龍象寺は、通称、帯解本町の中心にあり、昔から安産・子授けの霊刹として
有名である。寺紋は十六枚の菊紋にて、古来から宮中と深い関係にある。
寺の格式と同じく、帯解子安地蔵の徳も高い。また、当寺はこの近くに
建てられた広大(光台)寺の奥の院であり、通称 奥の院と呼ばれている
安産信仰の寺であります。


むかしむかしの子守唄
 
「ここはおびとけ おびをたばるは 子安の地蔵 奥の院」 

本堂(玉鳳殿)前

龍象寺の西側に周囲3km程の大きな溜池があり、広大寺池と言う。
この池は聖徳太子が秦河勝(はたのかわかつ)に作らせたと言われ、
或いは世間では、弘法大師が民衆と共に掘ったとも伝える。


当寺の山門は藤堂藩古市陣屋から移され、帯解小学校の最初の校門となり、
昭和三十年十月当寺に移転、文化財級として保存されている。

帯解・龍象寺山門


ある時、本尊地蔵菩薩に子供を失った婦人が参拝し、自分の子供を
今一度抱きしめたいと願ったところ、地蔵菩薩は生命の世界から
その子の魂を引きよせ、掌にのせて婦人に渡したと伝える。

本堂、天井の大画像の帯解龍は夜な夜な前の広大寺池にて遊び、
天井に戻る折、その雫をぽたぽたと落としていたという。

 〜 広大寺池と龍神 〜

推古21年(613)、聖徳太子が稗田の村に立ち寄られた折、稗の飯を
出されたので、その理由を尋ねると、この里は水の便利が悪く稲が
実らないとのことでした。そこで太子は秦河勝(はたのかわかつ)に
命じて菩提山川(ぼだいせんがわ)から引水して、大きな池を造らせ
ました。そこより西に向かって灌漑用水を送りました。現在の大和
郡山市稗田町、上・下三橋町に当たります。またこの広大寺池の
守護神が龍象寺の龍神です。時折、金色の光を放って出現します。
ちなみに龍象寺(りゅうぞうじ)の龍象とは仏教用語で大きな龍、
徳の高い龍の意味です。象は関係ありません。即ちこの寺名は
広大寺池の龍神を表に出しています。
龍象寺(奥の院)の裏に八阪神社があり、この神社の神事に安産を
祈って二股大根を供えています。寺よりも神社の方がおそらく古い
存在と思います。広大寺は、現在の広大池のほぼ南側の隅に存在し
ていたと推測されています。というのは、その所から古い瓦が出土
しています。現在、その所は池の一部になっていますが、後世に池
を広げて寺跡にも水を引入したのでありましょう。

本堂の右前にその大龍が好んで巻きつく桜が聳えている。


寺宝として光明皇后御自筆の経巻があったが、目下所在不明。
本堂に一条法院宮の扁額があり、梵鐘には常応心院宮大機文乗女王(円照寺)
の御染筆がある。


大和北部八十八ケ所霊場 第67番龍象寺 御詠歌 (元禄八年)

    〜 気も安く身も軽々と帯解けて子安地蔵へ参るうれしさ 〜
 

     住職の一句  帯解や 花の奥なる 微笑(えみ)地蔵                


柳生十兵衛と伝える墓
 当寺のかっての境内地(現在は隣の野田家の土地)に、柳生十兵衛と伝える墓
があります。墓形は五輪塔です。その昔このあたりは柳生の領地でした。
この墓については二通りに解釈されています。一つは十兵衛の供養塔を当寺に
納めたもの。ただし本物の墓は東京の寛永寺にあります。今一つは寺の言い伝
えで、十兵衛の()の墓。一流の武芸者だったので影が存在していたという
ことです。
また十兵衛はこの地に剣道の道場を開いたとも伝えています。

藤木良の碑
 幕末の国学者、藤木良弼(すけ)の碑は、『帯解人物誌』(木村房之著)に
よると、本堂北側に明治42年建立と記すが、しばらく所在不明になっていた。
平成25年12月15日、本堂北側の隅に裏返しになっていたもの(台座と思われていた)
を掘りおこして、同12月29日に建立した。

  高さ178cm(約5尺9寸) 中央巾76cm(約2尺5寸) 厚さ26cm(約8寸5分)
   表面  「藤木良弼翁碑」
   右側面 「明治四十二年七月有志建立」
   左側面 「圓照寺門主近衛秀山尼公卿御筆」

 境内には古い藤の木があるが、藤木良弼の名に因んで植樹されたものと伝える。
 藤木良弼は、当山の北側の高井氏宅の付近に住んでいた人であり、当山の門前
の「たちばなや」(現在は宿屋をやめている)に宿泊し、
  『君が代の久しかるべき齢をば千世をうたふ鶴とこそ見れ』
の歌に、尺五に二尺五寸の雄雌の丹頂鶴の画賛をしたもの、
及び『超勝寺御陵』での
  『楯並みて池も御陵はつたへしをなど白浪の夜半に見えけん』
の歌の半折の額面を残している。
 天誅組大和義挙の軍師格、伴林光平(ともばやしみつひら)と共に国事を語った
ことは当山に残る古文書に明らかにされています。又、天誅組の士が荷物具足を
「たちばなや」に運んだことでも知られるところであり、かように当山を中心に
この地は、幕末維新の渦中にあった土地柄です。

 参考:『帯解御史』(松井喜三著、昭和20年発行)p.20
 藤木良弼と天誅組の伴林光平
 幕末の世相騒然とした中に孝明天皇の倒幕親政のくわだてにより文久3年(1863)
 五条を中心とした天誅組はその後各地に転戦、これに参加する郡山勢などが今市
 の納屋に多くの荷物をもちこんでとまったのでした。今その時の武具の一部を
 みることができます。 またこの天誅組に参加した大和の国学者伴林光平が、
 国漢学者で奥の院に碑のある藤木良弼氏に会見を申込んだことが、「南山踏雲録」
 にみられ、宿泊した橘屋に残した歌「君が代の久しかるべき齢をば千代をうたふ
 鶴とこそ見れ」をみても、尊王に力をそえた人たちが郷土と関係をもったことが
 みられます。

木原保吉功労碑
 本堂に向かって左側の楠の木陰に、「木原保吉功労碑」が建立されている。
木原氏(明治三十九年二月五日没、四十一歳)は、明治期に奈良県中において、
はじめて教科書販売の権利を得、後日その権利を多くの人たちに与えた。
この功労碑は大和書籍商協会に属している三十一名によって建立されており、
全員、木原氏の恩恵に浴した方々である。石碑の揮毫は越智宣哲氏。
この石碑は奈良県下の教育関係の小史である。


* 元禄四年(1691)京師堀川の住人、持宝軒正勝が全国地蔵菩薩二十四ヶ所を
  定めた頃、当寺の門前では名物「地黄煎飴」が昭和の初期頃まで売り出され
  ていた。尚、本堂玉鳳殿改修の際、境内から室町初期の華瓦や弥生式土器
  が多数出土しました。それらはこの土地の古さを物語っています。


* 室町時代には当寺に伽藍が存在していましたが、永録年間(1558〜1570)に
  松永久秀の兵火によって炎上、本堂(玉鳳殿)は何とか残りました。
  その頃、同じく東大寺大仏殿、戒壇院も兵火により焼失しました。


住職の一句 冬の日の 寺苑やひかる 教育碑
                        證善

帯解子安地蔵尊の境内は、四季の花が咲き乱れ、正に寂静の園林所である。

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