あなたの命を支えている


四 本 の 柱
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家庭教育の見直しから教育改革は始まる


 2、四本の柱とは    3、「感謝の心」によって、生み、養い、育む心

 4、「感謝の心」が「いじめ」を無くす

     1、はじめに
 
  今の日本の国民一人ひとりに一番欠けているものは何かと言えば、それは「感謝の心」だと思うのです。太平洋戦争に負け、焦土と化した町の中で、国は自らを護る力も無く、人々も自分を助けてはくれず、親は苦しみのために子を捨て、頼れる者もなく、護ってくれる者もなく、養ってくれる者もない、弱肉強食・優勝劣敗の生存競争を生き抜いてきた今の大人達、その結果として確かに物の豊かな国家社会を造り出してきたことはすばらしいことだと思うのですが、その反面において人として大切な「感謝の心」を失ってきたように思うのです。敗戦の焦土と化した社会を生き抜いてきた人々は
 「自分が苦労したから」                   
 「自分が努力したから」                   
 「自分が一生懸命に働いたから」              
今の豊かで、便利で、自由な生活を手に入れることが出来たんだと思っている人が居られるかも知れませんが、確かにそれも間違ってはいません。 しかし、よく考えてみて下さい。人は一人では生きていないのです、一人では生きてゆけないのです。人は誰でも「四本の柱」に支えられて生きてきたのであり、生きているのです。その「四本の柱」の支えがなければどれだけ自分が努力をしても一生懸命働いても,今の豊かさも、便利さも、自由も手に入れることが出来なかったはずです。それなのに人は自らを支えてくれている「四本の柱」に気づかず、気づこうともせず、「感謝」の心を失い,「自分さえ良ければよい。」という「自己中心的」になってしまってはいないでしょうか。   
 喉が渇いて飲む一滴の水も天地の恵みのお陰であり、お腹がすいて食べる一粒のお米も多くの人たちの労力のお陰ではありませんか。                       
 そうした、あたかも当然であると思われている自らの足下を見つめることをしなくなった親に育てられた子供達、その子供達が今、全く感謝の心を知らない親となり、家庭の教育に於いて子供に何を教えたら良いのか分からなくなってしまっているのです。そこにこそ、現在日本の教育問題の根幹があると私は思うのです。 日蓮聖人は次のように仰せになられています。   

『父母子をうみて眼、耳有れども、物を教ゆる師なくば畜生の眼、耳にてこそあらましか。』

 このお言葉の意は、「人が子供を産み、子供に眼耳があっても、物事の善し悪しを教える師が無ければ、その眼も耳も畜生の眼、耳でしかない」ということで、子供にとって最初の物事の善し悪しを教えてくれる「師」は「親」なのです。 

 更に、

『世に四恩あり。之を知るを人倫となづけ、知らざるを畜生とす。』

 この教えの意は「人が生きているためには必ず『四本の柱』に支えられているということを知り、その『四本の柱』に対して『感謝の心を意に念じ、口に出し、身に現す』ことが出来るのは人の道を知っている人間的人間であり、それを知らない人は畜生的人間である」との仰せなのです。     
 これらの教えは人間と動物の違いを明らかにされたもので、この基準に現在の社会を照らしたならばいかに多くの人が畜生化してしまっているかが分かります。   
 今の世の中の諸悪の根源もそこにあるように思うのです。人間は生まれたときは畜生以下です。自分一人でものを食べれるようになるのも他の畜生よりも遅いですし、一人で歩けるようになるのも遅い。その畜生以下の人間が畜生的な親に育てられ、畜生的人間によって教育されれば、より凶悪な畜生になってゆくのは当然ではありませんか。今の青少年の凶悪犯罪はその結果の一つの現れなのだと思いませんか。それを子供の責任や学校の責任に転嫁している親が多いのは誠に残念でならないのです。それではいつまでたっても教育は良くならないし、日本の社会はますます興廃してゆくだけなのです。
 今の世の中の諸悪の根源を育んできたのは今の子供ではありません。今の子供には何の責任もないのです。今こそ親や大人が戦後五十数年、弱肉強食・優勝劣敗の生存競争の中で見失ってきた「感謝の心」を子供と共に取り戻すときだと思います。そして、子供と共に「感謝の心」を以て毎日を生きることが教育改革の第一歩だと思うのです。 
                


     2、四本の柱とは
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 それでは四本の柱とは何かと申しますと 一、養育の柱 二、扶助の柱 三、保護の柱 四、恩恵の柱で、  「養育の柱」=自らを生み、社会的に独立するまで養い育ててくれた「親」 

 「扶助の柱」=日々の一米一粟に至るまで自らの命を持続するために直接間接に自分を助けてくれる「一切の人々」        

 「保護の柱」=他民族に脅かされず、侵略されることなく国民一人ひとり安住出来るように護ってくれる「国家」        

 「恩恵の柱」=宇宙法界の正しい運行による天の恵み、地の恵みを与えてくれる「天地自然と宇宙法界」

のことです。   

 しかし、現実には核家族化して親を蔑ろにして、命ある物を粗末にし、多くの人々の相互扶助は当たり前だと思い、国家の存亡は自分には関係ないとうそぶき、物質中心の欲望を満たすために自然を破壊し、異常気象を引き起こしていても、他人事のように考えている利己主義者、刹那主義者、現実主義者,破壊主義者が多くなり、「じこ虫」という虫がはびこり、日本の社会を蝕んでいるのです。 
       


    3、「感謝の心」によって、生み、養い、育む心
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 それでは「感謝の心」が人々にどのような心を生み、養い、育んでくれるのかと申しますと、養育の柱への感謝の心が自らの生命が永遠に続いてきた生命の伝承者であるとの自覚を生み、自らの「生命の尊さ」を知り、それと共に命の有る物に対してもその「命の尊さ」を知ることが出来るのです。
 「親が勝手に生んだ」
 「死ねば終わりだ」
と言うような、トコロテン人生では自らの生命の尊さを知ることも出来ないし、自分以外の命の有る物に対する生命の尊さを学び、「命を大切にする心」を育ててくれせん。       
 扶助の柱への感謝の心は、目に見えない多くの人々に思いを致す心であり、「人に対する思いやりの心」「人に迷惑を掛けることをいとう心」「人の心の痛みを感じることのできる心」「物を大切にする心」を養うことができるのです。        
 保護の柱への感謝の心からは「憐れみの心・慈しみの心」を養い、「人を護ることの大切さ」を学ぶことができます。自らの身を親身になって護ってくれるのは「家族」です。その「家族」を護ってくれているのは、収入源である「会社」であり、自らの住む「地域社会の人々」です。しかし、その「会社」や「地域社会」を護っているのが「国」なのです。「国家」という存在がなければ、流浪の民となり、心身共に安住し安心して生活など出来ないのですが、今の日本で一番欠けているのがこの「保護の柱」への感謝の心です。  
 恩恵の柱への感謝の心からは「自然を愛する心」を養い、「自然と人間との共存」を学び、「環境破壊を心から考える」ようになるのです。また、人類の文明文化の源が天地自然の教えのたまものであることを知り、人間の智慧や才覚が自然の前には無力であることも知るのです。また、自分の存在が天地自然を離れて存在しえないことを知り、自分の存在が天地自然の中に存在する一つの存在でしかないことを知ることによって、環境の破壊が、自分の身と心を破壊してゆくことになることを学ぶのです。 
  


    4、「感謝の心」が「いじめ」を無くす         ページのトップ


 これら「感謝の心」から養い、育むことの出来る「心」によって、社会や学校の「いじめ」「家庭内暴力」「学級崩壊」「環境破壊」を無くし、物の豊かさと同時に心の豊かな社会を作ることが出来るのです。しかし、口先だけの感謝ではいけません、心の中だけでもいけません。人が何か物事をするときには必ず、口・意・身の三つを使います。従って、感謝も身と意と口とがひとつになった感謝でなければ感謝になりません。口に「ありがとう」という素直な感謝の言葉を出し、意に感謝の心を念じて、自らの至りなさを「懺悔」し、身に合掌の姿によって感謝を現すことは一切の差別感を超越した人間の奥深い価値を知ることでもあるのです。合掌の姿は心を一所に静止した姿で、自らの身を整え、心の感謝の念と敬いの心を顕わしています。
 その合掌の姿によって、         
 養育の柱には親を思い、先祖の回向供養をし、        
 扶助の柱には自らのいたらなさを懺悔し、          
 保護の柱には国の建国の精神を尊び、国家の安泰を願い、   
 恩恵の柱には天地自然(本有の佛・法・僧の三宝)を尊び、天地自然の正しい運行を願うのです。

日本国家の教育の原点

 戦後日本国の教育はGHQの指示の下、日教組教育によって、戦前の総ての文化文明を悪とし、国家そ

のものを悪と教えてきたこの68年の学校教育を改革するには百年はかかる。

 アメリカの日本国弱体政策の根本は戦前までの日本国家の教育・武士道精神の否定であり、悪行である

ということを徹底して子供達に教育することにあるとの思いから、GHQの指示管理の下に、戦前の文明文

化の徹底した排斥を、日本教育組合という組織形成のために援助をし、マスコミの記事を閲覧管理し、歌や

、芝居や、芸術文化の隅々まで管理監視してなされてきたのである。アメリカ流の文明文化を導入することを

積極的に取入れ、それに積極的に参入する芸能人・文化人・政治家を登用してきたのが68年の今の日本

の姿である。

 日本の眞の国家教育の原点、即ち戦前2600年近くに及ぶ日本国家の教育の原点を言えば、右翼だとい

い、軍国主義者だと決めつけ、排斥してきた。愚かなる日本の政治家よ、文明人よ、マスコミ人よ、そして、

何も知らない一般国民よ。

 日本の教育の淵源は天照太神の遠巧深徳が民の血となりて国美の遺風をなしたる「忠孝正義」を体現し

て美風を完うすることが、日本国家の教育の淵源である。

取り戻すべき日本の教育の実践

まずが倫理的に『父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ』の「孝」「友」「和」「信」の四徳の人倫道徳を固め、次に社会

的道徳として、自他の相対に約して、処世的道徳をたる、『恭倹己を持し、博愛衆に及ぼし』て、社交の美風を発揮せしめ、巧を

拡げ徳を弘むる本能的任務として、開発的に人文の開明を促すべく、『学を修め業を習い以て知能を啓発し徳器を成就し進ん

で公益を広め世務を開く』国家有為の人材を育成し道義的民衆として、「人倫として」「家庭として」「社会として」「人類として」、

各々その徳を全うし天地人を全うしたる道に合し、国家的
観念を以て、国家の威力の上に存在せしむるを要するのが、日本国

家の教育の平和的・報恩的目的なのである。


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