百拙元養和尚復興の霊刹


大和国 宝寿山 龍象寺(広大寺奥之院) 
開基 行基菩薩(天平2年)

本尊 帯解子安地蔵の名により、当地は帯解と呼称されている。
所謂帯解の名は、この本尊の名によるところ大である。
本尊の形相の特色として美しい上品な腹帯が彫られており、帯を解
いて安産するという信仰から、帯解の名が出たものである。(近くに
今一つの帯解子安地蔵も存在する。)


百拙禅師は、享保年間、興福寺貫首一乗院門主 二品尊昭親王に招聘
されて、当寺を復興した。
それについては、以下の事柄も加味されるであろう。
一、本尊 帯解子安地蔵尊の大慈悲の御心と、その尊容にうたれた。
一、かの行基菩薩の開基、聖武天皇の勅願寺であるということ。
一、広大寺(光台寺)の奥之院として、その大池の主(龍神)が寺の
  眷属にいて、威神力を発揮していたこと。
一、上街道
(かみかいどう)の坂(正木坂まさきざか柳生の支配による坂の名
  上に位置し、都から離れていて、寂静所であること。

百拙禅師(寛文8年~寛延2年 1668-1749)は、書画に優れており、
当寺には現存するものとしては以下の八点が残っている。
1.山号扁額
2.一乗院宮寄附御額
3.内陣右柱の柱聯
4. 〃 左柱  〃
5.本尊厨子右扉の内の墨書<春> 小篆
6.  〃    左扉の内の墨書<秋> 草書
7.  〃    左扉、表の蘭<春>の絵(本尊に向って左)
8.  〃   右扉、表の菊<秋>の絵(本尊に向って右)


1.扁額(山号)板彫 「寶壽山」「百拙山僧書」
 寸法48cm×112cm



2.板彫
 寸法38cm×14cm
表面「一乗院宮寄附御額」「帯解子安地蔵寚前」「寶壽山 龍象寺 現住百拙」


 (参考)一乗院の御額とは
    寸法106cm×75cm
    「龍象資聖禪寺」
     裏面「享保十九秊(年)二月廿七日」「帯解子安地蔵寶前」
        「二品尊昭親王書」「依龍象寺喝雲和尚願」
        「今度再被寄附者也」「安永五丙申年七月廿二日」
     享保十九年 一乗院門主二品尊昭法親王御染筆




3.内陣 右柱の柱聯(彫)
  寸法28cm(7尺5寸)×15cm(5寸)
 「所有所厳全出大香雲龍翔象舞」
  所有
(あらゆる)(かざ)る所 全て 大香雲を出(いだ)し、龍は翔け、象は舞う。
引首印「没滋味」


4.内陣 左柱の柱聯(彫) 
  寸法 同前(3に同じ)  (全体は3写真参照)
 「一瞻一禮都游妙寶渚水緑山青」
  一瞻
(せん)一禮(らい)、都(すべ)て妙寶の渚(なぎさ)に游(あそ)ぶ。
  水は緑、山は青し。」
     
瞻…仰ぎ見る

「嗣祖 沙門百拙 題」 「百拙氏」「葩堂艸亭」


5.帯解子安地蔵本尊厨子 (本尊に向って)右内扉 (春) 小篆
  寸法 101cm×49cm (225cm×55.5cmの扉の下部)
 「石舊千年寺苔深翠襲衣春風蘭比厲香數鎖珠扉」
  石旧
(ふる)き千年の寺、苔は深く翠(みどり)なす。
  衣を襲
(かさ)ぬ春風、蘭は厲香(れいこう)に比(ひと)しければ、
  数々
(しばしば)、珠扉を鎖(と)づ。
      厲香…強(はげし)い香
      珠扉…美しい扉
      比…今は「比」と読んでみたが、「フウ(阜の上部)」とも読める。その場合は、
         阜は堆に通じ小丘の意となり、当寺に今も毎年春蘭の咲く土盛りがある。
         また、「以」あるいは「从(從)」の字も想像される。



6.同 左内扉 (秋) 草書
  寸法 同前(5に同じ)
 「聲杖響雲飛諸塵統苦依寶洲秋不老玉露滴重葩」 
  聲杖、雲に響いて諸塵を飛ばし、苦依を統
(す)ぶる。
  宝洲の秋は不老なり。玉露は滴りて、葩
(はな)に重なる。
      聲杖…錫杖
      苦依…苦の境界
      宝洲…仏国土
      葩…はなびら




百拙禅師筆の絵(印有り) 蘭菊図(仮称)
7.帯解子安地蔵本尊厨子 左扉の外面 蘭(春)
 寸法 101cm×49cm (225cm×55.5cmの扉の下部)



8.同厨子 右扉の外面 菊(秋)
  寸法 同前(7に同じ)



 ( 蘭(春)と菊(秋)は優劣つけがたい美しさを表し、『楚辞』等を典拠とする「春蘭秋菊」の熟語でも知られる。)

  (参考)
    現在、本堂(玉鳳殿)の天井一杯に描かれた龍の絵は狩野春甫筆を明記する。
    狩野探鯨に師事した江村春甫ならば、寛政2年に師とともに禁裏造営の障壁画制作に
    たずさわった人物であり、あるいは当寺の龍図もその前後の制作かもしれない。
    その魂は、禅宗の方丈における龍というだけでなく、広大寺池の主の龍神と伝える。 


平成24年11月 龍象寺住職 浅井證善記 
令和3年12月加筆


当寺復興に貢献された百拙禅師

百拙(ひゃくせつ)元養禅師
 生没年 寛文8(1668)年~寛延2(1749)年 82才寂
 諱 子蓮、祖蓮、元養、元椿
 道号 百拙        号 釣雪、葦庵叟 
 師 大随道亀(玄機)  弟子 月船浄潭

京都にて出生(原田家の次男)、祖は丹波にて、明智光秀の家系。
6才にて両親を失う。
15才出家。後に仏国寺の高泉性潡の許に身を投ず。
48才(正徳5年、1715年)、仏国寺第9代住持となり、
享保3(1718)年に但馬の興国寺の第5代住持となる。
京都に戻り、和歌等に親しむ。
その後、大和の宝寿山龍象寺(奈良市帯解本町)を復興。
享保18年には、法蔵寺を復興。
元文5(1740)年、黄檗の歴史で初の和僧住持となった第14代
龍統元棟によって首座に任じられた。
寛延2(1749)年、法蔵寺にて示寂。82才。

法嗣月船浄潭は『海雲第一代百拙禅師行状』を著わす。
百拙禅師は、詩文、書画、茶道に優れていた。龍象寺には8点の書画がある。
 
またWikipedia「百拙元養」の項には、以下の関連書が紹介されている。
著作
『百拙禅師語録』
『百拙禅師続録』
紀行集『破草鞋』
詩集『竹陰詩藁』
詩集『漁家傲』
詩集『新漁家傲』
詩集『東麓樵集』
詩集『西山晩草』
詩集『露の衣』
『釣雪間稿』
『葦庵文稿』
『奏対録』

作品
「高泉性潡像」元禄8(1695)年
「松菊図」自賛宝永3(1706)年
「奇石菖蒲図」元文4(1739)年
「城崎温泉勝景図巻」享保5(1720)年 兵庫県立歴史博物館

関連寺院
天王山仏国寺、萬福寺、大雲山興国寺、宝寿山龍象寺、海雲山法蔵寺


最新研究の動向

2013年度 早稲田大学・奈良県連携事業成果報告書 古代における
南西アジア文化とヤマト文化の交流に関する調査・研究(総集編) 
―南天竺婆羅門僧正菩提僊那をめぐって―』
(研究代表者 新川登亀男)
20143月 p.147

「 一方、百拙元養が、なぜ、菩提僊那に関心をもち、霊山寺(奈良)と
 の間にいかなる結びつきがあったのかは、充分知り得ない。
 ただ、百拙元養の弟子である浄潭が記した「海雲第一代百拙禅師行状」
 (田中喜作が『美術研究』137
、1944年にて公刊)によると、百拙元養
 は、「終焉の所」を求めて「享保甲辰」(享保九年・1724年)以降、
 「南都近村柴野」の「一廃寺」である「龍象」寺に入った。 
 この「廃寺」は、行基開基とされており、行基作と伝えられる「地蔵尊」
 が「一堂」に安置されていた。 そこで、人々の援助を受けながら、
 「堂宇」を補修し、「荘厳地蔵」を果たし、門には「宝寿山額」を掲げ
 た(「百拙山僧書」の扁額「宝寿山」は現存する)。ところが、寺地は
 きわめて「陋僻」にして、門は「駅路」に臨んでいるため、「旅客往来
 終日不断」という環境へと変貌する。よって、百拙元養は、ここを去り、
 「京西泉谷」(鳴滝)へと退き住むことになった(海雲山法蔵寺)。
 時に、「享保癸丑」(享保18年・1733年)という。

 また、龍象寺蔵の「由緒書」によると、百拙元養は、享保九年、南都
 興福寺貫首の一乗院門主二品尊昭法親王(霊元天皇の皇子)に請われて
 京都から当山(宝寿山龍象寺)へ入ったとされる。 なぜ、百拙元養が
 招聘されたのかについては、かの親王が参禅のかたわら、詩文や画を百
 拙元養に学んでいたからであり、元養が「碩徳有名ノ聞ヱ世ニ高キ」人
 物であったからだとある。

 百拙元養が龍象寺を再興した経緯や理由については、このようにふたつ
 の見方があるが、両者合わせてみるのがよいのであろう。そこに、別段の
 矛盾もない。そうすると、ここで注目されるのは、百拙元養が霊山寺の
 「波羅門僧正塔記」を請われて著した時期が、ちょうど、彼の龍象寺
 (奈良市帯解本町)在住・復興の時期に重なるということである。おそ
 らく、元養の大和入りと、その名声や寺院復興の力を見知った霊山寺が、
 この機会をとられて、元養に「塔記」を強く依頼したものと思われる。
 その際、霊山寺も龍象寺と同じように「駅路」に面する寺であったこと、
 そして、ともに行基開基伝承をもっていたことが大きな原動力になったで
 あろう。死後の菩提僊那が、行基と組み合わさって語り継がれていったこ
 とは、多くの史資料が物語るところである。
 

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