ興味の沸いてきたチームがあった。浦和レッズ。Jリーグ初年度のチームは日本リーグでもそれなりに強く、チーム組織の整っていたチームを選んでいたのに、あまりにも弱いため川淵チェアマンが不安になり改善勧告を出したり、珍プレー番組で浦和の選手がゴールを決めて陸上トラックに出て選手と監督以下ベンチスタッフ全員で喜んでいる間にゲームが再開していて浦和の選手全員慌てて自陣に戻ったものの相手にゴールを決められたというお笑いシーンや、川崎戦でラモス瑠偉とビスマルクにヘディングによるワン・ツーパスの応酬で約30メートルを走られ、それを後ろから必死に追走している浦和の選手といった情けないシーンばかり記憶に残っていた。どんなサッカーをしていたら、こんなに弱いのだろうかと私は興味をそそられ、以降、浦和戦を特に注目して見るようになった。

Jリーグ開幕当初の浦和
 後で勉強してわかったのだが、93サントリーシリーズ開幕当初の浦和は意外にそれほど弱いチームではなかった。日本リーグ時代の名門・三菱を母体とするチームであり、日本代表エースでもある福田正博を筆頭にそこそこ能力のあるメンバーを揃えていた。92年のナビスコカップ・ベスト4の実績で鹿島やG大阪などより下馬評は高かったぐらいである。86年ワールドカップ予選で日本代表を率い「ドーハの悲劇」のオフト・ジャパン以前にワールドカップ出場に最も近付いた森孝慈監督が「アグレッシブサッカー」をスローガンに3−4−3システムを採用。GKは土田。DFは右から村松、トリビソンノ、田中。MFは望月が中盤の底に入り、右に名取、左が広瀬。司令塔にモラレス。FWは右にフェレイラ、左に福田、中央に柱谷幸一が陣取る。外国人は3人ともアルゼンチン国籍であったが、森監督が留学したこともあるヨーロッパ志向のスピード重視のサッカーを意図した。
 しかし、いざ開幕してみると誤算が続く。開幕戦で柱谷が負傷しポストマン不在により前線でボールキープできず森監督の意図する攻撃が出来なくなった。次に外国人選手もモラレスはボールの持ちすぎ、フェレイラは運動量不足を指摘され僅か2試合で解雇。そして怪我人の続出。それでも、レギュラーの代わりに池田伸や河野といった若手が出番を得て活躍したが彼らも後に負傷による長期欠場を強いられ、本来のメンバーがなかなか揃わず、頭数を揃えるため違うポジションに起用されたり、酷いときにはJリーグとサテライトの往復を強いられた選手もいた。だが、こうした状況にも、浦和フロントはディエゴ・マラドーナ獲得の噂が流れる景気のいい話はあった(嗚呼、この頃はバブルが弾けたとはいえ、まだどこのチームにも資金力があった)が、このシリーズでは無策であり新戦力の補強はニコスシリーズまで待たなければならなかった。

浦和の迷走は続く
 ニコス・シリーズに入り待望の外国人補強がなされた。しかし浦和の問題点はDFラインであったにもかかわらず獲得したのはFW。ブンデスリーガMVPに輝いた実績を持つドイツ人センターFWウーベ・ラーン。森監督の希望もあったのだろう、当初のアルゼンチン体制は否定され、ヨーロッパ体制に移行した。ただ、やはりというべきかラーン自身はすでに全盛期は過ぎており、そもそも怪我人続出でベストメンバーを組めない状態の浦和では誰がFWでもチャンスが供給されることは少なかった。次にDFラインのテコ入れ策としてチェコ人GKミロがやって来た。清水エスパルスのブラジル人GKシジマールの大活躍を横目で見て「うちも外国人GKを」と浦和のフロントは思ったのかもしれない。ミロ自身は好選手であったがGK一人変わったところでDFラインが劇的に安定するはずがなく、しかもミロは日本語が話せなかったから浦和ディフェンスにより困難を持ち込んだと言える。成功とは言えない外国人補強を続けていた浦和だったが、やっとスマッシュヒットとなる外国人を補強できた。ミハエル・ルムメニゲ。80年代のドイツ代表のスーパースター、カールハインツ・ルムメニゲの実弟である。ルムメニゲはジェフ市原の同じドイツ人ピエール・リトバルスキーほどの派手さインパクトはなかったが、安定した技術と的確なパス配給で浦和の数少ない希望となった。だが、こうした外国人補強の甲斐もなく浦和はサントリーシリーズ同様最下位に沈み「お荷物」としての印象を世間に植え付けてしまった。

本物の登場前夜
 94年、浦和は前年、怪我人が続出したことを踏まえトップとサテライト双方を含む大量補強を敢行した。ただし、その中身は他チームで戦力外となった選手や補欠要員、無名の新卒選手が中心だった。V川崎の、かつらメーカーのCMで有名になった鋤柄(♪男は狼〜)のような論外の補強もあったが、広島から来た田口や柏レイソルから獲得したチョウ・キジェは今後数シーズンDFとしてレギュラーポジションをつかみ、また新卒の無名選手の中には後にワールドカップ初出場のゴールを決めることになる俊足の岡野雅行や現在の浦和キャプテンである山田暢久なども含まれていた。監督は元日本代表監督の横山健三が就任し、自己のポリシーであるFWのサイドバックへのコンバートを早速実践した。大学時代までFWだった杉山は浦和に加入して初めて左サイドバックにコンバートされて以降、監督やチームが替わってもFWに戻ることはなかった。またレンタル移籍制度が開始され、その初実践モデルが名古屋グランパスから来た元日本代表MF浅野哲也だった。浅野は浦和での活躍が認められ、ハンス・オフトの後任のファルカン率いる日本代表に復帰し、成功者となった。それにしてもファルカンによって日本代表に初めて選ばれた選手、今藤、礒貝(当時G大阪)、岩本、名塚(当時ベルマーレ平塚)、遠藤(当時ジュビロ磐田)、森山(当時サンフレッチェ広島)、前園(当時横浜フリューゲルス)、佐藤慶(当時浦和)らは皆、波乱のサッカー人生を送っているのはなぜだろう。時代に恵まれなかったのか・・・。
 94サントリーシリーズの浦和は、エース福田が負傷による長期欠場は痛かったが、大量補強の成果もあり前年よりは安定したサッカーを披露していた。私はいつ前年のようなボロボロのサッカーに逆戻りしてしまうか常にハラハラドキドキしながら見ていたものだ。前年よりましなサッカーをしていたとはいえまたも最下位。それでもいくつか記録は作った。例えば5節、当時は「お荷物」仲間だった名古屋との対戦で当時Jリーグ記録となる1試合最多失点(7点)を喫したこと(浦和ー名古屋戦はいつも何かが起こる!!)。また9節平塚戦の福田の4ゴール荒稼ぎや17節横浜F戦での池田伸のゴール後の「お焼香」パフォーマンスなど印象に残っているシーンは多い。そして、ニコス・シリーズにいよいよ「本物」が登場する。

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