本化聖典「生死一大事血脈鈔」 (山川智應先生新釈虔述)      「法華経の勉強室」に戻る

     (一) 

 生死一大事血脈鈔は、日蓮聖人が佐渡御流罪の、文永八年十月十日の翌年、即ち文永九年二月十一日の御書であります。頂戴したのは、最蓮房と名くる人で、当時故あって、京都から佐渡へ流されて来て居た叡山の学問僧であります。此の人の叡山における学問的位地は、別に確証とてはありませんが、後年この人が京都へ帰ってから後に、聖人の方へ当時叡山で新に唱へ出された、『摩訶止観は法華経に勝る』といふ法門の当否を尋ねて来た文によって、想像することが出来るのであります、それは、此の『止観は法華経に勝る』といふ法門は、聖人の没後数十年にして、武蔵国仙波喜多院の尊海法印といふ人が、叡山に五度も上って常楽院心賀といふ人から受けた秘蔵の法門の一でこれを仙波笠印の法門の一にしてあります。そのやうな聖人没後、数十年経って登叡五度にして得たほどの法門を、最蓮房は佐渡から京都へ帰ると、直ぐとそれを知って聖人へ尋ねて来たのによって、其の叡山における学問的位置が決して尋常のものでないことが知り得られるのであります。

 又この御書は、日蓮聖人の全著作の上に、どういふ位置を占めて居るのであらうかといひますと、この御書は聖人の御書全部を、仮に教判・宗旨・信行・安心といふ四に分ちて、そのいずれに属するものであらうかといふと、信行及び安心に属する御書であって、而もその最特色ともいふべきことは聖人の宗教の三大方面を、この短い御書に、悉く具へて居ることであります。

 聖人の宗教の三大方面といふのは、如何なることであるかといひますると、聖人の宗教は、一面においては佛菩薩の客観的実在を信じ、佛の国といふものの存在を確信するところの、超越的宗教としての方面もあれば、他の一面には佛菩薩や佛の国を主観的に認めるところの、内観的宗教としての方面もあれば、また他の一面には、その宗教的理想とするところのものを、地上に将来建設しやうとするところの実現的宗教としての方面もあります。この三方面は、佛教の術語で申しますと、超越的実在としての、佛菩薩や、佛の国の存在を信ずるところのものは教相的方面と名け、これを自己の主観たる心中に収めるところのものは観心的方面と名け、将来の世界に実現せしめやうとするやうな方面をば願行的方面と名けるのであります。それゆえに之をまた約教、約證、約行ともいひ、即ち教と行と證との三義を具へたことになるのであります。

     (二)

 つぎに此の題号の「生死一大事血脈鈔」といふ名であります。およそ佛法を修行せんとするものは、現今では種々の動機がありますが、古の人々が、真面目に佛法を求めるやうになるのには、かならずこの生死の一大事といふことが、最も大なる問題となるのであります。『我は果していづれより来りて、いづれに去るものであるか』、『善悪の業は、果してその果報の差別歴然たるものありやなしや』、『我等の霊魂なるものは実に死後までも存在して、果して善悪因果の業に応じて異なれる果報を感ずるものなりや否や』などとふことは、今もなほ疑問とせられるものであります。わが日蓮聖人も『日蓮幼少の頃より佛法を学び候ひしが、念願すらく、人の命は無常なり、出る気はいる気をまつことなく、風の前の燈にほ譬にあらず、かしこきもいやしきも、老いたるも若きも定めなき習ひなり、さらば臨終の事を先に習うて後に他事を習ふべし』とさへいはれてあります。
 『生死の一大事』といふのは、この『臨終の事』であります。禅宗などでは、やはり此の関門を大事としまして『生死の関門を踏破す』などとさへ書かれて居るのであります。

 最蓮房といふ人は、この『生死一大事血脈鈔』を賜はるにいたるまでに、相当に聖人の教を受けたもので、およらく是までに、諸宗との異目や、法華経の利生などについては、一わたり承はって、此時までにいよいよ聖人の御弟子にならうと云ふ決心がついたものと見える。そして御弟子にならうと決し、先づ第一に生死の一大事の血脈は如何とお尋ねしたのにお答になった御書であって、いはば一面には、最蓮房が聖人の淵底をば試みた意味もあるものであります。そこで此の御書があった後、二月十五日に、最蓮房はいよいよ聖人の御弟子として、本門の圓頓戒を受けて居るのであります。

     (三)

 生死一大事といふことは、昔にあっては、そんなに大事であったかは知らないが、現代にあってはそれほどに大切でないといふ考えの人もある事でしょう。ことに佛教は無霊魂説であるといふことを、取りちがへたりしますれば、必要もないことのようにも思はれるでありましょう。無霊魂とすれば吾々の『生』の間こそ大切だがその後は、吾々すでに存在しないのであるから、少しも大切でない。『生一大事』ではあるが、『生死一大事』ではないなどと考へられるかも知れません。けれども佛教は、無霊魂とはいひまするが、無因果説ではないので、但霊魂といふ人々個々別々の魂を、或は神から貰つたとか、或は自然に持って居るものであるとか、『我』の魂は確に存在するといふ考とは異ふのであります。

 それでは『我』のないものが、どうして現在に、我である、彼である等といふ差別がたしかに在り、自己の観念といふものが存在するのであるかといふと、それは『五蘊仮和合の我である』といひます。個々別々の霊魂を持って居ると考へて居る『我』は、仮の存在で、真実の存在ではないといふのです。五蘊(色蘊といふ物質のあつまり、受蘊と云ふ感覚感情の集り、想蘊といふ思惟想像の集り、行蘊といつて意志行作の集り、識蘊といって自己意識の集り)といふ物質及び精神に亘っての五の蘊りが和合して、一人一人異つた人格を作って居るといたします。

 それで因縁といふのは、因は此の五蘊假和合の我が、経験したことの多い事柄に就て、それに利くあり敏活である傾向を持つことをば、『習果』といふのに対して、その経験そのものを『習因』といひ、その経験するやうに促す所の外からの誘因お『縁』といふのであって、因縁が和合すれば『習果』といふものが生ずるので、そこで因即ち経験を積むことを『業』といひ、『業』を摘むことによって、自己の假和合して居る五蘊へ、一つの強い習性を与える。それを『業力』といひ、さて人は死んで物質そのものと他の四蘊との和合は一時離れたやうであっても、それは全く離れたのではなく、『業力』は存在して、つぎの肉體を取るべく、恰度適当な生處へ生れて行く。それを『業果』といふのであるとします。これ小乗の『業感縁起論』であります。

 それゆえ霊魂といふ本来からの個々別々の魂をばみとめませんが、五蘊假和合のものに『我』といふ名をつけて、ひたすら自利を測るところの『業力』は存在するものであって、此の業力が生死にわたりて、生れかはり死にかはりして居るのであります。『自我』の為め、若しくは『自我』に属するものの為に、或は善業、悪業を積んでその善悪の因果によって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道を輪廻して居るのであると説きます。仍で小乗の佛教では、善悪の業を積んで、人間、天上、の二善趣、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に生れることは、孰れも苦である、人間の寿命もとより短い、天上の寿命もまた限りがある。壽つきれば再び他の趣にさまよはざるを得ぬ。六道輪廻は、五蘊假和合の我を我とおもうて執愛するがゆえである。この人我の執を離れて、『我なし』『真実は無我である』ことを徹底して覚り、六道の苦楽善悪に超越した修養をすれば、再び六道に生れないで、まことの涅槃真実の寂静に入り得るであらうと説いたのが、佛の小乗の六道解脱の教であります。

 大乗にいたつては、更に此の五蘊なるものすらも、假の存在であって、実には無いものとするので、それを「般若心経」などに、『観自在菩薩、五蘊皆空と照見して、一切の苦厄を度ふ』と説かれたのであります。前の人がを離れるのを『人空』といひ、五蘊実在の執を離れるのを『法空』といふのであります。この人法二空によって、大乗の無我に達します。けれどもそれは『真実には』といふ肩書つきの談であって、それをまた『眞諦の法門』とも、『空諦の法門』ともいふので、これに対し、『假にいへば』といふ肩書つきの談では、善悪因果の輪廻はどこまでもあるのであって、それをば『假諦の法門』とも、『俗諦の法門』ともいふのであります。彼の猛火の中にあって、『心頭お滅却すれば、火もまた冷かなり』といったり、頸を切られやうとして、『電光影裡春風を切る』といったのなぞは、みな眞諦、空諦の覚悟から、俗諦、假諦の方を客観視した叫びであります。

 此の眞諦と俗諦とを雙方に持って、その中に差別即平等、平等即差別の真理を認めるのを、中諦といひ、さらに空、假、中の三諦を一の中に三あり、三は一に即するといふやうに円融自在に用いるのを、円融三諦といって「法華経」の法門であります。それから「法華経では、人法二空を以て、一度凡夫の境界では破った常楽我浄をば、更にこの二空を通り越した佛の境界において立てます。中道実相の常寂光土といふ佛土があり、金剛不壊の常住三身といふ佛身があります。

 かやうな次第でありますから、、佛教は無霊魂説であっても、やはり生死は一大事なのであります。もろもろの人の迷いは、生を貪り、死を断無であるとおもうところに存します。断無の死と考ふる時に、いかに人間は寂しいものでありましょうか。子孫が即ち自身だなどといって、どこまでも自我執着を慰めやうとしますが、子孫がなかったり死んで了つたらどうします。養子をしてもそれは自己の肉體のものでない限り、自己の永生にはならない。世の中に事業または精神を残す、それが自己の永生だとしますか、事業や精神の残すべきものが出来なくて死んだらどうしますか。「生死一大事」は、依然として人間の精神に於ける大なる関門でなくてはなりません。

     (四)

 本御書の文に入りての解釈は、従来餘り詳にせられて居ないのでありまして、それは本書は録外の御書である為に、註釈も、「微考」といふのと、「考文」といふのとがある限りで、これ等は御引用の経釈等の出所や、故事などを示したもので、文の義理を明めたのではありませぬ。おれゆえ今これを釈義しますることは、甚だ僭越ではありますが、ただ大聖人の御書全体から帰納して、聖意の在る所を推し奉るのであります。若し聊かでも聖意を得るものがあれば、これ聖の御加被であり、恩師先生御指導の賜であり、若し正義を失ふものがありますれば、これ私の信念の未熟より来るものであります。併しながら此にこれを公に致しまするのは、純なる信念に住して、正義を以て解釈したと確信しつつあるところでございます。

 彌天の道安法師このかた、佛典を解釈する慣例には、序分、正宗分、流通分といふ三段に分ちます。これまた印度論師の用いた處でありまして、天台大師も亦その形式を準用せられて居ります。我が日蓮大聖にいたりましては、諸経諸論を解釈するに用いられたばかりでなく、「観心本尊抄」の中には、一代佛教五十餘年の全体をも、序、正、流通の三段に分たれ、更に法界所有の一切の経典をも束ねて一とし、それをば三段に分たれてあります。

 序分といひますのは、其の経論等において専ら説かれる法義の起る準備であり、また因縁であります。正宗分といふのは、まさしく其の経論等の宗として説くところの法義を明した部分をいひますので、流通分とは、其の宗とする所を横にひろく世に伝へ、縦に長く後に伝へる部分をいふのであります。そして、この序、正、流通は何ものにも通ずるもので時間に約すれば始中終、空間に約すれば中心と両端で人間の身にも、草木の上にも、如何なる事物の上にも、序正流通を具へて居るのであります。佛教の経典解釈にこれを用いるのは、慣例ではありますが、決して無意義な慣例ではなく、まことに真理を包蔵した仕来りであると私はおもふのであります。

     (五)

 さて当御書において、序、正、流通を分ちますれば、最初の『御状委細披見せしめ畢んぬ』から、『釈迦多宝の二佛も生死の二法なり』といふまでをば、私は序分にとりたいとおもひます。その故は当御書の生死一大事の血脈は、信心をその體とするので、観解を體とするのではありませぬ。併しながら其の信心はただの盲目的の信ではない、高尚なる観解を其の起因としてもって居るものであることを示されるために、本化別頭の観解をば劈頭に挙げられたのであらうかと排するのであります。つぎに正宗分は『然れば久遠実成の釈尊と、皆成佛道の法華経と、我等衆生と』といふより、『本化地涌の利益是也』といふまでを取り、證、行、教の三義に亙りて、教門の信心を表とした生死一大事の血脈をお説きになったものであると拝します。流通分は『上行菩薩末法今の時、』といふよr以下、末文までを之に配し、序分の上行付属と相応じて、正宗分の法門の、末代の流通を勧誡せられたものと拝見するのであります。

     (六)

本文

 御状委細披見せしめ候ひ畢んぬ。」夫れ生死一大事の血脈とは、所謂南無妙法蓮華経是れ也。」其の故は釈迦多宝の二佛、宝塔の中にして、上行菩薩に譲り給ひて、此の妙法蓮華経の五字、過去遠々劫より寸時も離れざる血脈也。」

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本文解釋

 御手紙は、委しく細やかに披見しました。夫れ生死一大事の血脈といふのは、所謂妙法蓮華経是れである。其の故は、釈迦、多宝の二佛、多宝塔の中で、(本化地涌の菩薩の上首)上行菩薩に譲らせられて、此の妙法蓮華経の五字を以て過去の遠々の昔から已来、寸時も離れないところの血脈だとせられたからである。

本文解説

 最蓮房は、大聖人に対って、佛法の最第一の大事とするところの、生死の一大事の問題について、抑も佛から伝へられたる、過去、現在、未来の、萬億の佛にも共通する相伝の安心、父から子、子から孫と、子孫子孫に同じ血脈が伝はるやうに伝わって行く安心は何でありましょうか、それを教へていただきたいと、委細と自分の疑惑と其の求道の至誠とを述べたのであります。

 すると大聖人は、それに対へて『夫れ生死一大事の血脈とは、妙法蓮華経是也』と喝破せられたのは、いはゆる破題である。けれども其の妙法蓮華経は、どうして生死一大事の血脈として伝わったのかといふことを確にせねば、其頃の叡山の学僧なる最蓮房の前には、妙じき法門ではない。それは彼等は妙法蓮華経の五字を種々に解釈して居たからである。仍で聖人は妙法蓮華経の五字を血脈とする所以を、直に追かけて書き続けられた。それを血脈とする訳は、釈迦、多宝の二佛が、法華経の神力品の時、多宝塔の中で、特に上行菩薩に、お譲りになったのである。但しそれは上行菩薩の為に其の時はじめて此の血脈を授けられたのではない、上行菩薩を仲介人として、末法の衆生の為にお譲りになったのであるといふ意味がこの中に伏せられて居ると拝せねばならないのであります。それでは如何して釈迦多宝が末法の衆生の為に、此の妙法を上行菩薩に譲られたのであるかといふと、それは此の妙法蓮華経の五字が過去の遠い遠い何時とも知れない大昔の劫から已来、一切衆生のいかなるものにも、寸時でも離れないところの生死一大事の血脈だからであると解釈せられたのであります。

 最蓮房は、叡山の学者でありましたから、前申したやうに、妙法蓮華経の五字が、生死一大事の血脈だといふやうな同じ辞は聞いたことがあるのであります。けれども其の下の『其の故は』といふ以下は、おそらく聞かなかったのでありまやう。併し若し最蓮房が、叡山で慧心流でも、檀那流でも、其の奥儀に参じた人であって、霊山の圓頓戒の授受の相といふのを聞き知って居た人としますれば、塔中の相承は、三学倶傳の妙法であったといふことを仄にこれまた聞き知って居るべき筈であります。ただそれが上行菩薩に授けられたといふことを、強くは考へて居なかったでありましょう。しかるに今聖人は上行所伝であるといふことを強く仰せられてあります。この點が当時の叡山の天台学と、聖人のとは全く違ふのであって、叡山では、伝教大師の「伝法偈」等に、『三学倶伝』とあって、妙法蓮華経の観心の法門は、戒、定、慧、の三学を、一時に伝へられるものである。一念三千、一心三観は、三世諸佛の成佛の妙法であって、これは智慧であると同時に、これ以外には成佛の法はないと定めたのだから禅定である、禅定であると共に、この外に心を濫さないと受持するのであるから戒律である。即ちこの観法は、三学倶伝である、その一念三千、一心三観を一言に伝へる妙法蓮華経の五字なのだから、妙法五字即ち生死一大事であるとはいふのである。これ慧、檀両流ともにその正脈の相伝はさうなのであることは、慧心流の七箇相承に見ても、檀那流の灌頂玄旨の一三一の相承といふものに見ても同じなのであります。決して生死一大事の血脈は、南無阿弥陀佛の六字だとも、不立文字の心法だともいってありません。

 けれどもそれを上行菩薩の付属といふことには、なかなか系けて居ないのであります。彼等叡山の学徒は、天台大師は、薬王菩薩の垂迹で、伝教大師は、またその天台の後身だとは申しますが、上行菩薩が塔中の付属を受けて、それが末法に出でて、妙法五字を弘通せられるといふことは、一向に頭に置かなかったのであります。然るに聖人は今それを上行菩薩に譲られたぞとキッパリお断りになりました。すると上行の付属は四句要法である。四句要法はまた五重玄義であるといふことは、学者たる最蓮房にすぐと推量せられて来て、此の妙法五字が久遠以来の生死一大事の血脈だといふことも、殆領解せられるようになります。

     (七)

本文

 妙は死、法は生なり。此の生死の二法が十界の当體なり」。又之を当體蓮華ともいふなり」。天台の云く、当に知るべし、依正の因果は、悉く是蓮華の法なりと云々。此の釋に、依正といふは生死なり。生死これあれば、因果又蓮華の法なること明けし」。

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本文解釋

 (妙法蓮華経の)妙とは死、法は生である。此の(妙法)生死の二法が、(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩仏陀の)十界の当體である。又此(妙法の当體)を当體蓮華ともいふのである。天台(大師)のいはれたのに、当に知るべきである。依(報)正(報)の因果は、悉く是蓮華の法である云々と。此の(天台の)釋の中に、依(報)正(報)といふのは、(亦)生死(の二法)である。生死といふことがあれば、(因果の二法のあることは勿論であるから)因果また蓮華の法である事は明かなことである。

     (八)

本文解説

 前の節までで、生死一大事の血脈は、妙法蓮華経の五字であると御断定せられた。そこで今の節以下では、妙法蓮華経そのものは、生死の二法を教へられたものだといふことを示されるのであります。

 妙法蓮華経の五字をば、まづ妙法の二字で生死の二法を説き、つぎに蓮華の二字で生死の二法をお説きになってあります。はじめの妙法の二字についてのところから解釈します。

 『妙は死、法は生なり』と御文にあります。これは死とは隠れたるもの、生とは顕れたるものといふ義からの解釋で、又六道乃至九界の迷の境界に約して申されたのであって、迷の境界から見ますれば、一切諸法の妙は、潜在して隠れて居ります。即ち妙は死であります。併しながら法は十界におのおの異なった相を示し、地獄は地獄、餓鬼は餓鬼、乃至、菩薩は菩薩、仏陀は仏陀で、つねに生き生きと其の相を顕れて居ります。即ち法は生であります。若し之を佛から見ますれば、却て『妙は生、法は死』であります。なぜかといふと、佛の智慧から申しますれば、『妙とは蘇生の義なり』とあって、一切諸法に潜在せる妙の義をば、悉く顕発して、十法界をつかねて佛の妙法として了はれるのであります。そうすると迷の衆生の方から見て居た差別の法はなくなって了って、諸法ことごとく妙となりますから、今までの迷の境界から見て生き生きとして居た十界差別の法は、かへって隠れて、法界はみな功徳聚となるにいたる。そこで『妙は生、法は死』となるのであります。すなわち

    妙ハ死、法ハ生=九界観──┐
                       ├─ 十界是生死妙法の当體
    妙ハ生、法ハ死=佛界観──┘

であって、生死の二法は十界妙法の当體であるとなります。

     (九)

 十界生死の当體は、妙法の二字であると前節で定った。次いでは十界妙法生死の当體が、そのまま亦蓮華の法である、之を当體蓮華ともいふのだと解釋せられるのであります。なぜ生死の当體が蓮華の法といふのであるかとならば、蓮華を以て妙法を譬へるのには、二つの義があります。一には自性清浄の義、二には因果倶時の義であります。

 自性清浄の義といふのは、十法界の一切衆生は、本来清浄なる佛性を損はないこと、恰も蓮華が淤泥の中にあっても、少しも汚されないが如くあるのをいふ。

 因果倶時の義といふのは、他の華は、或は一華多果、多華一果、有華無果、無華有果、或は一華一果のものでも前華後果、前果後華などといふやうにあるのが、蓮華は、かならず一華一果であって、而も華果同時といって、華の莟の時は蓮実がすでに莟の中にあり、花開いて蓮があらはれ、蓮の実が成熟して華が落ちる。始中終、華と蓮とは倶にありて、少しも別でない。ちょうどそれの如く、因と果とは同時であって、因が終って果が来るにあらず、因はすなはち果の始まり、果の熟した時は因の終である。因果は異ること、蓮実と蓮華とのごとく、因果の同時なることは、また蓮実と蓮華の如くであるといふのであります。

 さて此の妙法生死の当體なる十界が、界々異る相體性を持って居るけれども、本来清浄の平等佛性は失はずに居る。また界々異る果報は、因果の法によって異って居るのである。そこで此の妙法生死の十界の当體を、当體蓮華といふのであります。


     (十)

 天台云く、当に知るべし、依正の因果は悉く是れ蓮華の法なりとある。依とは依報、正とは正報といふことでありまして、正報徒は正しく業因を修して、其の果報を受けたるものの義、依報とは其の正しく果報を受くる衆生の依りどころとして報われたるものの義であって、正報は衆生、依報は国土をいふのであります。その衆生も国土も、ともに因果の二法に依る、これ悉く蓮華の法であるとて、当體蓮華の義を釋せられたのであります。

 そこでわが聖人は、更に此の釈義をかさね釋せられて、『依正といふは生死なり、生死これあれば因果また蓮華の法なる事明けし』といはれてあります。依報は死、正報は生である。依正の二が生死であるならば、生死は因果の法であり、又蓮華の法であることはいふまでもない明かなことであるとの義であります。

 詮ずるところは、妙法生死の二法が、十界の当體である。その十界の当體そのまま蓮華の法であり、又十界には依報正報の二つがある。その依正もまた生死の二法であり妙法であり蓮華である。すなわち、十界の依正因果の二法は、生死の当體で、此の当體即妙法であり蓮華であると示されたので、畢竟生死は妙法蓮華経であるといふことに結帰するのであります。

     (十一)

 私共の肉體の生死といふものは、どうなるのであるかといふと、やはり隠顕出没を以て解せられるべきもので、私共は肉體といふものが、目に見えて居る時、人間の肉體としての法が、そこに存在する時にこれを「生」といひ、肉體としての法が分解せられた時を『死」といって居る。けれどもその肉體を為して居た物質は、決して無くなって了ったのではない。其れは肉眼に見えない微妙なる物質として存在して居るものであります。すなわち「妙」は死、「法」は生といふことは、肉體についても真理なのであります。况して精神的の問題になって来れば、上に解釈しましたやうに、凡夫六道、乃至迷の九界にありては、法界の妙を開き顕はすことは出来て居ませず、また出来ないのであります。幾分かは出来ても、一方の妙があれば一方の妙と相衝突したり、相損害したりする。つまりは「法」たるにすぎない。例せば人間は夜になると眼が見えません。けれども畜生は夜になっても物が見えます。此の點で畜生の方が、人間よりも妙を持って居るやうでありますが、そのかはりに人間は文明の程度に応じて燈火を発明し、自在にそれを用ひて見えない處を補って居ます。そして畜生は燈火を見ると恐れる。かうなると燈火を発明したことは人間の妙であるかはりに、燈火を失へばその妙は無くなること、畜生が夜眼の見える妙のあるかはりに、燈火に遇うふと懼れるのと違ひません。すなわち此等は「妙」ではなくて其の境界境界で持って居る「法」たるにすぎないから、「妙」は「死」、「法」は「生」であります。

 佛教における大小・権実・本迹・教観等の教理は、実に精神的文化の「妙」を顕はしたもので、本門の観心の妙法に至って、「妙」は「生」、「法」は「死」の極致に達する。物質的文化は、科学的研究が、一歩一歩死せる妙を顕はして顕動せる「生」の「妙」たらしめつつありますが、相対的な妙であって、依然として「法」の分際であるにすぎぬ。それはそれ等の物質文化が、すべての人を安楽にし平穏にしないで、却って苦痛にし劇忙にして居るにすぎず、文明になって人間がよいよ狡猾奸點になるのによって明であります。

 ねがはくはこの物質文化に、佛教の洗禮を與へてそして、「妙」は「生」たらしめねばなりません。

     (十二)

本文

 伝教大師の云く、生死の二法は、一心の妙用、有無の二道は、本覚の眞徳と。天地陰陽、日月五星、地獄乃至佛果、生死の二法に非ずといふことなし。是の如く生死も唯妙法蓮華経の生死也。天台の止観に云く、起は是法性の起、滅は是法性の滅云々。釈迦多宝の二佛も、生死の二法也。」 

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本文解釋

 伝教大師の(牛頭決といふものに)いはれたのに、生るると死するといふことは、(一切衆生の)一つの心に(行はるる)妙なる作用である。有と無といふ二つの道は、(ともにこれ)本覚の(心の根本に具へた)真理の徳である、とある。天と地といふのも、陰と陽といふのも、日と月にも、五つの星にも、地獄より佛界に至るまで、生死の二法でないものはない。(法界ことごとくしょうじである)。斯くの如き(法界の)生死も唯妙法蓮華経である。天台大師の「摩訶止観」(の五の巻)には、(諸の縁)起(する法)は、是れ(真如)法性の(縁)起であり、(諸の還)滅(する法)は、(また)是れ(真如)法性の(還)滅である云々と云はれてある(のもこの意である)。釈迦佛と、多宝如来といふのも、また生死の二法である。 

     (十三)

本文解説

 前の節までで、十界ことごとく妙法蓮華経の生死だといふことを釋せられたのではありますが、なほその義を確定する為めに、伝教大師と天台大師の釋を以て證せられるのであります。

 伝教大師の釋によりますれば、生死といふ二つの法は、一切衆生の持つて居る一心の中に具る妙なる作用であり、また有と無、いひ換へますれば、有と空との二つの道は、本来から持つて居る我等衆生の覚りの心に、おのづから具へた真実の徳である。即ち或は隠れ或は顕はれ、或は有といひ、或は空といふことそのことが、心に具る本来の眞徳なり作用なのだとの意であります。さすれば生ずべきに生じ死すべきに死す。みなこれ妙法であって、厭ふべきものもなく、執すべきものもない。この心だに真実に體験出来れば、生死に縛せられることはない筈である。それだから天と地といふも、天は生、地は死、陰と陽といふも、陰は死、陽は生、日と月にも隠顕あれば是も生死であり。その自體も成劫に生じ、壊劫に死す。五星にも陰陽あり、生死あり、地獄から佛界に至るまで、みな生死の二法でないものはない。

 かやうに法界皆生死だといふのも、この生死即ち妙法蓮華経の生死である。妙法蓮華経の隠顕出没である。そのことをば天台大師の摩訶止観には、もろもろの縁起する法も、みなこれ妙法蓮華経の真如法性が縁起するのであり、もろもろの還滅するのであるといはれた文を引いて、詮ずる所は、萬法みな妙法蓮華経の生死、妙法蓮華経の起滅である。或は佛は生死を出でたから佛である。どうして佛に生死があらすかといふかも知れぬ。けれども釈迦佛と多宝如来といふも、また生死の二法を示したものである。釈尊は現説法の生の佛、多宝如来は久滅度の死の佛である。生死の妙法蓮華経をそのまま表象せられた二佛であるとの意味であります。

     (十四)

 十界の依正因果ことごとく妙法蓮華経であると定められ、隠顕出没を以て生死の義を説いて、これ妙法の因果出没であると解釋せられましたから、今や之を一心の妙なる用きに収められるのであります。『生死の二法は一心の妙用である。有無の二道は、畢竟して本覚中道の眞徳である』となれば、生死において自在となることが出来るではありませんか。

 此の一心はおのづから十界を具足して居る。その十界は並列的にただ混沌とし漠然として存在して居るのではない。また並列的に秩序よく存して居るのでもない。十界を具して居るがそれは其の中のどれかが表となって具して居るのであります。人間が表になって具して居るか、餓鬼が表になって具して居るか。畜生が表になって具して居るか。或はまた天上、或は菩薩が表になって具して居るかするのであります。されば或る一人の人でも、時によっては人間が表になり、時としては餓鬼が表になり、畜生が表になりするのであります。
 かくの如く様々に、変遷隠顕するのも、また一つの生死であります。これみな我が一心の妙用でありませんか。ただ前きに説かれたやうに、菩薩以下にあっては、妙は死、法は生であります。地獄が表面になれば破壊苦悩の地獄の法に支配せられ、餓鬼が表になれば不満貪欲の餓鬼の法にのみ支配せられ、乃至、菩薩が表になれば慈愛悲愍の菩薩の法にのみ支配せられる。十界において自在の妙がない。即ち法は生、妙は死である。ただ佛陀の心を表とするとき、十界の妙をことごとく宜しきに随って用ひることが出来る。此時が妙は生、法は死であります。

 「観心本尊鈔」には、瞋りは地獄、貪るは餓鬼、痴なるは畜生、諂曲は修羅、平なるは人間、喜ぶは天上、無常を感ずるは声聞と縁覚、慈愛は菩薩と挙げて、これを人界所具の九界とし、佛界は隠れて現前しないと仰せられてあります。恩師智学先生は、御文を遡源して、人界所具の佛界の心地を公正と解釈せられた。私共が瞋りに囚はるる時、或は貪りに囚はるる時、或は諂曲に囚はるる時、みな其の瞋りの法、貪りの法、諂曲の法に支配せられ、その因によりてその果を感ずるのであります。それは近くその身體の上にすらも其の法があらはれて来ます。しょつちゅう瞋って居れば、その瞋恚の心が面や身體に自然にあらはれます。しょつちゅう貪って居る人、痴情にひたって居る人、みな身體にあらはれます。それは如是相で欺くことは出来ないものがあります。「法は生、妙は死」であります。どんな穏和な人でも瞋る時は、姿形が異つて来る、瞋りの法に支配せられる。しかしどんな瞋りっぽい人でも、始終瞋てつばかり居ることは出来ない。即ち瞋りの心は隠れて=即ち死んで=貪りとか、平かとか、喜びとかの心が顕れるでありましょう。これ餓鬼、人間、天上等の心の生であります。即ち生死の二法は一心の妙用ではありませんか。

 佛教で申しますれば、現在の「生」といふものは、過去の「生」の間に尤も多く薫習した業の力に相応した果報であるといたします。上の話で例すれば、瞋りの心が出れば、姿形もその瞋りの法に支配せられるがやうに、前生の中で一番に色濃く映じた色心の働きが地獄的のものであれば、その心に変じた業力が、新なる物質と包含して地獄の「生」を取るのであるといたします。私共人間は、前の生において、心の働として矢張善悪相半ばした人間に相当する業を修したその結果として、今生に人間の「生」を得て居るのであるといたします。しかしながら心はもと隠顕すること、いかなる瞋りっぽい人でも始終瞋つてばかりは居れないやうなものでありますから、前生の心の働きの結果としての今生の生も、やがては他にかはるべき運命をもって居るものであります。即ち言ひかゆれば、心はつねに活動と休止して無限に続くところの存在であります。そのことをば『生死の二法は一心の妙用』といはれたのであります。そして其の活動と休止はつねに変化流転するので、それが十界因果の法であります。

 心は休息と活動とを本来に持って居て、一つを缺いてもならないものであります。その実例は、十日間食物を与えないで置いても死なない動物でも、僅に三日間睡眠を与えなければ死ぬそうであります。これ心は休息を要求する確証であります。それと共に屹と心を働かさしめないで置けば、必ず狂ひ見たいになるでせう。これ心は活動を要求する證であります。すなはち『生死の二法は一心の妙用』であります。斯く解しますれば、生死において何の怖るべきことがありませうか。ただ悪業の衆生こそ怖るべきでありませう。

     (十五)

本文

 然れば、久遠実成の釈尊と、皆成佛道の法華経と、我等衆生と、三つ全く差別なく妙法蓮華経なりと解りて、唱へ奉る處を、生死一大事の血脈とは云ふなり。此の事、但日蓮が弟子檀那等の肝要也。法華経を持つとは是なり。所詮、臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を、是人命終為千佛授手、令不恐怖不堕悪趣と説かれて候。悦ばしい哉、一佛二佛には非ず、百佛二百佛には非ず、千佛まで来迎し、手を取り給ふ事、歓喜の感涙押へ難し。法華不信の者は、其人命終入阿鼻獄と説れたれば、定めて獄卒迎へに来りて手をや取り候はんずらん。淺?淺?。十王は裁断し、倶生神は呵責せん歟。今日蓮が弟子檀那等、南無妙法蓮華経を唱へんほどの者に、千佛の手を授け給はんこと、譬へば夕顔の手を出すが如しと思召せ。過去に法華経の結縁強なる故に、現在に此経を受持し、未来に佛果を成就せん事、疑ひあるべからず。過去の生死、現在の生死、未来の生死、三世の生死、法華経を離れざる功を、法華血脈相承とはいふ也。謗法不信の者は、即断一切世間佛種とて、佛に成るべき種を断絶するが故に、生死一大事の血脈之なきなり。

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本文解釋

 「さういふ訳だから、久遠実成の釈迦牟尼世尊と、皆成佛道の法華経と、我等衆生と、この三つは全く差別のない、妙法蓮華経の一體ぞと解つて、(南無妙法蓮華経と)唱へ奉るところが、生死一大事の血脈といふのである。此の事は但日蓮の弟子檀那等(のみが受け持つことのできる)肝要(の法門)である。法華経を持つといふのは、是をいふのである。

 (理義はしばらくさしおき)つまるところは、(無常の風は、何時吹くかも知れない、)臨終只今に在りと解つて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふろ人をば、(法華経の勧發品には)是の人命終らば、千の佛は手を授けられ、(死を)恐怖れしめず、悪趣に堕ちしめずと説かれてある。悦ばしいことではないか、一、二の佛ではない、百二百の佛ではない。千の佛までも御来迎くだされて、手を取りくだされるといふことは、(何といふ勿體ないことであらうか)。歓喜ばしさに感涙も押へきれないばかりである。

 法華経を信じない者をば、(法華経譬喩品に)、其の人命終りて阿鼻獄に入らんと説かれてあるから、定めて(牛頭馬頭の)獄卒が迎へに来て、手を取ることであらうわい。なんとあさましい、おそろあいいことではないか。十王は(謗法の罪を)裁断かれ、倶生神は呵め責むことであらう。

 今日蓮が弟子檀那の、南無妙法蓮華経と唱へるほどの者には、千の佛が手をお授けくだされることは、譬へて見れば、瓜や夕顔が、(あちらからも、こちらからも)手を出すがやうであらうぞとおもはれよ。(何といふ有難いことであらうぞ)。過ぎし世に法華経の縁を結ばれたことが強かったから、現在の世に、此の法華経を受け持ち、未来の世に佛の果報を成就することは、少しも疑ふべきことではない。過去の世の生死、現在の世の生死、未来の世の生死、この三世の生死が、法華経を離れない功徳をば、法華経の血脈相承とはいふのである。法華経を謗り背きて信じない者は、即ち一切世間の佛種を断つと説かれて、佛に成るべき種を断ち切ったのであるから、生死一大事の血脈がないのである。

      ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×  ×   ×  ×  ×  ×  ×  ×

     (十六)

本文解説

 此の前に釋した處までは、最初の破題ともいふべき御文を除いては、此の御書の主要なる法門の前提とも目すべきものでありまして、いはば序分といってもよいのであります。それは解義釈明の部分で、直ちに信念修行お正宗には這入って居ないのでありました。しかるに今ここに挙げました處からは、正しく日蓮主義の信念修行を示されることになるのであります。

 仍て此の部分は、日蓮主義における安心證道を示し、更にこれを教道にわたし、また證道にもどして、教證二門の雙照雙明の宗格をおのづからお顕はしになって居るのであります。私が本御書によりて、日蓮主義の教門、行門、證門の差別を感得しましたのは、七八年前「日蓮聖人と親鸞」を著述した時でありますが、その教行證三義の内、今の文は本宗における證道の生死一大事を明して、而も教道を離れないことをしめされたのであります。

 それではいかに證門に約した生死一大事が示されてあるksと申しますと、上の御文の中で、『然れば、久遠実成の釈尊』といふより以下、『法華経を持つとは是也』とあるまでが、それであります。即ち『久遠実成の釈尊』と『皆成佛道の法華経』と『吾等衆生』との三は、全く差別なしと解つて、南無妙法蓮華経と唱へる常處が生死一大事の血脈だとあります。御文に、佛と、佛の法と、衆生とは三つ全く差別がないとありますが、これはいかなる法門であるかといふと、私はこれを本門の三法一體即ち本門における心・佛・衆生の一體を示されたものだと拝見するのであります。

 『久遠実成の釈尊』が、本門の佛法を示されたことはいふまでもなく、『皆成佛道の法華経』は、本門の心法を示されたものと確信するのであります。即ち本門は佛界を中心として一切を観るのでありまして、「法華玄義」や「摩訶止観」における『三法妙』(心佛衆生一體)の『心法』は、九界の衆生の心法を指したものでありますが、日蓮聖人の御法門は、本門の法華経を基準とせられてありますから、心法は佛の心たる『皆成佛道の法華経』をお採りになったのである。それゆえに

 久遠実成の釈尊・・・・・本門佛法  ─┐
 皆成佛道の法華経・・・本門心法  ─┼─三無差別=南無妙法蓮華経=生死一大事=證道安心
 吾 等 衆 生・・・・・・本門衆生法 ─┘

といふことになるのであります。

 此の三無差別は何によるのであるか、何の故にこの三は無差別なのであらうかと考へると、久遠実成の釈尊と、吾等衆生とが、迷悟の相違あり、常住と無常との相違あり、功徳不功徳の差別、絶対非絶対の差別等、さまざまの相違がある。それではどうして無差別なのであるかといふと、無差別の因は、本門の心法たる法華経によるのであります。釈尊は法華経の功徳果報としての実在であり、我等衆生は心内に潜在しつつある実在である。即ち法華経といふ心法によって無差別一體となるのであります。即ちこの場合は妙法を中心とするのであります。それゆえに御文にも『三つ全く差別無なく妙法蓮華経なりと解りて、唱へ奉るところを、生死一大事の血脈とはいふなり』と仰せられたのであります。此の本門に約せる三法一妙の法義は、天台では普通にいはぬ所でありまして、日蓮聖人の唱導の法門でありますから、『日蓮弟子檀那等の肝要、法華経を持つとは是也』といはれてあります。

 この證道に約した安心は、教門の信仰に依って保たれる。そこで臨終只今にありと解り、信心を致して、南無妙法蓮華経を唱へれば、命終には千佛の来迎ありて後生の畏怖なからん。而してさやうに後生の大安穏なるは現在の信念修行により、その現在の信念修行は、過去の法華経の結縁の強盛なるに依るのであるとは、これは證道の法門を教道にわたされたのであります。かくて過去、現在、未来の、此の三世の生死、常に法華経に離れない功徳をば、法華の血脈相承といふぞとしめされたのは、再び證道の法門に結ばれたものであります。

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 佛法には何よりも大切なものは、聖教量である。佛の弟子ならば、佛の経文を以て、自己の信仰の基 準としなければならない。日蓮聖人の弟子であるならば、日蓮聖人の御書を以て、自己の信仰の最後の證憑としなければならない。聖教を基準とすることを忘れた信仰は、もはや佛教の信仰でない。日蓮聖人の弟子檀那の信仰でない。
 然るに個人主義の熾なる現代の思潮は、遂に此の佛教到頭の問題、日蓮主義の根本問題をも忘れて自己の知識を能判とし、西洋人の思索を能判として、佛教や、日蓮主義の信仰内容を批判せんとする自称佛教徒や自称日蓮主義者が出て来て居る。これくらい自家撞着のものはない。それならば日蓮聖人の信者でなく、寧ろただ一人の日蓮讃歎家であるがよいのである。
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     (十七)

本文

 総じていはば、日蓮、弟子、檀那等、自他彼此の心なく、水魚の思をなして、異體同心にして、南無妙法蓮華経と唱ふる處を、生死一大事の血脈とはいふ也。而も今日蓮が弘通する處の所詮是也。若し然らば広宣流布の大願も協ふべきもの歟。剰へ日蓮が弟子の中に、同體異心の者これあれば、例せば城者として城を破るが如し。

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本文解釋

 総じて(一口に)いったなら、日蓮の弟子檀那等が、自分だ、他人だ、彼だ此だといふやうな、(別々に離れた己を立てる)心がなく、水と魚との思ひをして、體は各異って居ても、心は同じく一つであるといふ異體同心であって、ともに南無妙法蓮華経と口々に唱へるところを、生死一大事血脈といふのである。而も今我れ日蓮が弘通する所詮の目的は此処にあるのである。若しそのやうに(凡そ題目を唱へる人が異體同心で、水と魚の思ひをして修行するならば、広宣流布(一天四海皆帰妙法)の大願も(かならず)協ふべきものだとおもふ。(然るに此の異體同心で修行することが出来ないのみでなく、)剰へ日蓮が弟子(と名乗るもの)の中で、同體異心のものがあれば、例へば城を守るべき者として扶持せられながら、却て城を破り亡す謀叛の者と同じである。

     (十八)

本文解説

 此の章は、前の章が證法安心に約して生死一大事の血脈を説かれたのに対して、行法修行生死一大事の血脈を説かれたのであります。 この中には、日蓮聖人と、弟子檀那と、南無妙法蓮華経との三つが内容の実體として挙げられ、『自他彼此の心』といふ『異心』と、『水魚の思』といふ『同心』と、『日蓮弟子檀那』の個々の體といふ『異體』と、『日蓮弟子檀那』を総合した團體としての『同體』とが説き示され『弘通の所詮』『広宣流布の大願』といふ目標が掲げられて居ます。

     (十九)

 そこで此の日蓮聖人と、弟子檀那とが、異體同心で唱へる所の南無妙法蓮華経、それが生死一大事の血脈であると示されてあります。この異體同心といふのは、どういふ事を指すのであらうか。劉備玄徳が、諸葛亮孔明を得た時に、寡人の先生を得たるは、猶ほ魚の水あるが如しといったことは、有名な話でありますが、これは玄徳を魚とし孔明を水としたのであって、決して孔明を魚とし、玄徳を水とした語ではない。その點では、世間でよくいふやうに『魚心あれば水心』といふ相互平等的の意味ではない。とすると今此の御妙判に『日蓮、弟子檀那等、自他彼此の心なく、水魚の思を為して、異體同心にして南無妙法蓮華経と唱ふる』とある水魚とは、どういふ意味であらうか。ふるくは此の水魚の心をば、弟子檀那同士が、互に魚となり水となって、仲よくせよ、互ひに扶け合ふやうにやって行けといふ意味に解して居たのであります。

 それは洵に平易にして解りよい釈義である。けれども其のやうにさへして居れば、広宣流布の大願も協ふといふことは、少し領解せられにくいことではあるまいか。否、凡夫同士が、さまざまの稟性や教育や、習慣や経歴や、位置やなどを持って居て、感情も、意志も、理性も、悉く異って居る。此の異體のものが、魚と水との如く、互に睦じくするといって、果してそれが出来るかどうか。『俺はこれほど魚心を示して居るのに、彼は水心がない』。『わしは水心をこんなに持って居るのに、彼の方に魚心を欠いて居るからいけない』。『イヤ、その彼だの我だのといふ心がいけない』。すると彼と我が無くなれば水魚の思はどこへ持って行くのだ。何が水、何が魚だ。といったことになって、全く以て纏がつかぬ。となると、一體どうすれば可のか。

     (二十)

 恩師田中智学先生は、二十有餘年前、此の異體同心を解釈して、また些かの疑義を容るべからざる鐵案を下されました。

 それは『異體』とは、日蓮聖人、弟子檀那が、格別の肉體を持ちつつあることである。同心とは弟子檀那が、ことごとく日蓮大聖の心を以て心とすることであって、「諸法実相抄」に『日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩に定りなば、釈尊の弟子たること豈疑ふべきや』とある。その『同意』とこの『同心』とは同じで、日蓮大聖に同心することを指すのである。『水魚の思』とは、水は大聖人を譬へ、魚は弟子檀那を譬へる。弟子檀那の『魚』の『異體』は、日蓮聖人の『水』に『同心』して『南無妙法蓮華経』と唱へて、はじめて本化の宗の御題目である。此の異體同心の意義を忘れて、ただ弟子檀那が凡夫の心を合せてお題目を唱へて居ればそれでよいとするから、『一天四海皆帰妙法』『一国同帰戒壇成就』の洪願を忘れ、ただ個々の煩悩慾たる商売繁昌病気平癒の為に御題目を唱へる。稲荷さまでも何でもかまはず拝む。拝むところは何でもお題目さへ唱へれば、それで日蓮聖人の弟子檀那だ。中よく講中を組んで行かうではないか。といふやうな事になってしまふのである。それで何の広宣流布ぞ。何の所詮の大願ぞ。宜しく大聖人の御心に同じ奉ることを以て水魚の思の異體同心と解し奉るべしと断ぜられたのであります。

     (二十一)

 これで漸く異體同心の実義がわかって、それ以来また異議を挿むものはなくなったのであります。斯く大聖人に同心し奉ることによって、南無妙法蓮華経の御題目の御心に、いかなる凡夫の心も同如することが出来るのであります。それが大聖人の所詮であり、広宣流布の大願である。『日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらん歟』とある、地涌の菩薩とは、元品無明の大地を破って出る、一切衆生の本因佛性の躍動であります。この躍動は私共凡夫にあっては、自発的に出ることはない。地涌の菩薩の出現としての日蓮大聖に同心し奉ることによって、はじめてそれを分々に躍動せしめることが出来るのであります。

 若し大聖人の出現がなかったならば、唱へることはできない。また大聖人に同心し奉りての御題目は、我が己心中の地涌の菩薩の出現である。それを、『末法に妙法蓮華経を弘めんものは、男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現にあらずんば、唱へがたき題目なり』と仰せられ、かくて『日蓮一人、はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へ伝ふるなり、未来もまた然るべし。是豈地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とす』と豫讖せられてあるのは、此の「生死一大事血脈鈔」の異體同心の南無妙法蓮華経が、広宣流布の大願を満足すべき、日蓮が弘通の所詮だとの仰せと同じになるのです。

     (二十二)

 つぎに同體異心のものをば、城者破城に譬へられてあります。同體異心とは何をいはれたかとならば、日蓮が弟子檀那といへば、日蓮大聖人の法身の遺業の中の一分子でありますから、同體である。その同體の弟子檀那が、おのおの大聖人の御心を忘れて、自己の心を以て心として居たならば、それは何時まで経っても、異體同心は出来ない。反対に同體異心とならざるを得ない。といふことになります。それを城者として城を破るものとせられました。日蓮聖人の弟子檀那でありながら、聖人の心を以て我が心としないものでありますから、かやうなものがいくらお題目を唱へても、それは大法の上に何の役に立たないのみでなく、為に広布の大願を妨害することになるのであります。

     (二十三)

 以上を日蓮主義の三方面から見ましたならば、将来の戒壇建立、皆帰妙法の理想の時を実現する約行の方面、実現の宗教としての師弟大法三即一妙の法義であります。
 先の約證安心の時の中心は、南無妙法蓮華経の要法であります。此の要法の中心がなければ、本佛と我等衆生、即ち佛法妙と衆生法妙とは融妙しないのであります。今の約行修行の時の中心は、本化上行日蓮大聖であります。若し弟子檀那が、聖人の御心を中心として御題目を唱へるのでなければ、幾萬億の日蓮聖人の弟子檀那と唱へるものがあっても、お題目を唱へるものがあっても、まことの広宣流布全世界の妙法化の実現は、決して出来ないのであります。

     (二十四)

本文

 日本国の一切衆生に、法華経を信ぜしめて成佛の血脈を継せんとするに、日蓮を種々の難に遭せ、結句此の島まで流罪す。而るに貴辺日蓮に随順し、又難に値ひ給ふ事、心中思ひ遣れていたはしく候。金は大火にも焼けず大水にも漂はず朽ちず。鐵は水火共に堪へず。賢人は金の如く、愚人は鐵の如し。

 貴辺豈眞金に非ずや。法華経の金を持つ故歟。経に云く、衆山の中には須弥山これ第一。この法華経も亦復是の如し。又云く、火も焼くこと能はず、水も漂はすこと能はずと。

 過去の宿縁追ひ来りて今度日蓮が弟子となり給ふ歟。釈迦多宝こそ御存知候らめ。在在諸佛土常與師倶生は空事にては候はじ。殊に生死一大事の血脈相承の御尋先代未聞の事也。此の文に委悉也、よくよく心得させたまへ。

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本文解釋

 日本国の一切衆生に、法華経を信ぜしめて、成佛の(種たる此の生死一大事の)血脈を継がせやうとするのに、(その)日蓮を種々の難にあはせて、とうとうしまひには此の(生きて再び還れぬと云ふ佐渡の)島まで流罪した。(なんといふあはれな日本であらうぞ)。

 そんな中に貴辺は(此の島ではじめて値つたのに)日蓮に随順して、又(法)難にまで値はれたことは、(まことに健げなその)心中を思ひやると、(却って)いたはすおもはれる。黄金は大火の中にすら焼けず、大水の中へ浸しても漂はず朽ちもしない。(同じ金属で、なかなか用に立つ)鐵は水(に中にも)、火(の中にも)共に堪へない(で焼け朽ちる)。賢人は金のごとく(諸の障難にも佛法の信を失はず)、愚人は鐵のごとく(障難に値へば信を亡ふ)。貴辺はなんと眞の黄金(の如き人)であらるるではないか。(それも)法華経の黄金を持たるるからであらう。経(の薬王品)に衆の山の中には、須弥山が第一である。是の法華経も、亦復その如く(云々)といはれ。又、火も焼くことはできない。水も漂はすことはできないといはれてある。

 過去の世における因縁が、自ら追ひ来って(われ)日蓮の弟子となられたのであるか。釈迦多宝こそ(其の因縁を)御存知であるでせう。(法華経の化城喩品に)在在諸の佛土に、常に師と倶に生れると(いはれて)あるのも、むなしいいつはり事ではあるまい。(今おん身とわれ等とがこれではなからうか)。殊に生死一大事の血脈相承の御尋ね先代未聞の事である。此の文に委しく悉してあるから、(文は短くとも)、よくよくその義をお心得なさい。

     (二十五)

本文解説

 正宗分の第一大段に、證法に約して生死一大事の血脈を説かれてあるところには、つぎの節に教相に返りまた更に教證二道を融即して収められてあった。この行法に約した生死一大事のところにも、前號に講じた本文のつぎに、現在の行者に約して、生死一大事の修行を説き、更に過去の因縁にさかのぼりて、現在の法難に対しての内證安心を示されたものが今此處に講ずる文であります。

 聖人と同意して、弟子檀那が異體同心に南無妙法蓮華経と唱へるならば、その唱へる處すぐに生死一大事の血脈を得ているのであります。それ等の弟子檀那が増せば、おのづから日本一同も、世界一同の広宣流布も事実にすることができます。おこでまづ日本国の一切衆生に法華経を持たせて、成佛の血脈を継がせやうと弘通するこの日蓮を、かへりて種々の難にあはせて、此の島まで流罪した。最蓮房おん身も日蓮に同意して又法難に値うたが、いかなる難にもその信念安心の動かさないことは、黄金が、大火の中に焼けず、大水の中に漂はず朽ちないやうに、きらきらと輝いて少しも変質しないで居る。これ生死一大事の血脈を修行して居るのではないか。生死の難をおそれず、安住して動かざること須弥山の如くなるを得て居るのではないか。これ日蓮と実に同意同心の修行をして居るのではないか。「涅槃経」の金言によれば、最蓮房おん身はまことの賢人であるわいと称讃せられて居ます。これは実際の修行に約していはれたのであります。

 つぎに過去の宿縁をおひ来りて、日蓮が弟子となりたまふかといふよりは、依経開解による内證を述べられたのであります。在らゆる諸の佛土に、常に師と共に生ずとあるから、過去におん身は、わが教へを受けられたので、その昔の因縁によって、今わしの化導をたすけやうとて此處へ来たのではないか。おそらくはさうであらう。それは釈迦多宝こそ御存知の筈であるとは、聖人みづから地涌の上首上行菩薩の自覚に居られるのであるから、最蓮房上人をも、また地涌の菩薩の一員にも擬せられたのであることは文にありて顕然であります。

 殊に生死一大事の血脈相承のお尋ねは、先代に未だ聞かない事である。此の文に委しく悉したからよくよくその義を心得よとありますが、生死一大事の血脈を尋ねるといふことは、これはあの頃の真面目な佛法者であれば、誰でもみなそうなのであります。生死一大事の血脈がわからない、得られないから、それで極楽世界の阿弥陀さまの御厄介にならうとなったのであります。それゆえおそらく、『先代未聞の事也』とありますのは、生死一大事の血脈相承を尋ねらといふことを讃られた御意味でなくて、生死一大事血脈の御尋ねがあった。それについて今此に答へるところは、先代未聞の事であるとの御意味であらうとおもはれます。さう拝した方が『此の文に委悉也、能々心得させ給へ』とあるのにすぐ続きますから、文も便であり且義も便であります。此の御消息のやうに、證道、行道、教道の三重に生死一大事の血脈を、法華経によって説かれたことは、断じてない筈であります。全く以て『先代未聞のこと』であります。

     (二十六)

 ここに私共は最蓮房について考へて見たいのであります。この人は十七の歳に出家して、それから後は清浄な離非梵行(非梵行を離れた)の僧であったことが知れます。それが何かの罪、おそらくは連座か何かの罪(聖人の御書にあらはれた最蓮房は、世間の罪など犯す人格ではないのであります)で、聖人よりも先に佐渡に居て、聖人が流罪で塚原に行かれたいくばくもない頃から、すでに聖人に注目し、この御消息をたまはつた、二月十一日までに、此人は日蓮の黨與となったとて何等かの法難に遭ふたことは、聖文に明かであります。かやうに佐渡へ聖人がおいでになると、待って居ましたといふやうに此の人が既に待って居て、そのために聖人は甚深の法門を多くお伝へになることができたのであります。

 あれやこれやをおもひ見ますと、聖人の御事跡は、まるでこさへたやうに出来て居ます。それでもみな自然なのですから致し方がありませぬ。古人は最蓮房は日浄といふから、浄行菩薩の化身でないかなどとすらいったのであります。まことに浄きこと蓮華のごとき聖者であります。

 大聖人は上行菩薩の應化と申しますが、圓教の四十位は、一即一切であって、一位に四十位を具へるのであります。されば聖人には、智慧光明日の照らすが如き辺も、清透浄潔蓮華の淤泥に染みざるが如き辺も、安立不動須弥山のごとき辺も、遊行無畏風の空中を行くが如き辺もあらせられます。上行(十住)無辺行(十行)浄行(十回向)安立行(十地)の四十位お十住の初めの初住に収めた法門と同じであります。最蓮房のはその浄行の徳の流類示現でありませう。

     (二十七)

本文

 南無妙法蓮華経、釈迦多宝、上行菩薩、血脈相承と修行し給へ。火は焼き照すを以て行と為し、水は垢穢を浄むるを以て行と為し、風は塵埃を払ふを以て行と為し、又人畜草木の魂となるを以て行と為し、大地は草木を生ずるを以て行となし、天は潤しを以て行と為す。妙法蓮華経の五字以て是の如し。本化地涌の利益是なり。

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本文解釋 

 南無妙法蓮華経、釈迦多宝、上行菩薩、血脈相承を修行せられよ。火は焼くことと照すこととをその行とし、水は垢と穢とを浄くすることをその行とし、風は塵や埃を払ひ去ることをその行とし、又人間畜生や草や木の(呼吸となり)魂となることを行とし、大地は草木を生ずることを行とし、天は(一切のものを)潤すことをその行として居る。妙法蓮華経の五字も、また(此の地水火風空の五大の功徳の如く)是の如く(一切衆生を利益する)であらう。(これを人格的にすれば此の五字本法の功徳は、さながら)本化應化(の菩薩)の利益である。

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     (二十八)

本文解説

 この節は、教門に約せる生死一大事の血脈であります。

 南無妙法蓮華経は、申すまでもなく本門の法寶でありまして、釈迦、多寶は本門の佛寶で、上行菩薩は本門の僧寶なのであります。即ち本門の三寶によりて、生死一大事の血脈相承を伝へますることは、これ即教相門の法門であるのは、これまた見やすきところなのであります。

 そこで或はいふかも知れません。久遠実成の釈尊は、本門の佛ではあるが、多寶如来は果して本門の佛といひ得られるかどうか。本佛は唯一である、それは釈迦牟尼佛でなければならぬ。多寶如来のごときは、やはり一の迹佛ではないか。それは「法華取要鈔」に、

 教主釈尊ハ、五百塵點ヨリ已来、妙覚果満ノ佛ナリ。大日如来、阿弥陀如来、薬師如来等ノ、盡十方ノ諸佛ハ、我等ガ本師教主釈尊ノ所従等也。天月萬浮是レ也。華厳経ノ十方臺上ノ?廬遮那佛、大日経金剛頂経ノ両部ノ大日如来ハ宝塔品ノ多宝如来ノ左右ノ脇也。例セバ世ノ王ノ両臣ノ如シ。此ノ多宝佛モ、寿量品ノ教主釈尊ノ所従也

といはれてあるのに明です、今この迹佛をば佛寶に加へて、本門の三寶とするのは、いかなるわけでありますか。甚だ矛盾を感ずるやうにおもひますと。サテそこです。およそ法門は約束の不同によって異るものであります。今の「法華取要鈔」の本門の教主釈尊とは、直ちに本地に付いていはれたのであります。今この「生死一大事血脈鈔」の本門の佛とは、垂迹の釈尊を、本門能開能説の教主として取扱ったものであります。

 法華経の寿量品は、いかにして説き出されたかと申しますと、直接には本化の菩薩方が、地から涌出して、諸の菩薩の種々の讃法をもって佛を讃奉り、弥勒菩薩が、これいかなる菩薩だと驚いたといふのに因縁して居ます。然るに其の本化の菩薩は、遠く宝塔品の『誰カ此ノ娑婆世界ニ於テ妙法華経ヲ説カン。今正シク是レ時ナリ。如来久シカラズシテ当ニ涅槃ニ入ルベシ。佛、此ノ妙法華経ヲ以テ、付属シテ在ルコト有ラシメント欲ス』とある釈尊の付属の聲言に由来し、釈尊の付属の聲言は、多宝塔の涌出、分身の来集、釈尊の多宝塔中の並座に起るのであります。

 それゆえ多寶如来の塔の涌現がなければ、分身の来集も、二佛並座も、付属有在の聲言も亦ないのですから、地涌の菩薩も出て来ることなく、従って寿量品の顕本もないのであります。そこで此の多宝如来は、霊山虚空会の本門には、缺くべからざる佛なのであります。即ち霊山虚空会上の本門にありては・・・・・・・・・・・住迹顕本の重においては・・・・・・・・・釈迦多寶を以て、本門の佛寶とせねばならないのであります。それゆえに本門の本尊をば、「報恩鈔」に、

 一ニハ日本乃至一閻浮提一同ニ、本門ノ教主釈尊ヲ本尊トスベシ。所謂、宝塔ノ中ノ釈迦多寶、外ノ諸佛、並ニ上行等ノ四菩薩脇士トナルベシ。

ともいはれ、「本尊鈔」には

 其ノ本尊ノ體タラク、本師ノ娑婆ノ上ニ、宝塔空ニ居シ、塔中ノ妙法蓮華経(本門法寶)ノ左右ニ、釈迦牟尼佛多宝佛(本門佛寶)釈尊ノ脇士ハ上行等ノ四菩薩(本門僧寶)

とも仰せられてあります。

 そこで何故に本時の本門=即ち住本顕本の本門=を採らないで、霊山虚空会の住迹顕本の本門を、生死一大事の血脈の教門において採るのであるかといへば、これ実に本化の法門の厳密なる義学に表現せられつつあることの證でありますが、今はしばらく闕如して置いて、我等末法の衆生の生死一大事の血脈相承には、どうしても霊山虚空会の顕現の本門三寶を表とせねばならぬものだといふことを申しておきます。

     (二十九)

 つぎに火、水、風、地、空の順序で、それ等の功徳があげられ、妙法蓮華経の五字もまた此の五大の功徳のごとく、本化地涌の菩薩もまた此の通りの功徳があるといはれてあります。

 妙法蓮華経の五字を、地水火風空の五大に配する時は、空風火水地の順序のごとく排列し、「妙」は空大が一切を潤すが如く、萬法を功徳化する、「法」は風大の無辺に行きて礙ることがなきがごとく、一切の存在は、一として法のないものはない。「蓮」は火大の向上的に徹底せるがごとく、因行に譬へらるる葉の中から常に存在して果徳を示して居る。「華」は水大の浄化作用のごとく清浄なるものを表象して居る、「経」は地大の安立せるがごとく、常経にしてまた異変のないことを示されて居る。かくのごとく妙法五字は地水火風空の五大の徳を具へて居る。

 それと共に本化の菩薩は、また此の五大の中の、火風水地の四大を表徴とし、釈迦牟尼佛は、空大をその表徴とせられるのであります。

 「血脈鈔」の御文に、『焼き照す』ことを以てその功徳とせられた火大は「蓮」の字にあたり、上行菩薩の表徴である。煩悩の塵埃を焼き、無明の闇を照らす「火」の功徳であると共に、無限向上の性能を以て示されて居ります。上行の名はそれであります。これ日蓮聖人の表面的の御徳であります。

 更に『垢穢を浄むる』を以て其功徳とせられた水大は、「華」の字にあたり、浄行菩薩の表徴である。煩悩の垢を洗ひ、無明の穢を除きて、本地法性の清浄に化せしむる「水」の功徳であると共に、無限浄化の性能を示された居ります。法華の清浄は法界円融の清浄化であります。

 つぎに『塵埃を拂ふ』こと、『人畜草木の魂』となることを以てその功徳とせられた風大は、「法」の字にあたり、無辺行菩薩の表徴で、煩悩の塵を拂ひ、無明の埃を除き、法性本有の生命を増長する「風」の功徳であると共に、無辺の活動と充填とを示されたものであります。

 また『草木を生ずる』を以て行とするとせられた地大は、「経」の字にあたり、安立行菩薩の表徴である。法性の本地に安住する「地」の功徳であると共に、安固不動の真理の静寂性から萬法は発生するのであります。

 をはりに『潤』をもってその功徳とせられた空大は、「妙」の字にあたり、釈尊の表徴で、空大はよく他の四大を包容して之を功徳化すると共に、無辺無盡の包容と活動発生とを示されたのであります。

 すなはち地水火風空は、妙法蓮華経の五字の表徴であり、その妙法五字の人格的表現は、釈尊並に四菩薩であり、末法においては、一尊四菩薩の功徳を、まづ本化地涌上行菩薩によって顕発せらるのである。

 また此の四菩薩は、常楽我浄の四徳波羅密の人格化であり、三身即一の本佛釈尊は、三徳秘密蔵の人格化であり、一尊四菩薩の住處即ち常寂光土であります。即ち

 上 行菩薩・・・・・我   徳・・・・・火 大・・・・・蓮
 無辺行菩薩・・・・・樂   徳・・・・・風 大・・・・・法
 浄 行菩薩・・・・・浄   徳・・・・・水 大・・・・・華
 安立行菩薩・・・・・常   徳・・・・・地 大・・・・・経
 釈迦牟尼佛・・・・・大涅槃徳・・・・・空 大・・・・・妙

     (三十)  

本文

 上行菩薩末法今の時、此の法門を弘んが為に御出現之れ有る可き由、経文には見え候へども如何が候やらん。上行菩薩出現すとやせん、出現せずとやせん。日蓮先づ粗弘め候なり。相構へ相構へて強盛の大信力を出して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。生死一大事の血脈此より外に全く求ることなかれ。煩悩即菩提生死即涅槃とは是れなり。信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり。委細之旨又申す可し。恐々謹言。

 文永九年壬申二月十一日 桑門日蓮花押

 最蓮房上人御返事

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本文解釋 

 (末法の付属を受けた)上行菩薩は、末法今の時此の(教行證に渡った生死一大事の)法門を弘めるために御出現あらせられるといふことが、経文には見えているけれども(果して)どうなのであらうか。上行菩薩はお出ましになっているのでいるのだらうか、まだ御出ましにならないのだらうか、(それは解らぬがその法門は)日蓮先づ略ぼこれを弘めているのである。相構へ相構へて(どんなことがあっても)、強く盛んな大信仰の力をいだして、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念せられい。生死一大事の血脈は、此の(法門)より外に全く求めてはいけない。煩悩即菩提、生死即涅槃といふのはこれである(たとひ如何なる法門に通じていても)信心の血脈がなければ法華経を持つても、何の利益もないことである。委しいことは又又御話申上げる時があらう。恐々謹言。
 文永九年壬申二月十一日                  桑門日蓮花押

         最蓮房上人御返事

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     (三十一)

本文解説

 この節は流通分に属する處であります。経文によれば上行菩薩が、釈迦多寶の二佛の御付属をうけて、神力品の時、寿量品の名體宗用教の五重玄義の妙法蓮華経を、四句の要法に結んで受けとっていられる。そして末法の時に五逆謗法の衆生を救ふべく命ぜられている。されば屹度今の時この法門を弘めるためにお出現にならねばならない。それは経文に歴々と見えているが、果して出られているのだらうか出られていないのだらうか。それは今明さまに云ふべき限りではない。けれども事実は日蓮が先づ粗これを弘めているのであるとの仰せは、実にその背後に上行菩薩が必ず出現して、弘めらるべき法を事実に粗弘めている日蓮は即ち上行菩薩ではないかといふ意味が自ら示されています。

 それだからその直ぐ次に『相構へ相構へ強盛の大信力を出して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈はこれより外に求めるな』と仰せられてあるのです。次ぎに『煩悩即菩提、生死即涅槃とは是也』と仰せられてあるのは、之を妙法、釈迦多寶、上行菩薩の三寶に約すれば、吾等凡夫の生死の身、煩悩具足の心のまま此の本門の三寶を信じ奉る時、その心は菩提に化せられ、その身は、涅槃の大安楽に住することが出来る。

 またこれを行(妙法、大聖人、弟子檀那)に約すれば吾等生死煩悩の色心を持ち乍ら、大聖人の一天四海皆帰妙法、立正安国戒壇成就の御誓願に如同して、水中の魚の如く、大聖人の御心の中に這入り終った時、この生死煩悩の色心そのまま、菩提涅槃の色心となり得るのであります。又此を證(妙法、本佛、衆生)に約すれば、吾等衆生の生死煩悩の色心が三即一である。この身妙法であり、この心本佛である。その身のまま菩提である、涅槃であるといふ、この意義を指し示されたものであります。
 
     (三十二)

 元来生死一大事の血脈といふものは、天台宗等では一つの切紙相承の法門であって、所謂「立正観鈔」に『錦の袋を首にかけ、千金を以ても伝ふるなかれ』等といはれた種類の法門に属します。そこで或は誤ってこの教行證三種の生死一大事血脈を、唯の法門義学の分際に流してしまってはならない。法門義学は宗教の骨ではあるが、決してそれのみでは、生きた人間の活きた精神にはならない。法門義学が骨とすれば、それに対する信仰と體験とは肉であり、血であり、神経系統である。それだからこの深遠高妙なる法門をお伝へになると共に最後に『信心の血脈なくんば、法華経を持つとも無益なり』とお断り遊ばれたのであります。一語萬金よりも重しとは、実にか様なお言葉を形容すべきものであります。

 宗門に相承を論ずる時、直接師より弟子に伝へるのを師資相承といひ、天台大師が法華経の薬王品によって、自解佛乗したのや、伝教大師が天台の三大部を見て、入唐以前に自ら天台大師の弟子になったが如きは、これを経巻相承とおひます。この師資相承でも、経巻相承でも、信心相承の血脈を忘れたならば、全く何の意義をもなさなくなる。経巻によって或る悟りを開くことは、その経巻に対する深き明かなる信仰を要し、信心なしには経巻の義理は決して真実には解らない。また師資の相承にしても、弟子たるものが眞底からその師を信仰する心がなければ、決して師の有している功徳を受け伝へろことは出来ない。即ち信心が基であります。

     (三十三)  

 さればといって唯その師を信ずれば可いといふわけではない。人間は如何しても感情的なものだから、信仰といふものをも、何等理性の批判なしに取入れる場合には、却って信心によって自己のみならず多くの人々の誤りをも助長することになるかも知れない。

 日蓮聖人が、謗法を指摘せられたといふことは、この理性の批判なしに、信仰を大切とした誤りを剔抉せられたものである。故に涅槃経の法四依の第一には、法に依って人に依らずといはれてあります。法とは経巻相承の意味である。経巻相承に基づいて、依るべき法と依るべからざる法とを別ち、依るべき法によれるものを正しき師とし、依るべからざる法に依れるものを正しからざる師、即ち依るべからざる師とする、故に師資相承に於いては経巻相承が示した依るべき師を奉ずべきである。それだから信心は必ず経巻を根拠すべく、決して人間を根拠とすべきでない。

 今この生死一大事血脈鈔に信心血脈を主とせられたのは、単なる理性ぬきの感情的の信仰ではない。法華経の示した真理と預言とを前提とせる信仰を意味するのである。それは教義は骨であり、信仰は血であり、その骨は教義として一定不変に示されたから、その後はこれを信じる、信じないに依ってその教義が活躍するかしないかといふ問題であるから、幾ら完全無欠の法華経の教義があっても、又その教義に更に理性的に屈服するものがあっても、人格的にこれに信頼し、基準とする即ち信仰するといふことがなければ、法華経は人間化しないのである。即ち人間に無益なのであります。故にそれを最後に特に注意せられたものであります。

 宗教が信仰を主とすることは勿論であるが、而もその信仰の内容が何であるかといふことが重大な問題なのであります。この點を考へないと、信仰は何でもよい、ただ正直に強くさへ信じて居ればよいのだといふやうなことをいって平気で居るのであります。若しそんな事で宗教がすめば、日蓮聖人の四大格言の如きは、まったく非宗教的の甚しいものであるとなる。宗教はしんこうではある。けれどもその信仰の内容は、円満なる智慧慈悲誓願の具體化せられたものでなくてはならないのである。

     (三十四)

 以上で生死一大事血脈鈔の御文に臨んでの一往の解釋をなし果てたと存じます。ここには結論として、この鈔の含むところの、日蓮主義の三方面について申上げておきたいと思ひます。

 日蓮主義の三方面とは、熟語で申せば約教の法門即ち教相面よりの観方、約行即ち修行面よりの観方、約證の法門即ち證道面よりの観方であります。約教即ち教相面といふのは、前にもいひましたやうに、現代の語で申せば、超越的宗教であります。或は佛教に超越的宗教があるべき訳がない。佛教は汎神的内在的宗教であって、断じて一神的超越的宗教ではない筈であるといふかも知れません。けれどもそれは普通の大小乗の佛教をいったので、決して法華本門寿量品より生ずる別頭佛教即ち特別佛教を律することはできないのであります。

     (三十五)

 佛教中でも浄土真宗は、よほど一神的、超越的であって、現に倉田百三君がキリスト教の概念を基として、これを芸術的に表現した「出家とその弟子」が、兎に角今の人の大多数に読まれた事実によっても證し得られる。とても伝教大師や弘法大師や日蓮聖人や道元禅師を材料としては、あの様な事が書けないのはもちろん、法然上人すら、あの材料にはならない。それはより多く真宗の教義に超越分子、一神分子があるからで、その超越分子、一神分子はなにから出たかといふと、「口伝鈔」に、

 「久遠実成の弥陀をもて、報身如来の本體と定めて、これより應迹を垂る、諸佛通総の法報應等の三身は、みな弥陀の化用たりといふことを知るべきものなり。しかれば報身といふ名言は、久遠実成に弥陀に属して、常住法身の體たるべし、通総の三身は彼より開 き出す所の、浅近の機に赴く所の作用なり。」

とある。即ち阿弥陀佛を以て、常住法身の體、諸佛三身の本源、久遠元初の報身如来の本體、と定めたもので、眞に佛といふものは、この報身の弥陀より外にはない事になる。そしてその報身の弥陀は、西方極楽浄土に居て、この娑婆世界から、超越しているのである。即ち一神的にして同時に超越的である。

 然るにこの久遠実成の阿弥陀といふのは、一切経の中いかなる経の中にも説かれては居ない。それでは真宗の開祖たる親鸞聖人の全き捏造に属するものかといふと、さうでもないのであります。これは一切経にはないが、唯、不空三蔵の「法華経観智儀軌」と名づけるものに、『無量寿命決定如来の真言を説け』といふkとがあって、その無量寿命決定如来とは阿弥陀佛であるといふ説から(阿弥陀佛でないとの説もあるのだ)寿量品の五百塵點久遠実成の三身如来は、即ち阿弥陀佛であるとした。それだから我が日蓮聖人は、『不空三蔵は寿量品を阿弥陀佛とかけり、それらはいふに甲斐なし』と貶せられてあります。

 所が不空三蔵の孫弟子の弘法大師は、「法華開題」の中に『佛に約すれば阿弥陀、法に約すれば法華、僧に約すれば観音、この三寶一體なり』と説いている。弘法は我が日本に於いては、佛教上の最大学者の如くに妄信されて来たものだから、その以後の人達は、皆寿量品の佛は即ち無量寿如来(阿弥陀佛)だと考へて仕舞ったのです。また一面には寿量品の本文に、久遠実成を説いた後、『一切諸佛の法も皆是の如し』と説かれてあるからといふ意味で、叡山の檀那院覚運等は、五百塵點久遠実成釈迦牟尼佛を認めると同時に、五百塵點久遠実成阿弥陀佛を認めて居ります。然るに「口伝鈔」等は、不空や弘法や、覚運の一方の説を金科玉条とし、釈尊の久遠実成を否定して居ます。親鸞作といふ「弥陀和讃」に、『諸経の意によりて』とことはり、

 『久遠実成阿弥陀佛、五濁の凡愚をあはれみて、釈迦牟尼佛としめしてぞ、伽耶城には應現する』

といひ、却って釈尊を以て阿弥陀の垂迹であると断じている。是の如きことは、法相謬乱の甚だしきもので、諸経の意とはあるが、如何なる経にも、釈尊は久遠の弥陀の垂迹だ等といふ文義は、一字一句もないのです。五百塵點久遠実成は、一切経五千七千巻のなか、唯法華経の如来寿量品にあるのみで、如何なる経にもその片影だもない。そして寿量品には明らかに、『我常にこの娑婆世界にあり』とも、『常に霊鷲山にあり』ともいはれ、その本佛の脇士たる本化の諸菩薩は、『この娑婆世界の下方の空中にあって住せり』ともあり、娑婆世界の佛たる事は蔽ふべからざるものであります。況んや神力品の『十方の世界通達無碍にして一佛の如し』といはれてあるが如きは、明かに十方世界、諸佛の統一を示された説相であります。それを阿弥陀佛とした不空三蔵は、殆んど菽麦不辨の人であるから、日蓮聖人は『いふに甲斐なし』と貶せられたのであります。

 かくの如く真宗が超越的一神教的になっているのは、寿量品の本佛観を阿弥陀佛に嫁せしめたおかげなのであって眞の超越的一神教的の佛身観は、正しく法華経本門寿量品の妙法蓮華経如来、迹の名は五百塵點久遠実成釈迦牟尼佛なのであります。今日蓮聖人の宗教は、この寿量本佛を以て、教相の主とするから、大聖人の御妙判中、釈尊をお呼びなされる所には、大抵『教主釈尊』『教主大覚世尊』『本門寿量品の教主釈尊』といはれてある。即ち日蓮主義の教相面に於いては、超越的の本佛は、一神教的の本佛の尊崇の対境とするのであります。此の方面では、日蓮主義の宗教は、キリスト教や、浄土真宗の宗教的専注、宗教的渇仰、宗教的服従、宗教的??の類の中で、最も純粋なる部面は発揮しなければならない筈であります。かの日蓮大聖人の『一切の衆生はにくまばにくめ、釈迦、多寶、十方の諸佛に讃められ奉れば、いかんがくるしかるべき』の如きは、此の義であります。』
 
     (三十六)

 又更に佛教の一方面として純粋なる内在神教、汎神教としての禅宗があります。禅宗では佛も外にあるに非ず、妙法も外にあるに非ず、我が身これ佛身、我が心の佛性これ即ち妙法なり。我が心の佛性を実に自ら見得たるものを成佛の人とする、諸の経論釈義語録は、悉くこれ魚を得んがための筌、兎を捕へんがための蹄である。荘子がいったやうに、魚や兎を獲れば、筌を忘れ、蹄を忘れてよい。筌や蹄は魚を獲るの方便であって若し魚を獲、兎を獲る能はずとすれば何の役にも立たない不用なものである。然るに世の佛教を学ぶもの、その筌たり蹄たる経論を大切として、魚たり、兎たる我が心の佛性を重んずる事を忘れている。わが心の佛性だに。捕へる事が出来れば、その方法は時に随ひ、機に應じて、何でもよいのである。必ずしも佛を禮し、経よ誦む等といふ事のみが唯一の途ではない、経論といふものはよくその心を得て用ふれば佛性を見得る正しい道であったけれども、それが正しい道だと定った為に、つひつひ佛を禮し、経を誦むこと、そのことがそのままで佛性を見る力があるものとのみ誤解した。即ち自ら内なる佛性を如実につかまへる事を忘れた。その弊を破るために教外別伝不立文字直指人心見性成佛、と立てたのであります。これが禅宗主張の純味なのであります。

 然しながらいかに禅宗が内在的汎神教を振りまはしても、大體それは釈尊の方で、一切衆生はみな佛性ありといふ保障をせられたのでなければ、何の力もないことである。佛教は達磨の教ではなくて、釈尊の教なのであるから、達磨や慧可や慧能などの語が、最後の證権とはならないのであります。そして一切衆生が悉く成佛うるといふ宣言と、其の実例と、並に一切衆生の中に、成佛しないものがあるといふ教義に対する究竟の開顕とを遺憾なく持ったものは、一切経の中に法華経の外はないのであります。あおれゆえに支那の禅宗の祖師の中では、或は華厳に依り、或は天台に依るものがありますが、我が道元禅師が入宋した時分には、法師といへば教相学者であって天台、禅師といへば坐禅の師家であって達磨宗、律宗といへば戒律の師であって南山宗であったと、道元禅師自ら書いて居るのであります。そこで道元禅師は、法華経を以て三世諸佛の出世本懐であり、佛の随自意の経であると屡いって居ります。

 内在的汎神的なる佛教の根拠は、法華経に拠らねばならない。然るに末の禅宗等は法華経を月を標す指とし、反古紙にひとしとして、却って何々禅師の語録などを尊びます。これ自ら其の宗源を忘れたものえ、聖祖は法華経によって心と佛と衆生との一體なることを示して證門の生死一大事を明されました。これ内在的汎神的思想の開顕であります。

 更に真言宗や律宗やの実行実現の宗教心を開顕し統一するために、行に約した生死一大事が教へられて居ります。真言宗は身口意の三業、本尊の種子と真言と印像との三密とに合致して即身成佛することを教へ、律宗は戒法遵奉を以て自然に法にかなふことを教へるのであって、ともに実現の宗教なのでありますが、聖人は本門の戒壇を説いて、身口意三業の一致、人法の一致、約身、約家、約国、約世界の一致を示されて居ります。此の真言及び律宗に対する開顕は別に説く機会があるつもりであります。

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 嘗てしばしばいひましたとほり、超越的宗教と、内在的宗教とは、他に類似のものがあります。が、日蓮聖人の実現的宗教は、全く他の宗教に類を絶したものである。而して此の三の方面が、若し約教即ち超越的方面からは、内観も実行もともに本佛如来の加被力に収まり、内在的の方面からは、その超越的本佛も、実現的本化も、ともに自心に収まり、実現的の方面からは、本佛も心法妙もみな本化の力に待つものであるといふ。円融無碍の法門が日蓮主義の真髄で、文上の法華経には、いまだ明ならざるところであります。(完)