第五章  平成20年 京都祇園祭

   平成20年7月17日 山鉾巡行当日、四条河原町交差点にて撮影
   配置状態は宵々山(7月15日)の早朝に撮影


巡行順  赤字=くじ取らず


先の巡行


 
一.長刀鉾(なぎなたほこ)

「くじとらず」で山鉾巡行の先頭の鉾です。現在、生き稚児が乗る唯一の鉾です。この生き稚児が行う「しめ縄切り」で山鉾巡行が始まります。 鉾名の命名は、鉾頭を飾った三条小鍛冶宗近作の大長刀(現在は複製です)によります。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用。しかし何かと不思議が起こり、返納したという。 大永2(1522)年、疫病がはやり、神託で長刀鉾町で飾ったところ、疫病は退散した。創建は、嘉吉元年(1441)説がある。真木は全長20メートル。刀先は八坂神社と御所には向かないようにされています。

     



 
二.孟宗山(もうそうやま)

中国の史話、「二十四孝」の一人、孟宗が病気の母の為、好物のタケノコを求めて雪の中、竹林を歩きまわったが、寒の季節で見つからず、疲れて座り込んでしまった時、タケノコが出、母親は元気を回復したという話を題材にした山。町名が笋(たかんな=たけのこの意味)町というのもこれに由来している。 白綴地に筆で孟宗竹林が描かれた見送りは、竹内栖鳳の筆。色彩豊かな山鉾の中で、墨一色で異彩を放っています。

  



 三.油天神山(あぶらてんじんやま)

町名(風早町)の由来であるお公家さん・風早家の屋敷があり、この屋敷に祀られていた天神=菅原道真を祀ったという言い伝えがある。山は、立派な朱塗りの鳥居。天神さんと関係の深い紅梅の枝を立てて鈴をつけています。見送りの綴織は、山所在地近くで生まれた梅原龍三郎の富士山の絵をもとにした綴「朝陽図」である。

  



 4.保昌山(ほうしょうやま)

明治初年までは旧名で「花盗人山」と呼ばれていた。 平井保昌は藤原大納言方の孫で、致方の子で武勇にすぐれ、和歌も堪能であった。妻は、和泉式部。 妻、和泉式部の為に紫宸殿前の梅を手折ってくる姿をあらわしている。 宵山では故事に因んだ縁結びのお守りが授与される。 前懸と胴懸は、円山応挙下絵の逸品として有名です。

  



 五.函谷鉾(かんこほこ)

中国戦国時代の話、孟嘗君の故事に基づく。斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用された。しかし讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開かないようになっているので、家来に鶏の鳴き声をまねさせたところ、あたりの鶏が和して鳴いた為、門が開き見事通り抜けたという。真木は22メートル。鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられる。 前懸は重要文化財です。

     



 六.太子山(たいしやま)

山鉾の真木は松を立てる通例だが、この山のみ杉を立てる。聖徳太子を祀る山で、四天王寺を建立する際に、自ら良材を求め山に入り、老人に大杉の霊木を教えられ、六角堂を建てたことを題材にした山です。太子は、日本の仏教の基を築いたことで知られ、宗派を越えての「太子信仰」が民衆の間に広くあった。 前懸は中国泰代「阿房宮図」の刺繍である。

  



 七.四条傘鉾(しじょうかさほこ)

昭和63年、117年ぶりに再興され巡行に復帰しました。 傘の上に御幣と若松を飾るのが特徴です。 元治の兵火の後も巡行に加わっていたが、明治5年以降、消滅同然となり、道具類も散逸していました。 綾傘同様、壬生六斎の棒振り、囃子での協力が復活に力になった。祇園唐草模様の大傘に錦の垂(さがり)で飾った花傘は応仁以来の傘鉾の原形を伝える。赤熊(しゃぐま)鬼面の棒振り、踊り手、囃し方が歩く様は地味ですが、実に素朴な味わいがある。

  



 八.占出山(うらでやま)

釣り竿を持った人形は、神功皇后の姿をかたどっている。九州・肥前国松浦郡玉島川で、鮎を釣って戦勝の兆しとしたという日本書記の話が題材となっています。 神功皇后は安産の神様として祀られています。山鉾巡行のくじの順が早いと、その年のお産は軽いと言われています。 この山には「あいわい山」の別名が明治まで語られおり、町衆に人気のあった山のようです。 色鮮やかな日本三景を描いた前懸・胴懸など、懸装品が特徴です。

  



 九.鶏鉾(にわとりほこ)

中国古代の伝説「諫鼓」、天の岩戸の永世の長鳴鳥の故事を題材にした鉾。「諫鼓」は、暦を制定した聖天子・尭帝が、宮廷の外に太鼓を置き、政治に不満があればたたかせて訴えを書かせたのだが、天下は治まり太平が続き、太鼓を必要としなくなり、そこに鶏が巣を作ってしまったという話。 鉾頭は、紅白を互い違いに巻いた三角枠で、中に銅の円板が挟まれる。3つの角には紺色の苧束の房がつけられ、中程に舟を担いだ人形が飾られる。 見送りは四条派による水引と、16世紀のベルギー製のトロイの王子と妻子の別れを描いたもの。重要文化財です。

     



 十.白楽天山(はくらくてんやま)

山上の2体の人形は、唐冠を付けたほうが白楽天、帽子をかむった僧形が道林禅師の像。中国、唐の詩人、白楽天が道林禅師に仏法の大意を問う場面を表している。この山も過酷な運命を辿っている。天明、元治の大火で胴組や人形の胴を失い、そのたびに巡行中断と復元を繰り返している。 前懸は16世紀のベルギー製毛綴でトロイ戦争を表している。 見送はゴブラン織で、18世紀フランス製と山鹿清華作「北京万寿山図」手織綿。

  



 十一.霰天神山(あられてんじんやま)

永正年間、京都が大火にあった際、急に霰(あられ)が降り、たちどころに猛火は鎮火した。その時、霰とともに小さな天神像が降りてきて祀ったのがおこり。そんな由来から、火よけの神様として崇められています。多くの山鉾が焼けた天明、元治の大火にもこの山だけは残り、町の誇りになっています。「雷よけ火よけのお守は、これより出ます…」宵山に子供たちが歌いながらお守授与の受け付けをしています。欄縁上に朱塗り極彩色の廻廊をめぐらし、桧皮葺唐破風春日造りの立派な社殿が山に乗ります。


  



 十二.山伏山(やまぶしやま)

山に飾る御神体は、その昔、八坂の塔が傾いた時、法力によって直したという浄蔵戸貴所の大峰入りの姿、山伏を表しているので、この名前があります。先の祭りでは一番北の山。役行者山と同様、当時民間信仰として人気のあった修験道・山伏から着想されたものである。 正面の水引は、雲中の竜、青海波と麒麟を精緻な刺しゅうで描いた中国からのもの。前懸、胴懸の中央に飾り房がついているのも特徴である。


  



 十三.月鉾(つきほこ)

『古事記』によれば、伊弉諾尊が黄泉の国から戻り、禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神、右眼を洗って月読尊、このあと、鼻を洗って素戔鳴尊を生んだ。月読尊は夜を支配した神であるが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来する。鉾頭に、横40センチ、上下24センチの金色の新月型(みかづき)をつけ、真木の天王座には月読尊が祀られている。 元治元年の大火にもわずかに真木を失っただけだった。 四条通りは烏丸通りを挟んで「長刀鉾」を先頭に「函谷鉾」「月鉾」と3基が豪華に建ち並んでいます。

     



 十四.芦刈山(あしかりやま)

御神体(人形)、衣装共に山鉾の中で最古級を誇ります。人形のかしらには、天文6年康運作の黒書銘があり、また、小袖は16世紀の作りとみられ、重要文化財に指定されている。 謡曲「芦刈」は、摂津の国・難波に住む夫婦は貧しさが原因で離別し、妻は都へ出て宮仕えするが、夫が気掛かりで探したところ、落ちぶれて芦を売っていた、と言う話。山の正面、側面に芦の造花が飾られる。

  



 十五.綾傘鉾(あやかさほこ)

徒歩の傘鉾として応仁の乱以前の古い鉾です。元治元年に焼けて以来、明治10年代に一時復活したもののふたたび中断。ようやく昭和54年、巡行を再開した。形の上でも変転を繰り返す。江戸期、どうした理由からか、徒歩から引き鉾に変化、御所車風の屋根に風流傘が乗る古図が残る。明治の復活では再び徒歩に。鬼形の踊り手を中心に、棒振り、鉦、太鼓の囃子方が行列する。 また6人の公家風装束をまとった稚児も巡行します。 垂がりと房飾りは、人間国宝森口華弘氏寄贈の友禅染。

  



 十六.蟷螂山(とうろうやま)

「かまきり山」とも呼ばれている。文字どおり「かまきり」が屋根の上に乗っており、からくりで羽や鎌が動く。子供達も喜びそうな楽しい趣向だ。 中国の故事、「蟷螂の斧を以て降車の轍(わだち)を禦(ふせ)がんと欲す」を題材にした山。自分の力のほどをわきまえず、大敵に立ち向かうことだが、その勇猛さを賞した中国の君子の故事が出典。町内の事情で、明治初め以降巡行を止めたが復帰した。 前懸、胴懸、見送の友禅染は人間国宝羽田登喜男氏の作品である。

  



 十七.菊水鉾(きくすいほこ)

謡曲「菊慈童」が題材の鉾。稚児人形は、魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入った時に出会った少年がモデル。少年は700年前に、王の枕を誤ってまたいだのが原因で都を追われ以後、普門品の偈を甘菊の葉に記しておいたところ露が滴り、この水を飲んで不老長生したという。慈童は、この薬水を勅使に献じた。鉾頭には天に向いた金色の菊花。この鉾に限り「菊水」と篆書が掘り出した額がつく。 名前の由来は町内にある「菊水井戸」にちなんでいる。

     



 十八.木賊山(とくさやま)

木賊山町の山。世阿弥の謡曲「木賊」が題材。 我が子をさらわれ一人信濃国伏屋で木賊刈りの老翁が愛児を思いながら舞う場面を表現している。等身大の御神体、老翁像は足台に元禄5年(1692年)の墨書があり、右手に鎌、左手に木賊を持ち、欄縁にも御神体を囲むように木賊が配されている。

  



 十九.伯牙山(はくがやま)

戦後に町会所が無くなったため、綾小路に面した旧家・杉本家の表の間の格子を外し、お飾り場にしている。琴を前に置き、斧をもった人形は、中国の琴の名人「伯牙」です。怒りの目、紅潮した両頬は、自分の琴を理解してくれた友人「鐘子期」の訃報を聞き、悲しみに打ち震えながら、まさに琴の弦を断とうとしている様を表している。明治になり多くの山が名前を改めさせられているが、この山も「琴破(ことわり)山」から改称した記録があります。 前懸などは日本製ですが、唯一中国風に統一された珍しい山です。

  



 二十.郭巨山(かっきょやま)

山には屋根がないのが普通だが、この山は日覆障子を乗せている。金地彩色法相華文の板絵として他の山にない古い形式を残している。 名前の由来は、中国の史話「二十四孝」の一人、貧しくて母と子を養えない郭巨が、思い余って子を山に捨てようした時に、土の中から金の釜が現れ、母に孝養を尽くした話が題材である。人形は、鍬を持つ郭巨と紅白の牡丹の花を持つ童子の2体。

  



 二十一.
放下鉾(ほうかほこ)

鉾の名は真木のなかほどの「天王座」に放下僧の像を祀るのが由来。鉾頭は日・月・星の三光が下界を照らす形を示し、その型が洲浜に似ているので別名「すはま鉾」とも呼ばれている。 かつては長刀鉾と同様「生稚児」であったが、昭和4年以降稚児人形にかえられている。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ、巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞いが出来る操り人形です。 新下水引は、華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織。

     



 二十二.岩戸山(いわとやま)

『古事記』『日本書紀』に記される「国生み」と「天の岩戸」の神話を題材にした曳き山。「天の岩戸」は、素戔鳴尊の乱暴に天照大神が岩戸に隠れられたため、天地は常闇となり、八百万神は安の河原に集まって対策を練り、常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ、鏡を鋳造し、500個の勾玉をつくり、天香山の榊を立て、天鈿女命が舞った伝承である。 御神体には、胸に鏡をかけた天照大神、唐冠をかぶった手力男命、そして屋根の上には伊弉諾尊の3体の人形が祀られている。

  



 二十三.船鉾(ふねほこ)

『日本書紀』の神功皇后の新羅出船を題材にしている。屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け、頭に天冠を頂き紺金襴の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けている。応仁天皇を生んだゆかりから、御神体は安産の神とされ、巡行の時岩田帯を多数巻いており、腹帯として妊婦に授与され安産の御守りとする習慣がある。現在の船鉾は、宝暦年間に計画され、天保年間に完成。 船頭に「鷁(げき)」と呼ばれる想像上の瑞鳥を飾る。

  




後の巡行


 二十四.北観音山(きたかんのんやま)

「上り観音山」とも呼ばれ、楊柳観音像と韋駄天立像を祀り、後の祭りの先頭を行くくじとらずの曳き山。 応仁の乱の時代から隣町の南観音山と、1年おきの交代で山を出していたと言われている。隔年に出るというのは例がなく、この両山だけ。もとはかき山だったが、後に曳き山になった。鉾ではないので真木の代わりに松を立てている。 松は、毎年鳴滝から届けられ、籤で所有を決めている。史料には「左三の枝に尾長鳥あり」とあるが、今は鳩である。

  



 二十五.橋弁慶山(はしべんけいやま)

山の御神体は謡曲「橋弁慶」が題材。五条大橋の上、牛若丸が軽々と擬宝珠(ぎぼし)の上に飛び上がり、弁慶が長刀を構える戦いの場面。牛若丸の人形は足駄の金具だけで支えている。 かき山としてただ1つ、くじ取らずであったことや、山籠、真松もない形式であること、そして人形には永禄6年の古い銘があることなどから山の中では屈指の古さであることがわかる。

  



 二十六.黒主山(くろぬしやま)

油天神山が梅なら、こちらは桜を松と共に飾り、華やいだ雰囲気をかもしだしている。謡曲「志賀」を題材にしており、六歌仙の1人、大伴黒主が志賀の桜の花を眺める姿を表している。 御神体の人形は寛政元年辻又七郎狛之澄作の銘を持つ。 失火で町家(ちょういえ)を失ったのを機に、5階建てビルにし、祭りのと時だけ町会所にするのは時代を先取りしたと話題になった。 山を飾る桜の造花は、家に悪事を入れないお守になっている。

  



 二十七.八幡山(はちまんやま)

町内に祀られている八幡山を山上に勧請した山です。 普段は天八幡宮は町会所の庭に祀られている。 社殿は江戸時代後期天明年間の作と伝えられる総金箔押しのもの。蔵で保存され、巡行のときのみ山上に飾られる。 前面の鳥居の笠木の上には、八幡さんのシンボルである鳩が2羽向かい合ってとまっている。

  



 二十八.鈴鹿山(すずかやま)

鈴鹿山は、旧東海道の難所・鈴鹿峠のことを言う。 畿内と東国を結ぶ要衝として、歴史上のエピソードも多い。 商人を狙う盗賊が多かったことが「鬼が出る」に転化したようである。 この山の神、鈴鹿明神は鈴鹿権現「瀬織津姫命」の伝説も鬼退治のお話し。 瀬織津姫命は女の姿で、金の烏帽子をかぶり、能面をつけ、腰には錺太刀、左手に大長刀を、右手に中啓を持っています。

  



 二十九.役行者山(えんのぎょうじゃやま)

鈴鹿山と共に山鉾町最北の山。 修験道の開祖、役行者が一言主神を使って葛城山と大峰山の間に石橋をかけたと言う伝説が題材。 役行者は自ら修行するだけでなく、庶民の中に入って医療などに務めた僧。 人形3体はその役行者を真ん中に、右に葛城神、左には鬼の顔の一言主神を祀っている。 人形が多いだけ山のサイズも最大級である。

  



 三十.鯉山(こいやま)

龍門の滝を登った鯉は龍になるという中国の伝説をもとにした立身出世の「登龍門」が題材である。 人物でなく、魚をテーマにするのは山の中で唯一である。 前懸、同懸、水引、見送はトロイア戦争物語の場面を描いた16世紀のベルギー製で、重要文化財に指定されている。

  



 三十一.浄妙山(じょうみょうやま)

平家物語の「宇治川の合戦」を題材にした山。 宇治橋の上で、一来法師が三井寺の僧兵の頭上を「悪しう候、浄妙坊」と声をかけ飛び越え先陣に出る瞬間の姿が御神体となっている。浄妙の鎧は室町時代のもので、重要文化財。 以前は「悪しう候山」と呼ばれていたこともありました。

  



 三十二.南観音山(みなみかんのんやま)

「下り観音山」と呼ばれ楊柳観音像と善財童子像を祀っています。山鉾巡行の最後を行く曳き山。 俗に「北観音山の観音様は男だが、南観音山は女性なので、南では宵山の夜更けに翌日の巡行の無事を祈って“あばれ観音”の行をされる」といういい伝えがあり、「あばれ観音」の別名がある。 楊柳観音は、三十三観音の筆頭とされ、姿を変えて、手に柳を持ち薬師観音と同様に衆生の苦難を救う。この山の楊柳観音は頭から袈裟をつけ趺座(ふざ)している。 真松の枝には尾長鳥がとまっている。


  



夏の始まりを告げる『京都祇園祭』。
全国に約三千社あると言われている祇園神社の総本社『八坂神社』のお祭りです。
御祭神は素戔嗚尊(スサノヲノミコト)、櫛稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)、八柱神子神(ヤハシラノミコガミ)です。 7月1日の「切符入り」から始まり、7月31日の八坂神社の摂社「疫神社」の夏越祭まで、一ヶ月間さまざまな行事、神事が行われます。
今回掲載しましたのは、この祇園祭のクライマックス「山鉾巡行」の様子と、各山鉾町に配置されている状態です。
「葵祭」「時代祭」と共に京都三大祭りと呼ばれています。
また、8月16日に行われる「五山の送り火」を加え「京都四大行事」とも呼ばれています。
およそ1100年の歴史ある伝統のお祭りです。
皆様にもぜひ一度、生で見ていただきたいものです。


  

最後の写真は、左が山鉾巡行の日の夕方に行われる「神幸祭」から、花傘巡行の夕方に行われる「還幸祭」まで、四条御旅所に安置されている八坂神社の三基の神輿です。中央が中御座(素戔嗚尊)、右が東御座(櫛稲田姫命)、左が西御座(八柱神子神)です。 この期間中は御祭神が神輿に乗って滞在されているとされ、七日七夜お参りすると願いが叶うといわれています。その際に、知人に会っても口をきいてはならないという言い伝えから「無言詣り」と言う名が付いています。そのため、人の少ない深夜に参られる姿がよく見られます。
右の写真は、宵山期間で提灯が灯された長刀鉾の様子です。
テントでは粽(ちまき)などが授与(有料)されます。
宵山期間中に授与される品は各山鉾により様々です。粽はもちろんですが、それぞれの山鉾の故事に因んだお守りやお菓子、扇子や団扇、手拭いや絵馬。それにそれぞれの山鉾のミニチュアなんかも販売されてます。
授与品の購入により一般搭乗が出来る山鉾もあります。
こう言った授与品をいただけるのも宵山期間中だけの特典です。
また、この宵山期間中に屏風や鎧、小袖など秘蔵の諸道具を飾り、表の格子を外して「ハレ」のしつらえに整える町家があります。飾る家蔵のものに屏風が多いため「屏風祭」と呼ばれています。
この祇園祭、特に宵山期間中は一般の方々が楽しめる期間です。ぜひ皆様にもこの【祇園祭】を楽しんでいただきたいと思い、今回掲載させて頂きました。



第六章 五山の送り火 如意ヶ嶽