左の絵は商船三井のHPより、勝手に転載したも
  のです。まぁ・・商船三井の最低単位株主でもあ
  りますれば、お目こぼしいただくとして・・。元三井
  船舶の赤城山丸です。
  商船三井のHPは単に会社のIRに留まらずソフト
  な楽しい内容のよく出来たHPだと、一株主は感心
  しています。







     薀蓄(うんちく)

 大体ハムのHPなんて自己満足みたいなもので、草野球で優勝したカップを自室に並べているようなものが多い。私のHPもそれである。それでもここまでたどり着いて見てやろうと思われる諸氏にはまず感謝を申し上げる。
そもそもハムを40年近くもやっていること自体、余程他に趣味を見つけられなかったのか、それともかくも素晴らしき趣味であったのか、それは人生の中にハムがあったのか、ハムのために人生を送ってきたのか、いささか哲学めいた押し問答でもある。

 私も創世期には作っては壊し、壊しては作るの"ラジオ少年"であった。中波から短波へそしてハムを知る。純粋と言いたいが、ただ単純な私はこれだけて人生の指針が決まってしまった。手近な"ラジオ少年"の溜場、地元の工業高校電気科へ何の躊躇いもなく進み、今尚、交流のあるハム友たちに囲まれ勉強もせず、恋もせず16の春が過ぎて行った。
アルバイトで稼いだものは全て部品に化ける。明け方まで無線をしているので授業中は仮眠状態。得意のはずの無線工学まで落第寸前の始末で当然先生よりは叱咤、激励なしのお叱りの説教。ふと少年のブラックハートは「俺は先生より上級資格をもっているのだ」と歪んだ心で耐えた。それでも更に大学(電子工学科)まで無事卒業した。今の若者にくらべ非常に素朴と言うか、先を見通せないと言うか、でも夢だけはみんな持っていた。

 私の場合、船舶通信士になりたかった。漁船の次席で乗込む程度の資格は既にもっていたので船会社の就職話も舞い込んできたが親の大反対で挫折。されば陸で見つけようと、幸い担当の先生から学校推薦でいつも一名採用してくれる民放があるからそこにしろ・・と。いつまで待っても返事がこないので会社まで行ってみれば赤旗が乱立している。当時は経営不振で労働争議の真っ最中だった。当然今年は採用できません・・。その民放はいまでもある。ただ私とは縁がなかった。無線とは程遠い今の会社に職を得て、団塊の世代に共通した悲哀を栄光をもって、何とか終身雇用最後の人類としてぼつぼつカウントダウンの歳となった今にして想えば、遊びとしての無線と仕事としての電気を分けた大人の入り口でもあった。今の世間の価値観とすれば仕事と遊びは分離されている。私のような年代では、それはそれ程明確な違いはなかった。一流には「好きこそものの上手なれ」だったろうし、二流には「下手の横好き」も社会的には認知されていた。

 金銭上の利益のための無線は挫折したが、金銭上の利益のためでなくのハムはますます趣味としての純度を上げては行った。私の座右の銘は有名な人の言葉ではなく自分で感じている「学問と趣味は決して自分を裏切らない」である。ただ時々は若き日の夢が夜鳴きするので、プロの上級資格だけは上りつめることとした。休日には港に出て船を見ていた。ヨットも少しは教わった。無線工学と電波法だけがハムの基礎石だとすれば、趣味は文化だと思うこととした私は外国人と話す手段の言葉とか、異文化にも興味深々で地政学に類する書物もたくさん読んだ。ハムはやがて丸みを帯びて私の"生きざま"みたいになってしまった。これが私の40年も同じ趣味を続けてきた"薀蓄"である。人間歳を取るとやたら回顧録を書いたり説教めいたことをしたがる傾向にある。特に成功を収めたと言われる人にはその傾向が強い。実は私は個人的に尊敬する人はいるが、この手の話は大嫌いであって、つい自分らしく生きた部分があれば人それでいいのではないか・・と思ってしまう。ましてや平凡な私の趣味の薀蓄など何の感銘も与えないが、人畜無害の自分の輪の中の話としてお許しいただ き、体力の衰えとともに昨今タワーに登ることもままならぬ状態ではあるが、私は身に絡みついたハムなる世界を一生楽しみたいと思っている。





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